ミサイル・ギャップ論争
ミサイル・ギャップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 02:02 UTC 版)
アメリカにおけるロケット関連の研究は、戦争直後は低調であった。空軍のマタドールやメイス、海軍のレギュラスのように、アメリカはむしろ有翼の巡航ミサイルの開発に熱心であった。しかしながらアメリカに渡ったV2/A4開発チームの主要メンバーであるフォン・ブラウンとドルンベルガーらは陸軍と組んでロケットの開発を続けており、1959年にはアメリカで最初の弾道ミサイルであるレッドストーンが西ドイツに配備されている。一方大型化にあたっては、まずレッドストーンの後継として空軍のソーと陸海合同のジュピターが計画されたが、後に海軍は計画から降り、独自に固体燃料のポラリスを開発する。その後国防総省の決定で中・長距離弾道ミサイルの管轄が空軍にまとめられることになり、ジュピターもまた空軍のミサイルとなる。ジュピターは1959年にトルコとイタリアに、ソアーは1958年にイギリスに配備された。 1957年のソ連のR-7配備と、人工衛星スプートニク1号の打ち上げはアメリカ国内にスプートニク・ショックおよびミサイル・ギャップ論争と呼ばれる政治的議論を発生させた。1960年アメリカ合衆国大統領選挙において民主党候補者のジョン・F・ケネディはミサイル・ギャップの原因として共和党の国防政策を強く批判し、勝利の要因の1つとなった。ところがケネディ政権の国防長官ロバート・マクナマラはミサイル・ギャップはそもそも存在せず、むしろアメリカのほうが弾道ミサイルの開発、配備数どちらもソ連を大きくリードしていることを知った。共和党の候補者リチャード・ニクソンはU-2などの情報収集に支障が生じることを恐れて反論しなかったとされている。
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