和平交渉決裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:16 UTC 版)
1983年には、中国とチベット亡命政府との和平会談は最終決裂する。改革開放政策の反動として、中国共産党は精神汚染撲滅運動を実施。同1983年11月にはラサだけで750人が政治犯として刑務所に収容された。 チベット内部で弾圧が継続される一方、開放路線および観光政策は功を奏し、1985年には個人旅行も許可され、1987年には4万7千人の観光客がチベットを訪れた。個人旅行者はチベット人から熱烈な歓迎を受け、チベット人が「Chinese No Good!」と叫ぶのを耳にしたといわれる。1985年7月に5回目のチベット亡命政府視察団派遣が実現したが、それ以降は全く許可されていない。 胡耀邦は保守派の巻き返しにあい、1987年1月16日の政治局拡大会議で更迭された。それにともない、チベットの開放政策も撤回された。 1987年3月、パンチェンラマ10世は北京の全人代チベット自治区常務委員会において、中国政府のチベット政策を批判した。 1987年9月21日、ダライ・ラマ14世はアメリカ議会で演説を行い、「五項目和平プラン」を提示する。 チベット全土を平和地帯とすること。 民族としてのチベット人の存在を危うくする中国人の大量移住政策の放棄。 チベット人の基本的人権と民主主義自由の尊重。 チベットの環境の回復と保護。中国がチベットを核兵器製造及び核廃棄物処分の場所として使用することの禁止。 将来のチベットの地位、並びにチベット人と中国人の関係についての真摯な交渉の開始。 この演説に対して中国政府はダライラマを分離主義者として非難し、アメリカ政府へも抗議する。
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