飛行第47戦隊付「整備指揮小隊」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 02:27 UTC 版)
「誉 (エンジン)」の記事における「飛行第47戦隊付「整備指揮小隊」」の解説
中島飛行機では「誉」にも公式マニュアルを用意していたが、教育体制の不備により活用できた部隊は少なく、現場でも「故障しやすいエンジン」というイメージがあった。 例外として飛行第47戦隊付整備指揮班長刈谷正意中尉 によれば、「油圧低下や燃圧振れはポンプ吸入側の空気吸い込みが主原因であるのに、これを修治せず放置するとエンジン内部故障になり」「誉は直ぐに故障する」となるが、それは「自己の怠慢を天下に公表しているようなもの」であると評した。「誉」の整備にも、特に「秘策はなく定時点検整備を、時間管理票に従ってマニュアルに少し手を加えて行う」ことにより「在隊稼働率100パーセントを維持(定数外大修理機を入れれば87パーセント)」を終戦まで維持したとのことである。 また、47戦隊では官制にはない「整備指揮小隊(整備指揮班)」を独自に組織していた。これは全般の技術指導、各整備小隊間のコントロール、対外連絡、資料の作成や収集などのエンジニアリングを行うものであった。優秀選抜兵による「第4小隊」は、作戦から独立して故障修理にあたり、手のかかる故障機等を迅速に戦列復帰させた。 整備兵員への教育も徹底され、日々の整備を実地の訓練として、各整備小隊長は整備隊長の教育実施計画の下、毎日の教育実施結果を整備隊長に報告し、幹部整備員は隊長の教育を毎週あるいは適時に受け、課題にリポートすることが義務付けられた。これらにより、異動や戦闘などの損失を受けても整備員の質が維持されるなど、欧米に比肩する体制が整えられた。 陸軍では伝統的に手すき時や最前線進出時には搭乗員も整備を行っていたが、47戦隊ではさらに組織化され、搭乗員に機体整備の情報共有への参画が命ぜられた。そして、戦隊長以下の全パイロットも適時に整備から取扱いの研修を受け、自機の不具合はデータを付して整備に提出することが徹底された。このような搭整一体の協力により、敗色濃厚な中にあっても終戦まで兵器の質が維持されたのである。刈谷によれば「47戦隊で100パーセント働いた」エンジンが他部隊で動かなかったのは「日本陸軍の整備教育が間違っていたから」であり、「疾風(誉)のせいじゃない」と回想している。 実際、エンジンの種類は違うものの、液冷エンジンのアツタもエンジンの整備に悩まされたという共通する点があり、それを搭載した彗星も(エンジンだけが理由ではないものの)稼働率の維持に悩まされた。だが、彗星の整備に熟練した人員がいた部隊の彗星に関しては不調の頻度が低い傾向であった。また、それを主力とした芙蓉部隊では工場技術者による整備の直接指導により整備能力が向上し、液冷型彗星の整備状況が改善した結果、少なくとも整備不良による不調の頻度は低下している。以上のことから、誉にしろアツタにしろ整備が徹底されていた部隊では稼働率が安定していたとされており、刈谷の発言の根拠を補強する結果となっている。
※この「飛行第47戦隊付「整備指揮小隊」」の解説は、「誉 (エンジン)」の解説の一部です。
「飛行第47戦隊付「整備指揮小隊」」を含む「誉 (エンジン)」の記事については、「誉 (エンジン)」の概要を参照ください。
- 飛行第47戦隊付「整備指揮小隊」のページへのリンク