作戦の立案
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1941年(昭和16年)1月14日頃、連合艦隊司令長官の山本五十六が第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎少将に手紙を送り、1月26日 - 27日頃に戦艦長門(連合艦隊旗艦)を訪ねた大西は、山本からハワイ奇襲作戦の立案を依頼された。山本から大西への手紙の要旨は 「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦初頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」 というものであった。 鹿屋航空基地の第十一航空艦隊司令部に戻った大西は、参謀の前田孝成大佐に詳細を伏せて、真珠湾での在泊艦艇に対する魚雷攻撃(雷撃)について相談したが、真珠湾は水深が浅いために航空雷撃は不可能という回答だった。大西は第一航空戦隊参謀の源田実中佐を2月中旬に鹿屋に呼び、同様の質問をした。戦闘機乗り出身の源田は、雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究次第で可能になるかもしれぬと回答した。大西は源田に作戦計画案を早急に作るように依頼した。源田は計画案を2週間ほどで仕上げて大西に提出、それに大西が手を加え、3月初旬頃、山本に提出した。源田案は、空母部隊の集結場所を小笠原諸島の父島か、北海道東部の厚岸として、真珠湾の200海里まで接近しそこから攻撃隊を発進させるもので、二案あった。一つ目は雷撃が可能である場合で、艦上攻撃機は雷撃とし、艦上爆撃機と共同攻撃する案、二つ目は雷撃が不可能である場合で、艦攻は降ろして全て艦爆にする案である。艦上戦闘機は制空と飛行機撃破に充当し、使用母艦は第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)と第四航空戦隊を使う。航路は機密保持のために北方から進攻する。主目標は空母、副目標を戦艦とした。水平爆撃は当時命中率が悪く大量の艦攻が必要になるため計算に入れなかった。これを大西は、戦艦には装甲貫通能力の高い艦攻による水平爆撃を行うこと、出発基地を択捉島の単冠湾と源田の案を修正した。9月頃、源田が大西から参考のために手渡された書面には、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載して補助艦艇に攻撃を加え、戦艦に致命傷は与えられなくとも行動をできなくすればよいということになっていたという。山本は真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ大きな効果を期待しえないのでこの作戦は断念するつもりであった。しかし、不可能ではないと判断されたため、戦艦に対して水平爆撃と雷撃を併用する案が決定された。 攻撃の優先順として、主目標は戦艦・空母とし、次にその達成を妨害するだろう敵航空基地・飛行機が副目標となった。工廠(こうしょう)や油槽などの施設は目標とされなかった。戦力を二分していずれの攻撃もが不徹底に終わるよりは艦艇破壊に集中したほうが良いと考えたためであり、工廠や油槽などの後方施設の重要性は認めながらも、これらへの攻撃はあえて切り捨てる方針がとられた。また攻撃は持てる艦載機による一度だけの出撃とされ、発艦は第一波と第二波に分けられ(当時の航空母艦は艦載機用カタパルトは無いので搭載機を一度に全機飛ばすことは出来ず、飛行甲板に最大限並べても2回に分ける必要があった)、戦果の如何に関わらず再攻撃は計画されていなかった。しかし一方で山本は、攻撃後、ハワイ上陸の案も幕僚にもちかけていたという。 実施部隊である第一航空艦隊(4月10日に編制)に作戦構想が伝えられると、第一航空艦隊司令長官の南雲忠一中将は、先任参謀の大石保中佐、航空甲参謀の源田にハワイ奇襲作戦実行計画の仕上げを命じた。企図秘匿のために航海条件の悪い北方航路を選んだため、洋上燃料補給ができない場合もあるとして、一部艦艇の航続力が問題となったが、海軍省軍務局の暗黙の了解のもと、第一航空艦隊司令長官の権限で、燃料庫以外にもドラム缶で各艦の強度が許す限りの燃料を搭載することとした。 使用する航空母艦は当初第一、第二航空戦隊の4隻を胸算していたが、連合艦隊は、9月1日に編成された翔鶴(8月8日就役)と瑞鶴(9月25日就役)の新鋭大型空母2隻を擁する第五航空戦隊も、搭乗員や器材の準備が間に合うなら使用したいと考えた。山本はかねがね日露戦争劈頭の旅順口攻撃において、港外での敵艦隊夜襲が失敗した一因は兵力不足によると述懐していた。しかし、軍令部の考えは4隻であった。10月9日 - 13日に連合艦隊司令部で研究会が行われた。軍令部航空部員の三代辰吉はこの研究会に出席するために出張してきたが、研究会が終わった後に連合艦隊司令部に赴き、6隻使用は到底了承しがたい旨を伝えて東京に帰った。軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに、味方空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。 大西と第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介少将は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得のために、アメリカの植民地だったフィリピン方面に戦力を集中するべきとしてハワイ奇襲作戦に反対したが、山本は両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話して説得した。作戦再考を求めに来た軍令部の参謀に対しては「南方進攻しているあいだに本土を襲われたらどうするのだ」とも語ったという。 海軍省軍務局や作戦部は大反対であった。大西が9月末に開かれた航空艦隊首脳部の打ち合わせの席上で「日米戦では武力で米国を屈服させることは不可能である。……対米戦に突入する以上、当然戦争の早期終結を考えねばならず、それにはある一点で妥協をする必要がある。そのためには、フィリピンをやってもどこをやっても構わないが、ハワイ攻撃のようなアメリカを強く刺激する作戦だけは避けるべきだ」と述べたように、攻撃自体の危険性もさることながら、米国世論の激変を危惧するのが反対論の主旨であった。 10月19日、連合艦隊先任参謀の黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長の伊藤整一中将に言い、これに驚いた軍令部総長の永野修身大将は作戦実施を認めた。永野総長は戦後、東京裁判の検察尋問に対し、「私はもともと軍令部案に賛成していたのです。……海軍作戦部は南太平洋でアメリカ軍を何年も待つことに賛同していました」「私は海軍省軍務局の方が理にかなっていると思ったので、こちらの計画に賛成だったのです。しかし、艦隊の指揮者が辞任するのは反対でした。……一番良いのは承認だと思ったのです」と証言している。 また、草鹿によれば、山本は自らを連合艦隊司令長官から機動部隊司令長官に格下げして陣頭指揮に当たり、連合艦隊司令長官には米内光政を据えると言う腹案も抱いていたという。 援護作戦として駆逐艦二隻によるミッドウェー島砲撃が計画された。 詳細は「ミッドウェー島砲撃」を参照
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