作戦の漏洩とイギリス軍の戦闘準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:28 UTC 版)
「シッタン作戦」の記事における「作戦の漏洩とイギリス軍の戦闘準備」の解説
イギリス第14軍はラングーン攻略に際して、麾下の第4軍団(en)をシッタン川西岸のマンダレー街道で南下させており、その途中でシッタン川西岸の要衝であるトングーやペグー(現バゴー)を占領していた。第4軍団にはラングーン攻略後、日本の第28軍の東進阻止の任務が与えられていた。イギリス軍はシッタン川河口東岸の確保も目指しており、第5インド師団(en)を河口西岸に進出させて、東岸のモパリン及びその南方27kmのキャイト(en)の占領を命じた。しかし、シッタン川の橋梁は日本軍が破壊しており、上陸用舟艇などの渡河機材も不足していた上、雨季の到来で作戦用道路建設や航空支援が困難となり、対岸の日本軍陣地も強固であったことから、第5インド師団の渡河作戦は断念された。第5インド師団は、6月22日に第7インド師団(en)と交代した。第7インド師団の北側にはミイトキョー(ミッチョー)を境界に第17インド師団(en)が展開していた。 ラングーンの占領後、ビルマ戦線のイギリス軍は大幅な組織改編に着手していた。第14軍司令官として総指揮を執っていたウィリアム・スリム中将は6月9日に休暇でイギリス本国に帰還し、第14軍司令部もインドに後退した。代わってラングーンに第12軍司令部が新設され、モンタギュー・ストップフォード(en)中将が司令官に着任した。第12軍の主力部隊となった第4軍団の司令官も、7月5日にフランク・メサヴィ(en)中将からフランシス・トゥーカー(en)中将へ交代した。 7月2日、ペグー山系東麓でイギリス軍第17インド師団と日本の振武兵団の小競り合いがあった際、イギリス軍は振武兵団の邁作戦に関する命令書を鹵獲することに成功した。この命令書は7月7日には翻訳されて第17インド師団司令部に配布され、部隊編成・物資の状況・行動経路・合言葉など振武兵団の脱出計画の詳細が把握された。イギリス軍は他の鹵獲文書や捕虜の証言も参考に、第28軍全体の作戦計画を推定することができた。日本側の作戦開始日だけがわからなかったが、作戦開始直前の7月18日に捕虜となった連絡士官と憲兵軍曹から判明した。なお、イギリス軍は日本の第28軍の兵力を過小評価しており、第4軍団司令部では推定16000人と判断していた。 イギリス軍は、今後のタイ・マレー方面への反攻作戦で障害となる日本軍の戦力を削ぐため、第28軍の将兵を少しでも多く殺すことにした。転出直前のメサヴィ第4軍団司令官は急いで情報を分析し、第28軍主力の渡河地点をピュ(en, トングー南方)=ニュアンレビン(en)間の120kmの範囲と推定すると、担当の第17インド師団に3個大隊を増援として送った。第17インド師団の兵力はそれでも不足で渡河点全てに有効な配備はできなかったが、鹵獲した地図から日本軍が夜間行動で突破を図る地点を推測し、伏兵を配置した。イギリス軍は歩兵による追撃はあまり続けず、主に事前標定した砲兵と航空部隊によって日本軍を撃滅する計画だった。
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