作戦方針の変更
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「B-29 (航空機)」の記事における「作戦方針の変更」の解説
1945年元旦、アーノルドは、ハンセルに更迭を伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナに派遣し、また指揮権移譲の打ち合わせのためルメイもマリアナに飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍の参謀長をハンセルから引き継いでおり2人は個人的にも親しかった。またルメイはヨーロッパ戦線でハンセルの部下として働いたこともあった。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日に手短な打ち合わせを行って、ルメイは一旦インドに帰った。1945年1月20日、ハンセルを更迭し、その後任に中国でB-29を運用してきたルメイを任命する正式な辞令が発令された。アーノルドはルメイの中国での働きぶりを高く買っており、このとき38歳であった若い将軍にアーノルドは「自分のすべて」であったB-29を任せることにした。第20爆撃集団はルメイ離任後にはクアラルンプールに司令部を移して、日本本土爆撃を中止し、小規模な爆撃を東南アジアの日本軍基地に継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団がマリアナに合流している。 ルメイが着任するまで、ハンセルの命令による高高度精密爆撃が継続された。1945年1月14日には名古屋の三菱航空機製作所がB-29の73機による再度の爆撃を受けたが、高い積乱雲があり全体的にもやがかかっていたのにも関わらず爆撃成果は良好であった。この爆撃に対しては厚木基地から駆けつけてきた、これまで多数のB-29を撃墜破し「B-29撃墜王」として国民的な人気者となっていた遠藤幸男大尉率いる第三〇二海軍航空隊の斜銃を搭載の「月光」11機が迎撃したが、指揮官の遠藤がB-29を1機撃墜した直後に他のB-29の集中射撃を受けて、乗機からパラシュート降下を図るも戦死し、第三〇二海軍航空隊司令官の小園安名大佐を嘆かせている。この日月光隊は5機を撃墜し、遠藤は通算16機目のB-29を撃墜破したと認定された。アメリカ側の損失記録も5機であった。(1機が出撃中に不時着水、1機が原因不明、2機が帰還中に海上に墜落、1機が基地に帰還するも毀損判定で全壊判定)ハンセルによる最後の作戦は、1945年1月17日の神戸明石の川崎飛行場に対する爆撃で、62機のB-29が7,500mから8,000mで155トンの爆弾を投下したが、天候に恵まれていたため爆撃の精度は非常に高く、工場の39%を破壊し、一時的に生産能力の90%を喪失させた。日本軍の迎撃もあったが未帰還機は1機もなく、最後にして「(ハンセルによる)最初の完全に成功であったB-29の攻撃」と公式記録に書かれたほどであった。 1945年1月20日に着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃はアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンであり、当初はハンセルの精密爆撃を踏襲したが、1月23日と1月27日の航空機工場に対する高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に合計11機のB-29を失うという惨めな結果に終わった。前任者ハンセルによる初の東京空襲から1945年2月10日までの16回に及ぶ日本本土空襲で、第21爆撃集団は合計78機のB-29を失っていたが、期待していた戦果を挙げることはできず、ルメイはあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナに派遣してルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した。 アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。今までは、アメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンに基づく、対ドイツの戦略爆撃にならった高高度昼間精密爆撃に固執し、高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度1500m~3000mの低高度に下げることにした。爆撃高度を下げれば、ジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料を節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、あと高高度爆撃では好天を待たなければならなかったが、爆撃高度を下げれば雲の下を飛行すればよく、出撃日を増加できることも大きかった。そして高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと見積もった。 使用する爆弾はM69焼夷弾であったが、この焼夷弾は1943年3月にダグウェイ実験場(ユタ州)での実戦さながらの実験がおこなわれた。その実験というのは演習場に日本式家屋が立ち並ぶ市街地を建設し、そこで焼夷弾の燃焼実験を行うといった大規模なものであったが、日本家屋の建築にあたっては、ハワイから材料を取り寄せ、日本に18年在住した建築家(アントニン・レーモンド)が設計するといった凝りようであった。M69焼夷弾のナパーム(ゲル化ガソリン)で炎上した日本式家屋は容易に消火できず、日本に最適の焼夷弾と認定された。そして焼夷弾による都市への無差別爆撃の効果は前年の漢口大空襲で実証済みであった。 しかし低空では敵迎撃機、対空砲の危険性があるので夜間爆撃とした。当時のアメリカ軍がB-29に搭載できるレーダーは高度5000mが限界だったが、ルメイの案であれば効果が発揮された。夜間戦闘機戦力が充実していたドイツ軍と比較して、ルメイは日本軍の夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず、B-29尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やすことにした。この改造作業はベル社生産機体で主に実施された。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載を今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、編隊は防御重視のコンバット・ボックスではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高いパスファインダーの爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するというトレイル(単縦陣)に変更した。 ルメイの新戦術の最初の作戦は3月10日の東京大空襲となった。ルメイは出撃に先立って部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示している。325機のB-29は3月9日の午後5時15分にマリアナ諸島のアメリカ軍基地を出撃すると、3月10日の午前0時5分に第一弾を投下した。ルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗を願ったが、このときルメイは原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画の概要を聞いており、撃墜されて捕虜になるリスクを考えて、自分がもっとも信頼していた トミー・パワー(英語版)将軍を代わりに出撃させることとした。空襲はルメイの計画通り大成功となり、発生した大火災によりB-29の搭乗員は真夜中にも関わらず、腕時計の針を読むことができたぐらいであった。たった一晩で83,000人の住民が死亡し、26万戸の家屋が焼失したが、他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は関東大震災のさいにも発生した火災旋風が大規模に発生したためであった。低空飛行をしていたB-29も火災旋風による乱気流に巻き込まれた。なかには機体が一回転した機もあり、搭乗員は全員負傷し、顔面を痛打して前歯を欠いたものもいた。あまりに機体が上下するので、着用していた防弾服で顔面を何度もたたかれ、最後には全員が防弾服を脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている。 3月9日、夜10時すぎに日本軍は八丈島に配備していた陸軍の実用レーダー超短波警戒機乙によって機影を探知したが、折からの強風でレーダーのアンテナが激しく揺れてスコープの映像が不正確であり編隊の概要までは掴めていなかった。日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令したが、陸軍の第10飛行師団は何の対策もとらないうちに確認していた2機のB-29は去ったと認識したため、一旦警戒警報を解除している。しかし、3月10日に日が改まろうとする頃に、房総半島南端の洲崎監視廠がB-29らしき爆音を確認し、慌てて第12方面軍司令部に報告したが、そのわずか数分後の0時8分には東京の東部が焼夷弾攻撃を受けたため、空襲警報は空襲が開始されたのち0時15分となり、市民の避難も日本軍による迎撃も間に合わなかった。それでも、第10飛行師団 の飛行第23戦隊(一式戦「隼」)、飛行第53戦隊(二式複戦「屠龍」)、飛行第70戦隊(二式戦「鍾馗」)の計42機と海軍の第三〇二海軍航空隊から月光4機が出撃し、高射砲との戦果を合わせてB-29を15機撃墜、50機撃破の戦果を報じた。アメリカ軍側の記録でもB-29が14機失われ、今までの爆撃任務で最大級の損失とはなったが、その劇的な成果と比較すると決して大きな損失ではなかった。 ルメイはこの成功を「近代航空戦史で画期的なできごととなった」と胸をはったが、民間人の大量虐殺について「幸せな気分になれなかった」としつつも、日本軍がフィリピンでアメリカ兵やフィリピンの民間人に対して行った残虐行為を引き合いに出して、「(大量虐殺が)私の決心を何ら鈍らせなかった」と回想したり、「我々は軍事目標を狙っていた。単なる殺戮のために民間人を殺戮する目的などはなかった・・・我々が黒焦げにしたターゲットの一つに足を向けてみれば、どの家の残骸からもボール盤が突き出ているのが見えたはずだ。国民全員が戦争に従事し、飛行機や弾薬を造るために働いていたのだ・・・大勢の女性や子供を殺すことになるのはわかっていた、だが、我々はやらねばならなかった」と当時の日本工業生産の特徴でもあった家内工業のシステムの破壊が目的であり、仕方なかったとも述べているが、戦後には兵士らに向けて「戦争とはどんなものか教えてやろう。君たちは人間を殺さなければならない。そして、できるだけ多く殺したときに、敵は戦いをやめるのだ」とも語っている。 一方で日本の総理大臣小磯国昭はこの空襲を「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難し、国民に対しては「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と呼びかけたが、この惨禍はこれから日本全土に広がっていくこととなり、ルメイは、その後も3月11日、B-29の310機で名古屋(名古屋大空襲)、3月13日、295機で大阪(大阪大空襲)、3月16日、331機で神戸(神戸大空襲)、3月18日、310機で再度名古屋を東京大空襲と同様に、夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃を行った。 日付死者焼失建物B-29出撃数損失名古屋1回目1945年3月11日 586名 27,803戸 310機 1機 大阪1945年3月13日 3,987名 136,107戸 295機 2機 神戸1945年3月17日 2,598名 65,000戸 331機 3機 名古屋2回目1945年3月19日 1,027名 39,893戸 310機 1機 この損失機は特攻機によって撃墜されました。東京大空襲からわずか10日間の間に、ルメイは延べ1,595機のB-29を出撃させたが、この機数はそれまでマリアナから日本本土を爆撃した延べ機数の3倍の数であり、投下した9,365トンという爆弾の量も、3月9日までに投下した爆弾量の3倍となった。日本の都市が焼夷弾攻撃に極めて脆いことが実証され、東京大空襲を境にして対日戦略爆撃の様相は一変してしまった。ルメイの命令により、一旦はB-29から取り外された尾部銃座以外の防御火器であったが、B-29搭乗員らの士気が減退したためもとに戻させている。しかし、日本軍の夜間戦闘機よりはフレンドリーファイアを恐れたルメイは、夜間爆撃の際は弾薬は機体下部の銃座のみに支給し、サーチライトを狙い撃ちするよう命じていたが、日本軍戦闘機の迎撃は低調であり損害は少なかった。 ワシントンではノースタッドが「この5回の空襲が日本に与えた打撃は、今までこんな短い期間の間に、どの国民にあたえたものより大きなものになった」と述べたが、事実その通りで、日本の重要な4都市の80km2という広大な地域が灰燼に帰していた。ロンドン大火の教訓として、可燃建造物の建築を禁止するなど都市防火対策が進んでいたヨーロッパと比較すると、関東大震災など歴史上度々大火に見舞われたにも関わらず日本の都市防火対策は著しく遅れており、新兵器M69焼夷弾の威力も合わさって、次々と大都市が猛火に包まれた。日本の航空機部品生産の下請工場は主要4都市の工業地帯に蜜集しており、その生産能力は全体の22%を占めていたが、都市人口密集地への無差別爆撃はこれら小規模工業事業者にも大打撃を与えて、日本の家内工業のシステムを破壊し、航空機の生産に重大な損失をもたらせた。 1945年3月26日には硫黄島の戦いの激戦を経て、硫黄島がアメリカ軍に占領された。硫黄島は防空監視拠点として日本軍に重要だっただけでなく、マリアナ諸島への攻撃の日本軍前進基地としてアメリカ軍としても厄介な存在になっており攻略が急がれた。と同時に1944年11月から開始されたB-29の日本本土空襲により、損傷機や故障機がマリアナのアメリカ軍基地までたどり着けないことも多かったので、緊急用の不時着基地として、また、航続距離の短い護衛用戦闘機の基地としても使用するため、26,040名死傷という大損害を被りつつも攻略したものであった。 B-29の最初の不時着機は、まだ日本アメリカ両軍が戦闘中であった1945年3月4日に緊急着陸し、その後も終戦までに延べ2,251機のB-29が硫黄島に緊急着陸し、約25,000名の搭乗員を救うことになった。また、P-51Dを主力とする第7戦闘機集団が硫黄島に進出し、B-29の護衛についたり、日本軍飛行場を襲撃したりしたため、日本軍戦闘機によるB-29の迎撃は大きな制約を受けることとなった。
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