飛行第53戦隊
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1945年(昭和20年)6月27日、第10飛行師団長は飛行第53戦隊長に対し、一部兵力を割いて富山飛行場に派遣し、第13方面軍司令官の指揮下に入るように命じた。この措置は富山大空襲#伏木・新湊方面の空襲に伴う港湾地区防衛のためのもので、桜井少尉、宮下槌太郎少尉らの二式複座戦闘機7機が配備された。その後は港湾地区に対する空襲はなかったが、1945年(昭和20年)7月に行われた富山大空襲#富山市におけるパンプキン爆弾や富山大空襲直前の8月1日には米軍機に対する反撃のために出撃したといわれ、このうち8月1日の出撃においては1機の二式複座戦闘機が四方の製材所に墜落し、搭乗員2名(荒 俊男少尉、同乗高橋兵長)が戦死する事故が起こっている。 同年8月2日の富山大空襲において富山飛行場の二式複座戦闘機が出撃したかどうかは諸説あり、例えば北日本新聞社が編纂した『富山大空襲』においては一機も迎撃を行わなかったとしているが、確かに戦闘機が富山飛行場より飛んでいくのを見たという証言も存在する。米軍の資料においては、富山大空襲を行うに際し、5機の戦闘機と遭遇したなどと報告されているが、これらの戦闘機が富山飛行場より出撃したものであるかは明らかではない。 同月14日深夜から15日未明にかけて第20航空軍所属の第313爆撃航空団のB-29、39機が日本海側4都市の港湾に機雷を投下し、石川県七尾湾に機雷を投下したと思われるB-29が富山上空を通過し、これを二式複座戦闘機が迎撃し富山上空で照空灯に照らし出されたB-29を下方から銃撃。B-29は直ちに照空圏外に離脱したため、戦果は不明だが富山飛行場より出撃し空中戦を行ったことを、同機を操縦していた、今井潤一氏が証言している。
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