米軍進駐後
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ノースドレイク敷地内にはリトルペンタゴンと呼ばれる第500情報団本部や米陸軍戦略陸軍通信隊(STARCOM)の主要中継局舎が作られ、これに付随した送信アンテナは桃手地区(現:和光市 南地区)に建設された。名称もFEN東京となる。輸送隊、憲兵隊、補給隊が駐屯した。これらに伴う隊員宿舎やバーなども建設され、1952年(昭和27年)には米軍極東指令部(ダグラス・マッカーサー司令)が置かれ、朝鮮戦争時には諜略撹乱放送なども行われている。また基地に従事していた日本人は4,000人に及んだ。 朝鮮戦争時には、駐屯していた第一騎兵師団から1万5,000人もの兵士が前線へと送られた。この派兵は3ヶ月交代であり、朝霞は帰休兵の休暇場となる。この時期に基地内に戦車を修理するための修理工場なども作られている。基地周辺では様々な人種が絡む殺人や暴力事件、窃盗、買売春などの発生によって治安が悪化した。埼玉の「上海」と呼ばれるようになった。この治安悪化により、当初は浦和警察署管内であったが、治安対策のために1947年(昭和22年)に朝霞警察署が建設されている。戦死者が多く、辛うじて帰還した兵士も精神を病んでしまうことが多かったため、これが機縁したとも言われている。 ベトナム戦争時には、傷病兵治療のための野戦病院「米陸軍第249総合病院」を北キャンプ内に建設し、それに伴うヘリポートも併設される。完成当初、延べ床数は200床であったが、ベトナム戦争が泥沼化するにつれて2,000床を超え、テト攻勢時には傷病兵が入れ替わり運ばれていた。また戦死者の死後処理は日本人に委託されていたとも言われている。担架に乗せられた傷病兵や遺体袋がフェンス越しに見えることによる精神的影響、伝染病などの衛生面での問題や搬送ヘリコプターが飛来するたびに付近の朝霞第6小学校の授業がその騒音のため中断されることなどが問題視された。この時期には朝霞基地問題がマスメディアなどで取り上げられることが多くなり、大規模基地返還「野戦病院さよなら運動」へ繋がるきっかけとなる。1968年(昭和43年)には、活発に行われていた学生運動家による野戦病院反対デモ隊と警察機動隊が市内にて衝突している。 全面返還の際には、基地の日本人従業員の中から自殺者が出た。
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