日本の挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 16:00 UTC 版)
1970年代の末頃、日本経済の急速な成長がアメリカの研究者達の関心を惹きつけることとなった。鉄鋼、時計、造船、カメラ、自動車、電気機器など様々な産業で、日本企業が欧米企業を追い抜いていったからである。日本企業の成功について、以下のような多くの主張が展開された。 従業員の高いモラル、献身性、忠誠心 賃金を含む低コストな産業構造 効果的な政府の産業政策 第二次世界大戦後の近代化が導いた高い資本集約と生産性 拡大する輸出を背景にした規模の経済 相対的な円安が導く低金利、低資本コスト、低い配当期待、安価な輸出 これらの説明は部分的には真実を指摘していたとはいえ、何かが欠けていたのは明らかだった。実際、1980年代には日本のコスト構造はアメリカより優位にあったとは言えなかったし、40年以上前の第二次世界大戦後の急速な経済復興を当時の日本企業の成功に結びつけるのは無理があった。 1981年、リチャード・パスカル (Richard Pascale) とアンソニー・アトス (Anthony Athos) は、著書 The Art of Japanese Management の中で、日本企業の成功の主たる理由はその優れたマネージメント技術であると主張した。彼らはマネージメントを戦略・構造・システム・スキル・スタッフ・スタイル・共有価値の七つの次元に分け、戦略・構造・システムをハードウェア的要素、スキル・スタッフ・スタイル・共有価値についてはソフトウェア的要素へと分類した。彼らは、アメリカの企業はハードウェア的な要素においては優れているが、ソフトウェア的な要素においては優れているとは言えないと主張した。アメリカ企業は企業風土や共有価値、職場の社会的凝集性には重きを置いていなかったのである。日本では、マネージメントとは単に仕事上の管理にとどまらず、より複雑で広範な要素(たとえば人間の欲求・経済・社会・心理・精神など)を幅広く管理することであると考えられていた。一方、アメリカでは、マネージメントは仕事上の管理にとどまり、仕事以外の人生とは区別されて考えられていた。アメリカ人が、職場とそれ以外の場所では全く違うパーソナリティを見せることはごく普通のことであった。パスカルらは、日米の意志決定スタイルの違いにも注目し、階層型のアメリカと合意型の日本を区別した。また、アメリカ企業は長期的視野を欠き、 マネージメントの流行や理論をばらばらに取り入れてしまう傾向があると指摘した。 1982年、マッキンゼー・アンド・カンパニー東京支店長であった大前研一によって The Mind of the Strategist がアメリカで出版された。大前は、アメリカの戦略は過度に分析的であると主張した。大前によれば、戦略は直感と知的柔軟性を必要とする、創造的なアートであるべきだという。彼は、アメリカ人は分析的な技巧や縛られてしまっていると唱え、曖昧さや合意を重視する日本の文化と、素早い意志決定を評価するアメリカの文化を比較した。 同じく1982年、トム・ピーターズとロバート・ウォーターマンが、日本企業の挑戦を真っ向から分析する In Search of Excellence (邦訳『エクセレント・カンパニー』)を著した。パスカルやアトスとマッキンゼーで協働した経験もある彼らは、「何が優れた企業を生み出すのか」を問うた。彼らは優秀だと思われる62の企業の中からさらに43社を選抜し、重要な経営陣にインタービューを重ねた。その結果、彼らは優秀な企業に共通する8つの特徴を発見した。 行動の重視:やれ。試せ。レポートや会議で、学習する時間を無駄にするな。 顧客に密着せよ:顧客に近づき、顧客を知れ。 自主性と企業家精神を維持せよ:大企業であっても、権限を与えれば社員は独立心を持って活動する。 人を通じて生産性を向上させよ:敬意を持って社員に接せよ。さすれば彼らは生産性をもって企業に報いる。 価値観に基づく実践を広めよ:価値観を社内に広めよ。 基軸事業から離れるな:やるべきことだけをやれ 単純な組織・小さな本社を維持せよ:複雑さは無駄と混乱を呼ぶ。 厳しさと緩やかさの両面を同じに持て:きちんと掌握し、同時に最大限の自主性を認めよ。 この様に、日本企業といかに競合するべきか、徐々に理論の青写真が描かれていった。だがJ. E. Rehfeld (1994)は、日米の文化は異なるので日本のマネジメント手法を米国に導入することはそう簡単なことではないと説明した。様々な文化に特有のマネージメント手法を知識として獲得するため、特殊な錬金術が必要であった。彼は、「日本のカイゼンは日本の文化において機能するものだから、そのままアメリカに持ち込んでも意味がない」と論じた。 2009年、産業コンサルタントのMark BlaxillとRalph Eckardtは、1970年代の日本経済の隆盛は、連邦取引委員会とアメリカ合衆国司法省による競争推進政策が直接の原因だと主張した。1975年、連邦取引委員会はゼロックスと独占禁止法訴訟について和解し、主として日本企業に同社の特許のライセンシングを強制された。その後の4年間で、ゼロックスのコピー機のシェアは100%から14%にまで落ち込んだ。この一連の行動は、連邦取引委員会とアメリカ合衆国司法省による競争管理の始まりだった。ゼロックスに続き、IBM、AT&T、デュポン、ボシュロム、コダックなどが有する何万もの特許が、連邦取引委員会とアメリカ合衆国司法省の影響により、非常に安いコストで日本企業に提供された。1950年から1980年にかけて、日本企業はアメリカ企業が保有するものを中心に35,000もの海外特許を利用した。競争の活性化が経済の成長に繋がると信じて独占禁止法を推し進めた経済学者達はその後、日本企業の成長と米国製造業の凋落に直面することになった。
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