和平合意とその挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 08:59 UTC 版)
「シモン・ペレス」の記事における「和平合意とその挫折」の解説
1992年、首相に就任したラビンはペレスを外務大臣に任命し、ヤーセル・アラファート率いるパレスチナ解放機構と和平交渉を進めさせる。元参謀総長であるラビンは国民から幅広く信頼されていたため、和平に反対する右派を抑え込むことができた ペレスの尽力によりイスラエル・パレスチナ間で和平合意がなされ、ノルウェーのオスロで「暫定自治政府原則の宣言(オスロ合意)」が締結された。1994年にはヨルダンとの平和条約に調印する。これらの功績により、ペレスはラビン、アラファトと並んで1994年ノーベル平和賞を受賞した。しかし、1995年11月4日にラビンはテルアビブで和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミルに射殺されてしまう。緊急閣議で副首相・外相だったペレスが暫定内閣の首相代行に就任した。 ペレスは弔問に訪れた各国首脳に対し「和平推進が究極の使命」と述べ、ラビンの路線を引き継ぐことを明言した。ペレスへの支持率は54%に達し、最大野党リクードの党首であるベンヤミン・ネタニヤフを大きく引き離した。和平賛成派も51%から74%に急上昇した。 しかし、首相に就任したペレスは様々な勢力からの圧力にさらされる。左派はラビン暗殺の責任を彼に負わせようとし、イスラエルとの和平に反発したパレスチナの過激派がテロを起こし、ネタニヤフはそれを材料に労働党政権を批判した。さらにレバノンのヒズボラもイスラエルを攻撃し、ペレスは反撃を指示する。この時、民間人に死傷者が出たため、アラブ系イスラエル人から不信感を買ったとされる。1996年、首相公選でネタニヤフに1%差で敗れ、政権を失う。ペレスは直前まで支持率で10ポイントもリードしていたが、討論会でテレビ映えするネタニヤフに逆転された。 ペレスの跡を継いだネタニヤフも、その次に政権を採った労働党のエフード・バラックも和平を実現することはできなかった。2000年の大統領選でペレスは勝利は確実視されながらリクードの推すモシェ・カツァブに逆転を許す。2000年に第2次インティファーダが起きてからは、ペレスはイスラエルとパレスチナの関係強化を目指す非政府組織「ペレス平和センター」や民間プロジェクトに活動の軸足を移した。 2001年の首相公選で、リクードのカリスマ的指導者アリエル・シャロンが政権を獲得する。
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