東京大空襲と都市への無差別爆撃の激化
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「太平洋戦争」の記事における「東京大空襲と都市への無差別爆撃の激化」の解説
詳細は「東京大空襲」を参照 第21爆撃集団司令官ヘイウッド・ハンセル准将による初の東京空襲から1945年2月10日までの16回に及ぶマリアナ諸島からの日本本土空襲で、アメリカ軍は合計78機のB-29を失っていたが、期待していた戦果を挙げることはできずハンセルは更迭された。アーノルドは信頼していたルメイをハンセルの後任としたが、ルメイもあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した。アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。爆撃高度を思い切って高度1500m~3000mの低高度に下げることにし、これまでの白昼の空襲ではなく、夜間に空襲することによって爆撃高度を下げても損失率は上がらないと判断した。使用する爆弾は日本の市街地を焼き払うために開発されたM69焼夷弾としたが、搭載されたナパーム(ゲル化ガソリン)の火力は凄まじく、木造建造物が多い日本に最適の焼夷弾と認定されていた。 ルメイの新戦術の最初の作戦は3月10日の東京大空襲となった。325機のB-29は3月9日の午後5時15分にマリアナ諸島のアメリカ軍基地を出撃すると、3月10日の午前0時5分に第一弾を投下した。空襲はルメイの計画通り大成功となり、たった一晩で83,000人の住民が死亡し、26万戸の家屋が焼失したが、他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は関東大震災のさいにも発生した火災旋風が大規模に発生したためであった。東京大空襲からわずか10日間の間に、ルメイは名古屋、大阪、神戸などの大都市に延べ1,595機のB-29を出撃させたが、この機数はそれまでマリアナから日本本土を爆撃した延べ機数の3倍の数であり、投下した9,365トンという爆弾の量も、3月9日までに投下した爆弾量の3倍となった。日本の都市が焼夷弾攻撃に極めて脆いことが実証され、東京大空襲を境にして対日戦略爆撃の様相は一変してしまった。 あらゆる性能で日本軍機を圧倒していたB-29の迎撃に日本軍は苦戦し、日本本土の各都市は次第に焦土と化していった。それでも日本本土空襲で失われたB-29は485機にも及び、1945年5月25日(爆撃は翌26日の未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、日本軍は大量の陸海軍迎撃機を出撃させたうえ、合計14,476発の高射砲弾を浴びせて、B-29合計47機撃墜を記録している。一方、アメリカ軍の公式記録ではこの日のB-29の損失は26機となっており、日本本土空襲で1日に失われた機数としては最悪のものとなって、その損害を聞かされたB-29の搭乗員は恐れをなしている。 戦後に日本とドイツに対する戦略爆撃の効果を調査した米国戦略爆撃調査団が出した結論は、日本本土空襲でのB-29の損失は、第8空軍がドイツ本土爆撃で被った損失の1/3であり、日本の警戒システムと迎撃地上管制システムはドイツ軍と比較して“poor”(貧弱)だったと評された。 日本の防空システムが“poor”だった要因としては下記を指摘している。 日本の戦争指導者たちが、連合軍による空襲の危険性を十分に認識せず、防空システムの整備を優先しなかった フィリピン作戦中は、日本軍航空部隊は連合軍の北上を止めるために使用され、それ以降は本土上陸に対する防衛が優先された 対上陸部隊として使用するため、航空機と搭乗員は温存されて、日本空軍は常に作戦可能な戦闘機の30%未満しか本土防空に使用しなかった また、ドイツ本土爆撃で使用されたB-17及びB-24と比較するとB-29は高性能であり、それを使いこなしたのも日本本土空襲が成功した大きな要因となったとも指摘している。しかし、日本軍も貧弱な防空体制ながら健闘し、作戦従事機数に対する損失率で比較すれば、ドイツ本土空襲でのB-17とB-24の損失率が1.60%なのに対して、日本本土空襲でのB-29の損失率は1.32%であった。
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