和平交渉決裂・南京占領
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上海攻略後、日本は和平工作を開始し、1937年11月2日にディルクセン駐日ドイツ大使に内蒙古自治政府の樹立、華北に非武装中立地帯(冀東防共自治政府があった場所)、上海に非武装中立地帯を設置し、国際警察による共同管理、共同防共などを提示し、「直ちに和平が成立する場合は華北の全行政権は南京政府に委ねる」が記載されている和平条件は11月5日にトラウトマン駐華ドイツ大使に示され、「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告したにも関わらず蔣介石はこれを受理しなかった。蔣介石が受理しなかったのは11月3日から開かれていたブリュッセルでの九カ国条約会議で中国に有利な調停を期待していたためとされるが、九カ国条約会議は日本非難声明にとどまった。その後、トラウトマン大使は蔣介石へ「日本の条件は必ずしも過酷のものではない」と説得し、12月2日の軍事会議では「ただこれだけの条件であれば戦争する理由がない」という意見が多かったこともあり、蔣介石は日本案を受け入れる用意があるとトラウトマン大使に語り、これは12月7日に日本へ伝えられた。その後、日本は南京攻略の戦況を背景に要求を増やし、賠償や永久駐留や傀儡化を含む厳しい条件にした。結果、日中和平交渉は決裂した。 1937年11月5日 - 日本軍第10軍、杭州湾に上陸。11月7日 - 中支那方面軍編成。 11月8日 - 日本軍(北支那方面軍)、太原占領。 11月9日 - 蔣介石、上海から撤退命令。 11月11日、日本軍、上海の最後の拠点南市を占領する。同日、スターリンは蔣介石に即時参戦の拒否を伝え、中国が不利になればソ連は日本と開戦すると述べた。 11月19日には中支那方面軍が蘇州攻略。 11月20日 - 日本、大本営設置。同11月20日、国民政府(蔣介石)、南京より重慶移駐を決定。 11月21日、ソ連機が南京で対日戦に参加。12月末までに南京のソ連義勇兵は3665人となった。 11月22日 - 日本、内蒙古に蒙疆連合委員会(中国語版)を樹立させる(後に蒙古連合自治政府)。 日本軍中支那方面軍、11月27日に無錫、11月29日、常州を攻略。11月28日、日本軍は上海の電信、無線局、中国政府機関を押さえた。 南京戦 詳細は「南京戦」を参照 12月1日 - 大本営、中支那方面軍に南京攻略を許可。 12月1日 - 蔣介石からの参戦の催促に対してスターリンは、日本の挑戦もなく参戦すると侵略行動とみなされ、国際世論で日本が有利になると答え、単独参戦を拒否した。 12月10日 - 日本軍(中支那方面軍)、南京攻撃開始。 12月12日 - 中華民国(国民党)軍南京防衛司令官の唐生智大将が南京から逃走。同日、パナイ号事件が起きるが、アメリカは日本側の謝罪と賠償を受け入れた。 12月13日 - 日本軍が南京を占領した。国府軍捕虜、敗残兵、便衣兵、民間人の大量殺害や強姦を日本軍が行ったとする南京事件が起きたが、事件について論争がある。 12月14日、日本、北京に中華民国臨時政府を樹立。 12月17日、中支那方面軍、南京入城式。12月18日、日本の陸海軍合同慰霊祭を南京故宮飛行場において挙行。 12月23日、南京で自治委員会が設立、治安が回復する。 華北 華北では12月23日、第十師団が黄河を渡り、12月27日には山東省済南を占領、翌1938年1月11日には山東省済寧を占領する。 1938年1月1日、南京自治委員会の発会式が挙行される。1月10日 - 海軍陸戦隊が青島を占領。 1月11日 - 御前会議、「支那事変処理根本方針」を決定。 1月16日、日本政府は「国民政府を対手とせず」の声明(第一次近衛声明)を出し、日中和平工作が打ち切られた。 2月7日 - 中ソ航空協定締結。3月1日、中ソ間で3000万米ドルの借款が締結された。1937年9月から1941年6月までの間にソ連は中国に、飛行機924機(爆撃機318、戦闘機562ほか)、戦車82両、大砲1140門、機関銃9720丁、歩兵銃50000丁、弾薬1億8000万発、トラクター602両、自動車1516両であった。 2月14日 - 中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍を廃止、中支那派遣軍が編成される。 3月28日 - 日本、南京に中華民国維新政府を樹立させる。 4月1日 - 日本、国家総動員法公布。
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