“防空飛行師団”の創設
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「第10飛行師団 (日本軍)」の記事における「“防空飛行師団”の創設」の解説
太平洋戦争(大東亜戦争)における中部太平洋方面の情勢が悪化し、陸軍中央部は本土防空を強化するため1944年(昭和19年)3月8日、軍令陸甲第27号を下令した。これは東京都北多摩郡の調布飛行場に置かれていた第17飛行団司令部を復帰解消し、第10飛行師団司令部を臨時編成するものである。3月10日、司令部編成が完結し、大陸命第961号による師団編合も完結した。第10飛行師団は第1航空軍司令官の隷下に置かれ、作戦行動においては本土全体の防衛を統轄する防衛総司令部の指揮下で主として関東地区の防空にあたった。 第10飛行師団司令部の編成完結時における隷下部隊は次のとおりである。 航空部隊 独立飛行第17中隊(一〇〇式司令部偵察機使用、調布飛行場) 飛行第18戦隊(三式戦闘機使用、調布飛行場) 飛行第47戦隊(二式単座戦闘機使用、柏飛行場) 飛行第244戦隊(三式戦闘機使用、調布飛行場) 東部軍直協飛行隊 地上部隊 第3飛行場大隊 第6飛行場大隊 第7飛行場大隊 第43飛行場大隊 第244飛行場大隊 第1対空無線隊 第2対空無線隊 第17航空情報隊 このほか隷属関係にはないが作戦遂行上の指揮下部隊として、飛行第1戦隊(一式戦闘機使用、柏飛行場)と飛行第70戦隊(二式単座戦闘機使用、松戸飛行場)があった。さらに4月には第13航空通信隊が、5月には飛行第53戦隊(二式複座戦闘機使用、松戸飛行場)が第10飛行師団の隷下部隊となった。また明野陸軍飛行学校分校、下志津陸軍飛行学校などの教官あるいは助教や、陸軍航空審査部に技量の優れた操縦者がいることを利用し、それぞれ数機から十数機ほどで編成する小規模の部隊を通称「東二号部隊」として臨時に第10飛行師団の指揮下に入れ防空任務を兼務させた。 指揮官は司令部編成当初、前身である第17飛行団長の佐藤正一少将が師団長心得となったが、3月28日に第1航空軍参謀長であった吉田喜八郎少将と交代した。第10飛行師団は緊急性の高い防空部隊の特質上、指揮の結節を少なくすることを主な理由として師団の下に飛行団を設けず、師団長が各飛行戦隊を直接指揮した。 師団司令部は第17飛行団の司令部を継承し調布飛行場に置かれた。これは飛行部隊の指揮は飛行場で行わなければならないとの飛行団当時の考えによるものである。しかし師団として指揮下の部隊が各地に増えたことで通信連絡が重要との認識から、5月5日、第10飛行師団司令部は各種の防空情報がすべて集まり諸設備も完備する東京都神田区竹橋の東部軍司令部内に移動した。 同じ5月5日、大陸命第1003号下令により本土統帥の一元強化を目的とする機構改編が行われ、5月10日0時をもって第10飛行師団は第1航空軍の隷下から脱し、防衛総司令部の直轄として編入された。
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