重慶爆撃とは? わかりやすく解説

重慶爆撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 08:15 UTC 版)

重慶爆撃(じゅうけいばくげき)は、日中戦争中の1938年昭和13年)12月から1941年(昭和16年)9月にかけ、大日本帝国陸海軍航空部隊が当時中華民国の首都であった重慶に対して反復実施した大規模な空襲[1]。当初は飛行場・軍事施設・政府中枢機関などに目標を限定して爆撃した戦略爆撃とされたが、視界不良、爆撃精度、目標の位置の関係で、一般市民にも多くの被害を出し、無差別爆撃と批判され、さらに後には市街地を区分して隈なく絨毯爆撃が行われるようになり、実質上も無差別爆撃と化していった[1]。これについては、当初は中枢機関の破壊・為政者らの殺害を目的の筆頭においていたものの、その目的が果たせないため、首都機能の破壊と市民からの戦争継続反対の声が挙がることを狙って、一般住民らの無差別殺害を意図して、市街地全体を狙って爆撃を行うようになっていったものだとする説がある[2]




  1. ^ a b 原剛「重慶の戦略爆撃」秦郁彦佐瀬昌盛常石敬一編『世界戦争犯罪事典』文藝春秋、2002年8月10日 第1刷、ISBN 4-16-358560-5、89頁。
  2. ^ 笠原 十九司『日中戦争全史』高文研〈上下巻〉、2017年7月18日、140頁。 、上巻 ISBN 9784874986240、下巻 ISBN 9784874986257
  3. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室『中國方面陸軍航空作戦』(戦史叢書 74) 朝雲新聞社、1974年7月
  4. ^ 佐々木隆爾編 『昭和史の事典』[要ページ番号]
  5. ^ 江山「重慶爆撃における日本軍爆撃戦術転換の要因」『平和文化研究』第39巻、長崎総合科学大学長崎平和文化研究所、2019年3月、22-37頁、ISSN 2432-9312NAID 1200065953712022年6月14日閲覧 
  6. ^ a b c 張鴻鵬 2015, p. 281,289,280.
  7. ^ 西南师范大学历史系, 重庆市档案馆 編『重庆大轰炸 1938-1943』重庆出版社、1992年7月。 
  8. ^ a b 江 山「重慶爆撃における日本軍爆撃戦術転換の要因」『平和文化研究』第39巻、長崎総合科学大学長崎平和文化研究所、2019年3月、23,24、ISSN 2432-93122023年3月1日閲覧 
  9. ^ 「重慶の防空壕 死相をもった洞窟」『読売新聞』、1941年8月20日、夕刊、3面。
  10. ^ 吉見 俊哉. “「空襲」と「植民地主義」はいかにして結びついてきたか? その意外な歴史(吉見 俊哉) | 現代ビジネス | 講談社(5/5)”. 現代メディア. 講談社. 2023年1月21日閲覧。
  11. ^ 張鴻鵬 2015, p. 280-283.
  12. ^ 加害と被害の事実は東京地裁が認定――重慶大爆撃裁判で原告敗訴”. 週刊金曜日. 週刊金曜日株式会社 (2015年3月19日). 2024年4月20日閲覧。
  13. ^ 戦争のはじまり重慶爆撃は何を招いたか|NNNドキュメント”. 日本テレビ. 2023年8月14日閲覧。






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