南京建都後の軍事行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 05:09 UTC 版)
「太平天国の乱」の記事における「南京建都後の軍事行動」の解説
南京建都後すぐに、清朝はその南北に江南大営・江北大営という強固な軍事基地を設けて天京に圧力をかけ始めたが、こうした事態を打開するために、太平天国軍は何らかの行動を起こさねばならなかった。 選択肢は3つあった。 まず江南・江北両大営を撃破し、江南地方に確固たる支配地域を確立する案。 次に一挙に北伐を敢行し北京を陥落させる案。イギリス人でありながら太平天国に参加していたオーガスタス・リンドレーは北京強襲を強く支持していた。 そして最後が先の二つの案を折衷し天京防衛と北伐を二つとも行い、さらに西方へも軍を派遣する案。 史実では最後の案を太平天国は選択した。天京防衛に最大兵力を割きつつ、金田村での決起以来従軍していた精鋭を中心とした2万人を北伐にあてた。
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