作戦の展開
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「大陸軍 (アメリカ)」の記事における「作戦の展開」の解説
1775年6月、ボストン包囲戦中に大陸軍がケンブリッジで結成された時、およその戦力はニューイングランドの14,000名から16,000名と見られている。脱走などがあって実際の戦力は11,000名程度であった可能性もある。ワシントンの到着までは、アートマス・ウォードの指揮下にあり、ジョン・トーマスが副隊長、リチャード・グリドリーが砲兵隊長と技師長を兼ねていた。 ボストンのイギリス軍は援軍が到着してその数を増していた。その数は約10,000名であった。5月遅くにはウィリアム・ハウ、ヘンリー・クリントン、ジョン・バーゴインの3将軍が到着してトマス・ゲイジ将軍と合流し、反逆者達を追い払う計画を立て始めた。実戦経験のあるこれら将軍やイギリス海軍の数隻の戦列艦を指揮するサミュエル・グレイブス提督の存在に意を強くしたゲイジは、戒厳令を発して大陸軍とその支持者達を反逆者と決めつけ、憲法を犯す者として糾弾する宣言を行った。大陸軍や大陸会議への忠誠を放棄しイギリス側に付いた者には恩赦が提案されたが、大陸会議のサミュエル・アダムズやジョン・ハンコックの二人だけは大逆罪で指名手配されていた。この宣言は、大陸会議と大陸軍の決意をさらに強固なものにするために役だったに過ぎなかった。 1776年3月、大陸軍がボストンを見下ろす高地に大砲を運び上げたことで、イギリス軍がボストン市から撤退した後、大陸軍はニューヨークに移動した。それに続く5年間、大陸軍とイギリス軍は、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニアで作戦行動を続けた。これらの作戦行動には、トレントン、プリンストン、ブランディワイン、ジャーマンタウン、モリスタウンなどの特筆すべき戦闘が含まれている。 大陸軍は人種的には差別を無くしており、このような状態が再現されたのは朝鮮戦争のときまで無かった。アフリカ系アメリカ人の奴隷はニューイングランドでの従軍と引き換えに自由を約束され、北部方面軍の5分の1にまでなった。 大陸軍は常に乏しい兵站、不適切な訓練、短期間の兵役、邦間の摩擦、そして大陸会議の各邦に対する食料、金、物資を賄うように指導する力の不足に悩まされ続けた。当初、兵士の兵役服務期間は1年であり、多くは愛国心に動機付けられていた。しかし、戦争が長引くにつれて、報奨金やその他の刺激策がより必要になった。戦争の後半には2つの大きな反乱が起こり、主力部隊のうちの2部隊の信頼性をひどく損なうことになった。また常に規律不足の問題につきまとわれた。 大陸軍は試行錯誤の末に、多くは人命を犠牲に、実効性と成功率を高めた。ワシントン将軍と他の傑出した士官達が結束を固めるための有益な指導者となり、戦争の8年間を通じて学び、適応し、規律を保っていった。1777年から1778年にかえての冬は、プロイセン出身のストイベン男爵が加わり大陸軍を訓練して大きくその能力が改善された(バレーフォージの冬として知られる)。ワシントンは軍隊を常に一時的な手段として見ており、第二次大陸会議と同様に軍隊の文民統制を心がけたが、その実行方法については小さな意見の不一致があった。 戦争末期、大陸軍はフランスのロシャンボー将軍指揮下の遠征隊とフランス海軍のバラス提督指揮下の船隊によって補強され、1781年の晩夏には、主力部隊がバージニアに南下してフランスのグラス提督配下の西インド諸島艦隊と合流した。これがヨークタウン包囲戦につながり、チェサピーク湾の海戦での勝利とイギリス南部方面軍の降伏という結果を生んだ。これによってアメリカ大陸での戦いは終わりを告げ、2年後のパリ講和条約締結とその効力が有効となるまで、大陸軍はニューヨークのイギリス北部方面軍を封じ込めるためにニューヨーク近郷に戻って駐屯した。その後は大陸以外の場所で、イギリスとフランスおよびその同盟軍の間の戦いが続いた。
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