作戦方針の転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 07:55 UTC 版)
「第一次バーバリ戦争」の記事における「作戦方針の転換」の解説
その直後の1804年9月10日、サミュエル・バロン(英語版)率いるアメリカ海軍の増援艦隊がシラクサに到着し、艦隊司令官がエドワード・プレブルからサミュエル・バロンに代わっている。バロンは、これまでの状況から、以前の遠巻きの海上封鎖に作戦の方針を変更している。 海上封鎖によってトリポリ側の根拠地の制圧を試みたトリポリ港の戦いでの作戦行動は、艦艇の絶対数が足りず、トリポリ側の要塞砲とトリポリ沖の浅瀬に阻まれて徹底した攻撃ができなかったため、フリゲートを失うなどの損害の割には、成果の少ないものになっていた。 また、以前からトリポリ側の支配者階級における不和に目をつけていた、前在チュニス・アメリカ合衆国領事でアメリカ陸軍のウィリアム・イートン(英語版)将軍は、より直接的な解決のため、艦隊に同行していたアメリカ海兵隊の分遣隊を陸路で派遣してトリポリ側の根拠地を占領する外、前のパシャで弟のユサフ・カラマンリに地位を乗っ取られ、エジプトに亡命していたハメット・カラマンリ(Hamet Karamanli)を担ぎ出し、政権転覆を画策する作戦を提案している。 このときイートン将軍は、100名程度のアメリカ海兵隊の派遣を派遣艦隊の司令官サミュエル・バロン(英語版)に要求したが、7名しか派遣が認められなかった。
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