アメリカの戦略
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アメリカ合衆国の月探査計画は、アメリカ合衆国第34代大統領ドワイト・D・アイゼンハワー政権下より開始された。週刊誌コリアーズの1950年代半ばに連載された記事は、ヴェルナー・フォン・ブラウンが月面における宇宙ステーションを建設するための、有人宇宙探査隊の概念を社会に広めたと報じられていた。ところが有人月面着陸の思想は、アメリカとソビエトの間で技術的挑戦への挫折を引き起こした。加えて、奪格的な過熱状態を伴わない大気圏再突入の方法など、技術指導や重量処理は大きなハードルであった。ソビエト連邦がスプートニクを打ち上げた後、フォン・ブラウンはアメリカ軍部へ、1965年までに月面在外基地を創設する計画を提案した。しかし、合衆国が科学的・軍事的価値の可能性から見て、そうした軍事行動への出費を正当化することが極めて困難と考えたため、フォン・ブラウンの提案は進展しなかった。 ユーリイ・ガガーリンを筆頭とするソビエトの世界初の有人宇宙飛行が成功を収めた後、ジョン・F・ケネディは、国民の心像を掴むような宇宙計画を模索していた。彼は後に副大統領を務めることとなるリンドン・ジョンソンへ、アメリカが世界の指導者であることを証明できる科学的な奮励を勧告するよう求めた。こうしてケネディらが練った計画案には、政治目的からか第三世界の飢饉を終結させる大規模な灌漑計画など、宇宙とは全く関連の無い計画も含まれていた。そしてアメリカは、可能性のある全宇宙計画の中から、有人月面着陸の競争がソビエトを打ち負かす最良の機会になるとの判断を下した。これは当時ソビエト連邦が、アメリカ合衆国よりも更に強力なロケットを保有していたためである。アメリカでは、国内における核兵器技術の発達がミサイル弾頭のさらなる縮小、軽量化へ至らしめ、結果的により小さな弾頭容量を持つロケットが開発されていた。対照的にソビエトの保有する核兵器はかなり重厚なもので、それを運搬するために強力なR-7ロケットが発達した。ケネディはフォン・ブラウンに、月面に着陸せず宇宙船で月の周囲を飛行するプラン、及び軌道に宇宙開発研究室を建設するプランを提案したが、このような質素な計画では開発競争においてソ連側が有利になってしまうことから、より野心的な月面有人着陸という決断が下された。 1960年アメリカ合衆国大統領選挙に際し、特にNASAの本拠地があるテキサス州など多くの要所となる州では経済的利益があるとして、ジョンソンはアポロ計画を擁護した。これは、前政権がアメリカ・ソビエト間での「ミサイル・ギャップ」を許す結果となったというケネディの主張を後押しし(ただし、後に各報道機関によって、ソビエトの軍事配備はアメリカが想定していたよりも劣っていたことが判明した)、彼がリチャード・ニクソンを破って当選することに貢献した。またジョンソンは、有人宇宙飛行を成し遂げなければ確実にソビエトに打ち負かされてしまうだろうとケネディに助言した。その結果ケネディはアメリカにとって宇宙開発に全力を注ぐのが最も理想的であるとして、アポロ計画を推し進めた。ケネディは資金投入を保証し、1963年の減税から宇宙開発への出費を保護し、さらにNASAが着手していた他の事業から資金の使途を転換した。この政策で、それまで他の科学的事業に駆り立てられていた、NASAの指導者ジェイムズ・ウェッブは失望した。 その後大統領ケネディは社会全体からの支援を獲得するため、特異な声明を必要としていた。1963年には、ケネディが副大統領になったジョンソンに、月計画の潜在的な技術的・科学的利益を調査してほしいと求めた。これに対してジョンソンは最先端の医療躍進や宇宙から撮られた地球の写真を引き合いに出し、利益は限られたものであるものの、NASAの科学者達と力を合わせれば強力な実例となると結論付けた。しかし計画が進展するにあたり、社会事業へ更に資金を費やすべきだとする左派の政治家や、軍事費に力を入れたい右派の政治家達からの批判を打破する必要があった。これに対しては、科学的な報いやソビエトによる宇宙支配の恐怖へつけこんだ持論を強調することで、ケネディとジョンソンはなんとか世論を揺り動かすことができた。1965年までには、58パーセントものアメリカ国民がアポロ計画を支持し、これより2年前から33パーセントも上昇していることがわかった。ジョンソンが大統領に選出された1963年以降も、ケネディがもとより望んでいたように、計画への支援継続が行われ1969年の成功へ結びついたのである。
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アメリカの戦略
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「北部戦線 (アメリカ独立戦争のサラトガ以降)」の記事における「アメリカの戦略」の解説
アメリカの軍事戦略はフランスが参戦したことである程度広がった。アメリカの国土は大軍のイギリス軍にまだ支配されていたので、大陸軍はフィラデルフィアやニューヨーク市の郊外で防御的姿勢を採り続けていた。1778年初期にイギリス軍がフィラデルフィアからの撤退を始め、7月にフランス海軍がフィラデルフィア沖に到着したことで攻勢に出る見込みが立った。大陸軍がこのような大規模な行動に出る一方で、ニューヨーク邦とペンシルベニア邦の北部や西部のフロンティアにいる民兵や開拓者は、イギリス軍がケベックの拠点から組織したインディアンやロイヤリストによる襲撃に対応する必要があった。
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