作戦の実行
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1938年12月26日最初の爆撃が中支那派遣軍が漢口の陸軍航空兵団に要請して行われた。1939年からは海軍航空隊も参加。爆撃は主に1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)の、視界が確保できる春から秋の間に行われ、投下した爆弾は1940年(昭和15年)には延べ4,333トンに達した。重慶は中国の重要な工業都市でもあり、既に中国国民党政府の遷都前の1938年2月から試験的に爆撃が始まっていた。重慶爆撃に関する最初の 正式な命令である「大陸命 第二百四十一号」を受けて出された「大陸指第345号」では、その第6項に「在支各軍ハ特殊煙(あか筒、あか弾、みどり筒)ヲ使用スルコトヲ得、但シ之ガ使用ニ方リテハ市街地特ニ第三国人居住地域ヲ避ケ勉メテ煙ニ混用シ、厳ニガス使用ノ事実ヲ秘シ其痕跡ヲ残サザルガ如ク注意スベシ」とあり、初めから市街地爆撃があることを前提に、ガス弾の使用を市街地を避けることを条件に許可していた。防衛庁防衛研修所戦史室の『戦史叢書・中国方面陸軍航空作戦』によれば、1938年12月26日の爆撃の前日に陸軍第一飛行団長寺倉少将が「目標ハ両戦隊共重慶市街中央公園都軍公署(以下略)」としながらも「飛行団ハ主力ヲ以テ重慶市街ヲ攻撃シ敵政権ノ上下ヲ震撼セントス」という指示を出しており、無差別爆撃による恐怖戦術に発展しうる可能性を持っていた。 それでも当初は、飛行場、軍事施設等を目標としていたが、重慶の気候は霧がちで曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目標施設以外に被害が発生することも多かった。そのため、実質上無差別爆撃ではないかとの批判を諸外国から受けることとなった。さらに、目標施設破壊の効果が挙がらないことから、目標周辺の住民や住居の焼払うことによって、首都機能の破壊と市民から反戦の声が挙がることを狙って、主に焼夷弾を使用して無差別爆撃が行われるようになっていったとされる。とくに一日の犠牲が大きかったのが1939年の5月3日(被害674人死亡、350人負傷、焼失家屋1,068部屋といわれる)と5月4日(被害3,318人死亡、1,973人負傷といわれる)で、中国では「五三・五四大空襲」として知られる。 さらに、後期になると、市街地の徹底破壊を目的として、市街地を幾つかの区域に区分し、各区域をすきまなく爆撃する形となった。海軍航空隊はこれを絨毯爆撃作戦と称した。重慶爆撃のなかでも特に大規模な絨毯爆撃であったのが、海軍主導によって行われた1940年5月17日から9月5日までの百一号作戦、および1941年5月から8月までの百二号作戦である。日本の軍中枢で日中戦争とは別に対アメリカ・イギリス・オランダとの開戦が取りざたされはじめたことから、海軍、特に中国方面で作戦指導にあたっていた井上成美支那方面艦隊参謀長らが、日中戦争の早期終結を目的に提言した作戦であった。[要出典] 詳細は「井上成美#支那方面艦隊参謀長」を参照 一方で陸軍ではこの百一号作戦と百二号作戦に対して飛行部隊を一時協同させたものの、効果が薄く無意味かつ来るべき対ソ戦(北進論)・対米戦(南進論)に備えるべき中で燃料の消耗が激しいこと、非人道的・国際法に反する行為であるとして絨毯爆撃に強く反対する声があり、第3飛行団長として重慶爆撃を実施していた遠藤三郎陸軍少将が中止を主張、上級部隊である第3飛行集団長木下敏陸軍中将に「重慶爆撃無用論」を1941年9月3日に提出している。(遠藤は実際に重慶を爆撃する九七式重爆に搭乗し、絨毯爆撃を行った旧市街はたしかに民家も何もかも灰燼に帰しているが其の周辺には新市街が出来て広がっているのを確認、それを理由に、重慶爆撃の無意味さを主張している)。この「重慶爆撃無用論」は参謀本部作戦課にまで届き採用され、陸軍のその後の重慶爆撃中止に影響を与えたという。しかし、海軍航空隊の重慶爆撃が1941年9月1日の百二号作戦の打切りにより完全に終了したのちも、陸軍航空兵団による重慶爆撃自体は1943年8月23日まで続けられたという。
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