米軍艦載機との戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 04:24 UTC 版)
「第10飛行師団 (日本軍)」の記事における「米軍艦載機との戦闘」の解説
1945年(昭和20年)2月16日朝、太平洋に展開している米海軍機動部隊の航空母艦から発進した艦載機が房総半島沖から低空で本土に接近し、第10飛行師団は各戦隊を出撃させた。ただし二式複座戦闘機を使用する飛行第53戦隊は夜間戦闘専任とされており、飛行機から燃料と弾薬を抜き根拠地としている千葉県松戸市の松戸飛行場周辺に分散して遮蔽するほか、技量未熟の操縦者は群馬県新田郡の新田飛行場へ退避させた。米軍艦載機は第一波の約90機(日本側推定)が鹿島灘、三浦半島、房総半島南端からそれぞれ本土に侵入し、千葉、茨城両県にある各飛行場を攻撃したあと海上へ脱出した。続いて約90機の第二波、約100機の第三波、約120機の第四波(機数はいずれも日本側の推定)が鹿島灘と九十九里浜から侵入し、主として沿岸地域にある陸海軍の飛行場を攻撃した。 同日午後には艦載機約90機(日本側推定)の第五波が九十九里浜から侵入し、印旛飛行場、調布飛行場、東京都板橋区の成増飛行場、神奈川県高座郡の厚木海軍飛行場を攻撃した。さらに第六、第七波あわせて推定約450機が鹿島灘から侵入、主力は群馬県の中島飛行機太田工場、一部は陸海軍の飛行場などを攻撃した。米軍艦載機はF6F戦闘機、F4U戦闘機、SB2C爆撃機、TBF攻撃機などである。第10飛行師団の各戦隊は反復して邀撃し、戦果は撃墜62機、撃破27機と報告したが、損害は邀撃任務の戦闘機が未帰還37機のほか、哨戒任務に出動した独立飛行第17中隊や既述の「東二号部隊」である下志津飛行隊の一〇〇式司令部偵察機にも数機の損害があった。 同日夕刻、第10飛行師団の指揮権をもつ防衛総司令官は、戦力が充実している飛行第47戦隊と飛行第244戦隊を第6航空軍の直轄とし、同飛行師団の戦力を制限した。これは「本土決戦」に備えて航空戦力の温存を重視する防衛総司令部の方針によるもので、中型、小型の敵機に対し活発に邀撃を行えば戦力の消耗が深刻化するとの判断である。 2月17日朝、米軍艦載機はこの日も来襲し、第一波約180機の主力は関東地区にある各地の陸海軍飛行場を、一部は静岡県の浜松飛行場を攻撃した。これに続く第二波約90機は千葉県、神奈川県を空襲し、第三波約150機は埼玉県と東京都の飛行場ならびに北多摩郡の中島飛行機武蔵工場などを攻撃した。さらに正午ごろに第四波約70機(機数はいずれも日本側の推定)が横浜港の施設と船舶、および千葉県館山市を攻撃した。第10飛行師団は前述のとおり飛行第47戦隊、飛行第244戦隊が指揮下から除外され、また前日の損耗のため戦力が大きく減少していたが反復して出撃し、撃墜36機、撃破18機を戦果として報告した。損失は未帰還14機である。 第10飛行師団は両日の戦闘で50機以上を損失し、空戦の中心となる熟練操縦者を数多く失った。しかし指揮官吉田少将は航空作戦において戦力の温存には反対の考えであり、敵機の来襲にはかならず出撃することが戦闘機部隊の伝統であるにもかかわらず、邀撃を制限すれば攻撃精神を損ない、部隊の存在意義をも失うと憂慮した。第10飛行師団参謀長、岡本修一大佐は師団長の命により17日に防衛総司令部に出頭し吉田少将の考えを述べ邀撃制限を解除するよう意見具申したが、防衛総司令部は邀撃制限の解除を受け入れなかった。 2月19日午後、マリアナ諸島の航空基地から発進したB-29爆撃機約100機(日本側推定)が関東地区に来襲し東京と周辺の市街地を無差別爆撃し、東京都では葛飾区および江戸川区に多大の被害があった。第10飛行師団は全力出動し、それまでの戦闘で熟練の操縦者を多く失った同師団では操縦時間200時間ほどの特別操縦見習士官が敢闘した。戦果は体当たり2機を含む撃墜21機を報告し、損害は4機であった。 2月25日朝、多数の米軍艦載機が房総半島および鹿島灘から逐次侵入した。第10飛行師団は飛行第23戦隊、飛行第70戦隊、飛行第18戦隊のみを艦載機の邀撃に待機させ、武装司偵と二式複座戦闘機を装備する戦隊、および震天制空隊はB-29爆撃機に対する邀撃のため温存する命令が吉田師団長により下達されていた。その後B-29が同日午後に来襲と判断され、吉田少将は艦載機への邀撃を変更し、全部隊に飛行機の燃料と弾薬を抜き分散遮蔽して対B-29の戦闘に注力するよう命令した。午前中に来襲した艦載機は総計約600機と推定され、主として関東北部および東部の飛行場、工場、交通機関を攻撃し太平洋上に脱出した。同日午後、約130機と推定されるB-29爆撃機が7梯団となり東京上空に侵入した。この日は朝からの曇天が次第に悪化して大雪となっていた。B-29は雲上から東京の市街地へ焼夷弾、爆弾を投下し、この空襲だけで約19万戸が焼失したが、第10飛行師団は悪天候のためについに出動できなかった。
※この「米軍艦載機との戦闘」の解説は、「第10飛行師団 (日本軍)」の解説の一部です。
「米軍艦載機との戦闘」を含む「第10飛行師団 (日本軍)」の記事については、「第10飛行師団 (日本軍)」の概要を参照ください。
- 米軍艦載機との戦闘のページへのリンク