作戦構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:02 UTC 版)
アメリカによる日本降伏に向けた予備計画は、ガダルカナル島の戦いが開始された1942年8月に既に協議が始まっており、1943年4月にはアメリカ統合参謀本部に「日本の無条件降伏を貫徹するには、日本本土侵攻が必要になるかもしれない」とする報告書が作成されている。しかしこの時点では、アメリカ陸海軍の代表者で構成された米国統合戦争計画委員会(JWPC)は日本本土侵攻は不可避という結論は出さず、その「JWPC15」という計画書において対日戦争を第5段階作戦とし、最後はアメリカ軍が海軍力で日本を封鎖し、本土を意のままに爆撃できる飛行基地を手に入れたときに戦争は終結できるとまとめている。しかし、「JWPC15」に対しては異論も多く、1943年10月25日にはアメリカとイギリスの計画策定チームが1946年夏に北海道に進攻、続いて同年秋には東京を攻略すべきと提言している。この提言についても異論は多く活発な議論が行われ、1943年11月のカイロ会談でも協議されたが、合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング元帥など、日本本土に進攻するのであれば北海道よりは九州を先に攻略した方が合理的であるという意見が主流を占めるようになる。 このように日本本土侵攻は戦争終結の選択肢のひとつに過ぎなかったが、マリアナ沖海戦とサイパンの戦いにより戦争終結への道筋が見えてくると、1944年7月11日ジョージ・マーシャルアメリカ陸軍参謀総長は日本本土侵攻を今後の戦争遂行における作戦のひとつとして認可した。その計画書となる「JCS-924」においては以下の様に定められている。 日本の本州侵攻作戦の準備として戦略爆撃の強化とシーレーンを遮断するため、小笠原諸島、沖縄、中国南東沿岸部に侵攻する 日本の防衛力の漸減と前進基地確保のため九州に侵攻する 九州からの支援で本州の関東平野に侵攻し日本の心臓部を粉砕して無条件降伏に追い込む。 また、この計画書においては、中国大陸の日本軍が本土防衛の増援とならないように、九州侵攻と同時にソ連が対日参戦するのが望ましいとも述べている。 第2回ケベック会談においてイギリス首相ウィンストン・チャーチルは日本本土侵攻作戦を承認し、これまでアメリカ軍に任せきりであった太平洋戦線でのイギリス軍の貢献拡大についても協議されたが、ヨーロッパから大量の部隊を太平洋に輸送するだけの船舶はイギリスにはなく、またドイツとの戦争で国力が疲弊していたイギリスははるか遠くの日本本土の自国の部隊に補給物資を供給するのは困難であって、所詮はアメリカ頼りであった。また、イギリス軍が同じ英連邦のオーストラリア軍、ニュージーランド軍、インド軍の参加も申し出たが、陸軍の総司令官に任じられていたダグラス・マッカーサー元帥は「軍内部で同一の言語が必要とされるこの複雑な作戦では、インド人の部隊を使用するという方法の妥当性には疑問がある」「イギリス軍はアングロ・サクソン人でなければならない」と言ってインド軍の参加を拒否した。結局、英連邦軍の地上部隊の参加はイギリス、カナダ、オーストラリアの各1個師団の計3個師団の支援要員を含む75,000人に限られ、参加時期も関東平野侵攻の後期からとされた。 1945年2月のヤルタ会談直前に、フランクリン・ルーズベルト大統領とチャーチルがマルタ島で協議し、1945年9月にヨーロッパの連合軍部隊の1部を太平洋に移動させると同時に九州侵攻を開始、1945年12月に本州に侵攻するといったタイムテーブルがチャーチルに提示された。そしてヤルタ会談ではルーズベルトがソ連のヨシフ・スターリン書記長に、日本本土侵攻作戦の陽動としてソ連対日参戦を促して、いわゆる「極東密約」(ヤルタの密約)が交わされた。3月29日には、これまでの連合軍内の一連の合意事項や戦況の推移も含める形で統合参謀長会議が「対日攻撃戦力最終計画」を作成し、日本本土侵攻作戦全体を「ダウンフォール作戦」、九州侵攻作戦を「オリンピック作戦」、関東侵攻作戦を「コロネット作戦」と命名した。アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルはマッカーサーに「コロネットは日本にとどめを刺す作戦となるが、それはオリンピックの延長として実施される運びになろう」「ヨーロッパの戦争が1945年7月までに終わるという仮定に基づけば、オリンピック作戦の開始時期は12月1日、コロネット作戦の開始時期は1946年3月1日を目標に、計画を作成することとなる」とタイムスケジュールを説明している。 しかし、ドイツの敗戦が予想より早まると、オリンピック作戦も前倒しされ、5月25日に発令されたオリンピック作戦指令においては、Xデイと名付けられた九州上陸は1945年11月1日朝6時とされた。投入される兵力は、アメリカ軍だけでもオリンピック作戦では上陸部隊574,730人、支援要員や航空部隊も含めると766,700人、コロネット作戦では1,171,646人となるが、間接的に関与する人数も含めると500万名以上に上るとみられていた。また英連邦軍も地上部隊の他に海空軍や支援要員を含めると約20万名が投入され、アメリカと同様に間接的に関与する人数を含めると100万人以上となる予定であり、第二次世界大戦で最大規模の軍事作戦となる予定であった。
※この「作戦構想」の解説は、「ダウンフォール作戦」の解説の一部です。
「作戦構想」を含む「ダウンフォール作戦」の記事については、「ダウンフォール作戦」の概要を参照ください。
作戦構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 23:54 UTC 版)
来たるべき攻勢作戦の構想は遠征軍司令官アレンビー自身から出された。8月1日、アレンビーは各軍団長に作戦構想を述べ、さらに9月9日に部隊命令第68号を発した。作戦の骨子は以下の通りである。まず優勢な陸軍航空隊が制空権を奪取する。次いで航空隊はオスマン軍の通信施設を破壊し、相互の軍の連携を困難させる。地上では、内陸部正面の第20軍団と東面のチャーター隊が欺騙行動によって敵を引きつける。そして海岸部の第21軍団が正面を突破し、続く砂漠乗馬軍団がこれに呼応して突破正面より急進する。前年の第3次ガザ戦では内陸部から突破したが、今回は海岸部より行うこととなった。 対するオスマン軍はパレスチナの上級司令部としてユルドゥルム軍集団を置いていた。これを指揮するのはガリポリ戦で勇名を馳せた独オットー・リーマン・フォン・ザンデルス将軍である。ザンデルス将軍は前任者の独フォン・ファルケンハインの好んだ機動防御よりも陣地防御を志向した。その防御計画はいたってシンプルで、敵に土地を渡すことなくその場で固守するというものである。陣地を奪取された場合は、すぐさま予備隊による反撃を行う。しかし作戦レベルでみると、もしものときに拠るべき第2線陣地がなく、固守か死かいずれかしか選択がなかった。
※この「作戦構想」の解説は、「メギッドの戦い」の解説の一部です。
「作戦構想」を含む「メギッドの戦い」の記事については、「メギッドの戦い」の概要を参照ください。
- 作戦構想のページへのリンク