和平会議の開始と戦争の行方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 00:43 UTC 版)
「三十年戦争」の記事における「和平会議の開始と戦争の行方」の解説
1640年頃から皇帝は和平に向けた動きを見せ始めるが、その高圧的な態度に応じる勢力はいなかった。しかもスペイン軍は、この時期からフランス・オランダの前に敗退を重ね、没落の兆しを見せていた。なおこの年、スペインのくびきを脱したポルトガル王国が独立し(ポルトガル王政復古戦争)、さらにカタルーニャも反乱をおこし、スペインは苦境に立たされた。またフランス軍がピレネーに進出し、ドイツ方面へ軍を派遣できなかった。帝国等族は皇帝軍からどんどん脱落していき、1640年にはブランデンブルク選帝侯ヴィルヘルムがスウェーデンと休戦条約を交わした。バイエルン公は同年ニュルンベルクで選帝侯会議をひらき、翌年のレーゲンスブルク帝国議会では皇帝と諸侯にフランスとスウェーデンとの交渉を委任した。1641年12月には、フランス、スウェーデンとの講和会議が決定されたが、調停や権利要求で紆余曲折をして、議事は進まなかった。 1642年、皇帝軍はブライテンフェルトの戦い(ドイツ語版)で再びスウェーデン軍に敗北、さらに逼迫した皇帝は和平の道を模索し始めた。この頃になると、帝国全体で厭戦気分が蔓延するようになる。1642年の暮れにはライン川の両岸で和平会議が設置されたが、1644年にようやく交渉が開始される。しかし、交渉を優位に運ぶために、戦争を終わらせるための戦いが激化するという矛盾した状況になっていく。 帝国法(ドイツ語版、英語版)(独: Reichsunmittelbarkeit)によって国際会議は設置されたが、戦争の主導権を奪い返したスウェーデンが和平会議も牛耳って行く。この時期フランスでは、1642年に宰相リシュリュー、翌1643年にフランス王ルイ13世が相次いで死去した。リシュリューの政策は新宰相ジュール・マザランに引き継がれるが、新国王ルイ14世はまだ幼く、フランス国内は不安定となった。そのためマザランは、引き継いだ政策のうち「国王を神聖ローマ皇帝に」という野心を放棄せざるを得なくなる。しかし、1643年にフランス王族のアンギャン公ルイ・ド・ブルボン(後のコンデ公ルイ2世)がロクロワの戦いでスペインを殲滅、さらに1644年のフライブルクの戦いでカトリック軍の中心であるバイエルン軍を破ったことで、フランスは三十年戦争における勝利を確実なものとした。
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