和平協定成立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 10:21 UTC 版)
「キュー・サムファン」の記事における「和平協定成立後」の解説
1991年11月27日、キュー・サムファンはバンコクからカンボジアに帰国した。しかし、サムファンの乗った飛行機がポチェントン国際空港に着陸した途端、罵倒し傷付けようとする怒れる群衆に遭遇した。サムファンが市内に出ると、別の群衆が事務所に向かう道筋に並び、車に物を投げ付けた。事務所に到着すると彼はすぐに事務所に入り、直ちに中国政府に救援要請の電話を掛けた。それから間もなく、怒れる暴徒は建物内に殺到し、サムファンを追い求め、天井のファンに吊し上げようとした。結局キュー・サムファンは顔を血塗れにして梯子から脱出でき、直ぐにポチェントン空港に向かい、そこからカンボジアを脱出した。暴動はプノンペン政権により抑え込まれ、12月30日にようやくサムファンを含めたSNCプノンペン初会合は開かれた。 しかし、クメール・ルージュは選挙をボイコットし、武装闘争を継続した為に非合法化された。1997年6月12日、ソン・セン粛清を機にタ・モクらが反乱を起こすと、ポル・ポトと共にジャングルに逃走したが追い詰められ、6月18日に投降した。以降、クメール・ルージュはタ・モクとヌオン・チアの支配下に置かれたが、ラナリットと交渉する必要から、サムファンは拘束されずに名目上の指導者とされた。 その後、政府軍の攻勢と派内の分裂の結果、1998年12月にヌオン・チアと共に政府に投降した。 2003年12月、公開文書で、民主カンボジア政権下での残虐行為の存在を認めた。しかし、これは1975年から79年までの200万人近くの人民への犯罪行為の責任を認めたものではないとし、自分の責任を否定した。 2006年8月29日の共同通信との会見でも、改めて虐殺への自身の関与を否定した。
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