作戦方針の変更とは? わかりやすく解説

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作戦方針の変更

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:04 UTC 版)

B-29 (航空機)」の記事における「作戦方針の変更」の解説

1945年元旦アーノルドは、ハンセル更迭伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナ派遣し、また指揮権移譲打ち合わせのためルメイマリアナ飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍参謀長ハンセルから引き継いでおり2人個人的に親しかった。またルメイヨーロッパ戦線ハンセル部下として働いたこともあった。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日手短な打ち合わせ行ってルメイは一旦インド帰った1945年1月20日ハンセル更迭し、その後任に中国B-29運用してきたルメイ任命する正式な辞令発令された。アーノルドルメイ中国での働きぶりを高く買っており、このとき38歳であった若い将軍アーノルドは「自分のすべて」であったB-29任せることにした。第20爆撃集団ルメイ離任後にはクアラルンプール司令部移して日本本土爆撃中止し小規模な爆撃東南アジア日本軍基地継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団マリアナ合流している。 ルメイ着任するまで、ハンセル命令による高高度精密爆撃継続された。1945年1月14日には名古屋三菱航空機製作所B-2973機による再度爆撃受けたが、高い積乱雲があり全体的にもやがかかっていたのにも関わらず爆撃成果良好であった。この爆撃に対して厚木基地から駆けつけてきた、これまで多数B-29撃墜破し「B-29撃墜王」として国民的な人気者となっていた遠藤幸男大尉率い第三〇二海軍航空隊斜銃搭載の「月光11機が迎撃したが、指揮官遠藤B-29を1機撃墜した直後に他のB-29集中射撃受けて乗機からパラシュート降下を図るも戦死し第三〇二海軍航空隊司令官小園安名大佐を嘆かせている。この日月光隊は5機を撃墜し遠藤通算16機目のB-29撃墜破したと認定された。アメリカ側損失記録も5機であった。(1機が出撃中に不時着水、1機が原因不明、2機が帰還中に海上墜落、1機が基地帰還する毀損判定全壊判定ハンセルによる最後の作戦は、1945年1月17日神戸明石川崎飛行場対す爆撃で、62機のB-29が7,500mから8,000mで155トン爆弾投下したが、天候恵まれていたため爆撃精度は非常に高く工場39%を破壊し一時的に生産能力90%を喪失させた。日本軍迎撃もあったが未帰還機は1機もなく、最後にして「(ハンセルによる)最初の完全に成功であったB-29攻撃」と公式記録書かれたほどであった1945年1月20日着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃アメリカ陸軍航空隊伝統的ドクトリンであり、当初ハンセル精密爆撃踏襲したが、1月23日1月27日航空機工場対す高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に合計11機のB-29を失うという惨めな結果終わった前任者ハンセルによる初の東京空襲から1945年2月10日までの16回に及ぶ日本本土空襲で、第21爆撃集団合計78機のB-29失っていたが、期待していた戦果挙げることはできず、ルメイあがらぬ戦果予想外損失頭を悩ませていた。信頼していたルメイ結果出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナ派遣してルメイを「やってみろ。B-29結果出せ結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人アメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激し言葉叱咤した。 アーノルド叱咤されたルメイ大胆な作戦方針の変更を行うこととした。今までは、アメリカ陸軍航空隊伝統的ドクトリンに基づく、対ドイツの戦略爆撃ならった高高度昼間精密爆撃固執し、高度8500mから9500mの昼間爆撃行っていたが、偵察写真確認したルメイは、ドイツ本土爆撃悩まされ高射機関砲日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイ爆撃高度を思い切って高度1500m3000mの低高度に下げることにした。爆撃高度を下げれば、ジェット気流影響受けないこと、エンジン負荷軽減燃料節約し多く爆弾積めること、爆撃正確に命中すること、あと高高度爆撃では好天を待たなければならなかったが、爆撃高度を下げればの下を飛行すればよく、出撃日を増加できること大きかった。そして高射機関砲少な日本では爆撃高度を下げて損失率は上がらない見積もった使用する爆弾M69焼夷弾であったが、この焼夷弾1943年3月ダグウェイ実験場(ユタ州)での実戦さながら実験おこなわれたその実験というのは演習場日本式家屋立ち並ぶ市街地建設し、そこで焼夷弾燃焼実験を行うといった大規模なものであったが、日本家屋建築にあたっては、ハワイから材料取り寄せ日本18年在住し建築家アントニン・レーモンド)が設計するといった凝りようであったM69焼夷弾ナパーム(ゲル化ガソリン)で炎上した日本式家屋容易に消火できず、日本最適焼夷弾認定された。そして焼夷弾による都市への無差別爆撃効果前年漢口大空襲実証済みであった。 しかし低空では敵迎撃機対空砲危険性があるので夜間爆撃とした。当時アメリカ軍B-29搭載できるレーダーは高度5000m限界だったが、ルメイの案であれば効果発揮された。夜間戦闘機戦力充実していたドイツ軍比較してルメイ日本軍夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず、B-29尾部銃座以外の防御火器旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量増やすことにした。この改造作業ベル生産機体で主に実施された。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載今まで作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、編隊防御重視コンバット・ボックスではなくイギリス軍ドイツ本土へ夜間爆撃多用した編隊先頭練度の高いパスファインダー爆撃により引き起こされ火災目印として1機ずつ投弾するというトレイル単縦陣)に変更したルメイの新戦術最初作戦3月10日東京大空襲となったルメイ出撃先立って部下搭乗員に「諸君酸素マスク捨てろ」と訓示している。325機のB-293月9日午後5時15分マリアナ諸島アメリカ軍基地出撃すると、3月10日午前0時5分に第一弾投下したルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗願ったが、このときルメイ原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画概要聞いており、撃墜され捕虜になるリスク考えて自分がもっと信頼していた トミー・パワー(英語版将軍代わりに出撃させることとした。空襲ルメイ計画通り大成功となり、発生した大火災によりB-29搭乗員真夜中に関わらず腕時計の針を読むことができたぐらいであった。たった一晩83,000人の住民死亡し26万戸家屋焼失したが、他の焼夷弾爆撃桁違い被害もたらせ最大原因関東大震災のさいにも発生した火災旋風大規模に発生したためであった低空飛行をしていたB-29火災旋風による乱気流巻き込まれた。なかには機体一回転した機もあり、搭乗員全員負傷し顔面痛打して前歯欠いたものもいた。あまりに機体上下するので、着用していた防弾服顔面何度もたたかれ最後に全員防弾服脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている。 3月9日、夜10時すぎに日本軍八丈島配備していた陸軍実用レーダー超短波警戒機乙によって機影探知したが、折から強風レーダーアンテナ激しく揺れてスコープ映像不正確であり編隊概要までは掴めていなかった。日本標準時9日2230分にはラジオ放送中断警戒警報発令したが、陸軍の第10飛行師団何の対策もとらないうちに確認していた2機のB-29去った認識したため、一旦警戒警報解除している。しかし、3月10日に日が改まろうとする頃に、房総半島南端洲崎監視廠がB-29らしき爆音確認し慌てて第12方面軍司令部報告したが、そのわずか数分後の0時8分には東京東部焼夷弾攻撃受けたため、空襲警報空襲開始されたのち0時15分となり、市民避難日本軍による迎撃も間に合わなかった。それでも、10飛行師団飛行23戦隊一式戦「隼」)、飛行第53戦隊二式複戦「屠龍」)、飛行70戦隊二式戦鍾馗」)の計42機と海軍第三〇二海軍航空隊から月光4機が出撃し、高射砲との戦果合わせてB-2915撃墜50撃破戦果報じたアメリカ軍側の記録でもB-2914失われ今まで爆撃任務最大級損失はなったが、その劇的な成果比較する決し大きな損失ではなかった。 ルメイはこの成功を「近代航空戦史で画期的なできごととなったと胸をはったが、民間人大量虐殺について「幸せ気分になれなかった」としつつも、日本軍フィリピンアメリカ兵フィリピン民間人に対して行った残虐行為引き合い出して、「(大量虐殺が)私の決心何ら鈍らせなかった」と回想したり、「我々は軍事目標狙っていた。単なる殺戮のために民間人殺戮する目的などはなかった・・・我々が黒焦げにしたターゲット一つ足を向けてみれば、どの家の残骸からもボール盤突き出ているのが見えたはずだ。国民全員戦争従事し飛行機弾薬造るために働いていたのだ・・・大勢女性子供を殺すことになるのはわかっていた、だが、我々はやらねばならなかった」と当時日本工業生産特徴でもあった家内工業システム破壊目的であり、仕方なかったとも述べているが、戦後には兵士らに向けて戦争とはどんなものか教えてやろう。君たち人間を殺さなければならない。そして、できるだけ多く殺したときに、敵は戦いをやめるのだ」とも語っている。 一方で日本の総理大臣小磯国昭はこの空襲を「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難し国民に対しては「都民空襲恐れことなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護大任全うせよ」と呼びかけたが、この惨禍これから日本全土広がっていくこととなり、ルメイは、その後3月11日B-29310機で名古屋名古屋大空襲)、3月13日295機で大阪大阪大空襲)、3月16日331機で神戸(神戸大空襲)、3月18日310機で再度名古屋東京大空襲同様に夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃行った日付死者焼失建物B-29出撃損失名古屋1回目1945年3月11日 586名 27,803戸 310機 1機 大阪1945年3月13日 3,987136,107295機 2機 神1945年3月17日 2,598名 65,000331機 3機 名古屋2回目1945年3月19日 1,027名 39,893戸 310機 1機 この損失機は特攻機によって撃墜されました。東京大空襲からわずか10日間の間に、ルメイ延べ1,595機のB-29出撃させたが、この機数はそれまでマリアナから日本本土爆撃した延べ機数の3倍の数であり、投下した9,365トンという爆弾の量も、3月9日までに投下した爆弾量の3倍となった日本の都市焼夷弾攻撃極めて脆いことが実証され東京大空襲を境にして対日戦爆撃様相一変してしまった。ルメイ命令により、一旦はB-29から取り外され尾部銃座以外の防御火器であったが、B-29搭乗員らの士気減退したためもとに戻させている。しかし、日本軍夜間戦闘機よりはフレンドリーファイア恐れたルメイは、夜間爆撃の際は弾薬機体下部銃座のみに支給しサーチライト狙い撃ちするよう命じていたが、日本軍戦闘機迎撃低調であり損害少なかったワシントンではノースタッドが「この5回の空襲日本与えた打撃は、今までこんな短い期間の間に、どの国民あたえたものより大きなものになった」と述べたが、事実その通りで、日本重要な4都市の80km2という広大な地域灰燼に帰していた。ロンドン大火教訓として、可燃建造物建築禁止するなど都市防火対策進んでいたヨーロッパ比較すると、関東大震災など歴史上度々大火見舞われにも関わらず日本の都市防火対策著しく遅れており、新兵器M69焼夷弾威力合わさって次々と大都市猛火包まれた。日本の航空機部品生産下請工場は主要4都市工業地帯に蜜集しており、その生産能力全体22%を占めていたが、都市人口密集地への無差別爆撃はこれら小規模工業事業者にも大打撃与えて日本家内工業システム破壊し航空機生産重大な損失もたらせた。 1945年3月26日には硫黄島の戦い激戦経て硫黄島アメリカ軍占領された。硫黄島防空監視拠点として日本軍重要だっただけでなく、マリアナ諸島への攻撃日本軍前進基地としてアメリカ軍としても厄介な存在になっており攻略急がれた。と同時に1944年11月から開始されB-29日本本土空襲により、損傷機や故障機がマリアナアメリカ軍基地までたどり着けないことも多かったので、緊急用不時着基地として、また、航続距離の短い護衛戦闘機基地としても使用するため、26,040死傷という大損害を被りつつも攻略したものであったB-29最初不時着機は、まだ日本アメリカ両軍戦闘中であった1945年3月4日緊急着陸し、その後終戦までに延べ2,251機のB-29硫黄島緊急着陸し、約25,000名の搭乗員を救うことになったまた、P-51Dを主力とする第7戦闘機集団硫黄島進出しB-29護衛についたり、日本軍飛行場襲撃したしたため日本軍戦闘機によるB-29迎撃大きな制約を受けることとなった

※この「作戦方針の変更」の解説は、「B-29 (航空機)」の解説の一部です。
「作戦方針の変更」を含む「B-29 (航空機)」の記事については、「B-29 (航空機)」の概要を参照ください。

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