南京戦
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南京戦(ナンキン[6]せん、中国語: 南京保卫战、英語:Battle of Nanking)は、日中戦争(支那事変)における戦闘の1つで、1937年(昭和12年)8月以降の上海戦の戦線が拡大し、12月に中華民国の首都南京で展開した。日本軍は国民革命軍(中国軍)を追撃し、南京を陥落させた。日本軍からは南京攻略戦。中国側からみて上海戦と南京戦を併せて上海南京保衛戰とする研究もある[7]。
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注釈
- ^ 将緯国将軍総編著「国民革命戦史第三部・抗日禦侮 第三巻」「第八章野戦戦略」に、「上海から撤退して南京に来た約14個師(すべて残存部隊)の兵力」とある。
- ^ 「計八~九師、当時の一師は五千位 のものなるへきも是等は首都防衛なる故かく甚しき損害を受けぬ前に充たしたと見るへく一万ありしものとすれは、八~九万。以前軍第二課の調査によれは、以上の師団等を併せ二〇師に上がりるも、是等は各所より敗退し来たりて以上の基本部隊中に入りしものなるへし、之か一〇師分ある故二~三千と見て二~三万、総計一〇~十三万の守備兵力なるへし」
- ^ a b (南京占領前に)中山陵公園内の兵舎、官舎、近代科学兵器学枚、農事研究実験所、警察訓練学校や住宅を含む郊外のほぼ全域に放火し、下関、交通部も放火したが、「日本軍は立派な建物を破壊するのは避けた模様だ。占領にあたって空襲が少なかったのは、建物の破壊を避ける意図があったことを示している。日本軍は、建物のたてこんだ地域に集まった中国軍部隊でさえも、爆撃するのを避けているが、建物の保存を狙っていたのは明らかだ。」とし、中国軍の放火による被害は「南京攻撃中の爆撃の被害や市占領後における日本軍部隊による被害に匹敵する」と報じた[152]。
- ^ 日本軍の入城式の場でも住民が「しょうがない」と歓迎の手旗をふったことがあった、と証言している[116]。
- ^ パラマウント社カメラマンのアーサー・メリケンとニューヨーク・タイムズのテールマン・ダーリングによると南京市内の水道は12月9日、電気は12月10日に利用できなくなった[129]。
- ^ 飯沼守日記「今日午後ソ連大使館焼く、此処は日本兵決して入り込まさりし所なれは証拠隠滅のため自ら焼きたるにあらすやと思わる。 他の列国公館は日本兵の入り込みたる疑いあるも番人より中国軍隊の仕業なりとの一札を取り置けり。」[133]
- ^ 松本重治『上海時代(下)』(中央公論社・1974、p245-249)では訓示を入城式の翌日の1937年12月18日の慰霊祭においてのものとするが、2月7日の間違いである[141]。
出典
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南京戦
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松井は南京攻略を12月中旬頃と想定して兵を休息させていた。松井はトラウトマン工作を知っていてその成果を見るために、待機していたのではないかという見方もある。ところが、11月19日第10軍は独断で(松井の指揮権を無視して)「南京攻略戦」を開始した。松井は制止しようとしたが間に合わず、第10軍の暴走を追認した。11月28日、参謀本部はついに南京攻略命令を発した。12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示した(蔣介石はこの日の内に南京を脱出)。12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。13日、南京陥落。17日、松井、南京入城。このとき、松井は一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)。後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。 一方、トラウトマン工作は成功しつつあったが、南京占領後に蔣介石はトラウトマンの提案を拒否したため、工作は頓挫した。しかし、松井はこの時期に蔣介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしていた。だが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蔣介石を対手とせず」宣言(近衛声明)ですべては終わった。松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった。 昭和13年3月に帰国。静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどの欧米諸国植民地がいずれ独立するための犠牲であると位置づけ、その供養について考えていた。滞在先の宿の主人に相談し、昭和15年(1940年)2月、日中戦争(支那事変)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。
※この「南京戦」の解説は、「松井石根」の解説の一部です。
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南京戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 09:11 UTC 版)
詳細は「南京戦」を参照 1937年(昭和12年)10月29日施行を昭和天皇に裁可された、帷幄上奏勅令軍事機密『軍令陸甲第34号』を根拠とした、軍政上の奉勅命令である中支那方面軍司令部の動員命令が、陸軍大臣杉山元大将によって動員担任官へ伝宣され、同司令部の動員がなされた。動員担任官は上海派遣軍司令官(当時松井石根大将)であった。11月2日動員完結が同軍司令官から、杉山陸軍大臣と参謀総長載仁親王大将へ報告された 11月20日大本営設置。12月1日大本営参謀総長載仁親王大将から中支那方面軍の編成と南京攻略の奉勅命令が、松井石根司令官へ伝宣された。12月7日、国家元首、中華民国総統・蔣介石は南京から脱出した。9日、松井石根軍司令官は、南京城内の数ケ所にへ降伏を勧告するビラを投下し、南京防衛司令官・唐生智へ降伏を勧告したが反応はなかった。10日、松井軍司令官は全軍へ南京城への総攻撃を命令し、13日これを占領した。
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