成増飛行場とは? わかりやすく解説

成増飛行場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/16 03:06 UTC 版)

1944年(昭和19年)撮影の成増飛行場
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

成増飛行場(なりますひこうじょう、旧字体成增飛行場)は、かつて東京都練馬区(分割前は板橋区)の光が丘(3・4・5・7丁目辺り)にあった、日本陸軍軍用飛行場。正式名称は「成増陸軍飛行場」。陸軍特別攻撃隊の出撃基地になるなどした。

概要

  • 軍の正式呼称は成増陸軍飛行場とされ、住民からは高松飛行場とも呼ばれた[1]
  • 1942年(昭和17年)4月18日ドーリットル空襲を期に、帝都防空目的の飛行場建設が具体化され、飛行場建設が急遽決まった。
  • 1943年(昭和18年)の建設工事には、陸軍近衛師団と陸軍第一師団で編成した赤羽工兵隊(約700人)、近隣在郷軍人で編成した荒川作業隊(約700人)、近隣青年団で編成した武蔵野防諜突撃隊(約170人)、他に、豊多摩刑務所囚人朝鮮からの出稼ぎ労働者、産業報国隊、学徒など総勢約2,000人が動員された[2]
  • 最盛期の土工事では、昼夜交替制で、一日延3,000人が就労する突貫工事であった。
  • 完成後は、日本陸軍の飛行第47戦隊、第43飛行場大隊、航空廠立川分廠成増分遣整備隊が置かれた。
  • 終戦間際には、南方作戦戦隊の戦力回復の場となり、特攻第48振武隊、特攻第231振武隊が置かれてその訓練地になり、他にも飛行第101戦隊、飛行第102戦隊、飛行第103戦隊が移駐した。
  • 終戦後はアメリカ軍の家族住宅「グラントハイツ」となった後、現在の光が丘およびその周辺となる[3]

施設

主要施設

  • 滑走路
    • 幅60 m、延長1,200 m、北端210 m部分は幅90 m。
    • 舗装され、道路や家屋模様に迷彩が施された。
    • 終戦後、グラントハイツの幹線道路および、その東に隣接する緑地帯に転用した。
    • 現在の夏の雲公園の北端が、滑走路の南端となり、IMAの中央やや東寄りを、南北に貫き、光が丘公園の中央が北端となる。
  • 誘導路
    • 幅20 m、延長1,300 m。
    • 現在の光が丘南交番周辺を南端として、南北に置かれる。
  • 駐機場
    • 滑走路と誘導路の間の南側に置かれる。

兵営

誘導路から西側に、各種施設が置かれた。主な施設は、以下の通り。

  • 正門 - 現在の大通り南公園の西端に所在。
  • 戦闘指揮所(作戦室) - 光が丘地区区民館の南西に所在。
    鉄筋コンクリートの半地下構造。
  • 戦闘大隊本部 - 戦闘指揮所の南西に所在。
  • 飛行中隊 - 現在の春の風公園の北、光が丘中央大通りに所在。
  • 43大隊整備中隊 - 現在の光が丘第七保育園周辺に所在。
  • 飛行機工場 - 現在の光が丘第四小学校に所在。
  • 射撃場 - 現在の光が丘第一小学校周辺に所在。
    対空射撃陣としても使われた。
  • 将校仮泊所 - 現在の光が丘第一中学校周辺に所在。
  • 医務室 - 現在の四季の香公園北端に所在。
  • 警備中隊 - 医務室の南東に所在。
  • 補給中隊 - 現在の四季の香公園南端に所在。

歴史

  • 1942年(昭和17年) - 飛行場用地の測量調査を、軍が東京府へ要請する
  • 1943年(昭和18年)
    • 月次不詳 - 測量事務所を、田柄の八幡神社内に置き、発煙筒などで風向調査などを行う
    • - 当地区の関連地主約500人が、板橋区役所に呼び出され、飛行場建設に協力するよう陸軍航空本部から要請がある[2]
    • 6月24日 - 飛行用予定地の地権者が、印鑑持参で再び区役所に呼ばれ、買収契約が強制調印され、居住する約60戸に対し、8月末までに立ち退くよう申し渡される[2]。土地は時価より高額で買い取られたが、農作物の補償はなく、移転費用は現物支給である上に、移転期日に間に合わず、移転者は困惑した[2]
    • 7月 - 赤羽工兵隊成増大隊(臨時編成)が駐留開始
    • 8月 - 荒川作業大隊、その他諸動員隊が駐留開始
    • 12月21日 - 飛行場が完成。第1航空軍第17飛行団隷下の飛行第47部隊が、本飛行場を基地とする
  • 1944年(昭和19年)
    • 3月10日 - 飛行第47部隊は、第1航空軍に新設した第10飛行師団隷下となる。飛行第47部隊に付随していた飛行場中隊が、第43飛行場大隊に改編される。航空廠立川分廠の隷下に成増分遣整備隊が編成され、駐留開始
    • 11月17日 - 第10飛行師団長が隷下の航空戦隊に、各隊4名の特別攻撃隊の編成を下命。これを受け、飛行第47戦隊抽出震天制空隊を編成する
  • 1945年(昭和20年)
  • 1947年(昭和22年)
  • 1948年(昭和23年) 6月 - 家族宿舎が完成する
  • 1952年(昭和27年) 7月26日 - 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定第2条により、旧JPNR22の施設について、米軍施設名「グランド・ハイツ住宅地区」(FAC(施設)番号3006)として、練馬区土支田町、高松町、田柄町、春日町、旭町の一部が、米軍無期限使用施設に指定される
  • 1961年(昭和36年)4月19日 - 日米政府間協定上の米軍施設名が「グラント・ハイツ住宅地区」に改まる
  • 1973年(昭和48年)9月30日 - グラント・ハイツ全体が日本へ返還となる

脚注

  1. ^ 『光が丘今昔』練馬区総務部情報公開課、1995年12月、1頁。 
  2. ^ a b c d e 山下博史『光が丘公園』、東京都建設局公園緑地部監修・東京公園文庫52、東京都公園協会、2014年
  3. ^ 『板橋区旧軍施設関連文書目録』板橋区教育委員会、2007年3月、p3

座標: 北緯35度45分40.28秒 東経139度37分44.65秒 / 北緯35.7611889度 東経139.6290694度 / 35.7611889; 139.6290694


成増飛行場

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「ドーリットル空襲」記事における「成増飛行場」の解説

空襲は、帝都防衛あり方を問う大きなきっかけとなった東部軍司令官中村孝太郎大将は、陸軍防空学校および高射砲第7連隊高射機関砲皇居周辺日劇国技館屋上配備し1942年4月20日に、独立飛行47中隊防衛司令官指揮下に入れ帝都防空の任に当たらせた。軍では、この目的にかなう飛行場として、成増飛行場を建設した

※この「成増飛行場」の解説は、「ドーリットル空襲」の解説の一部です。
「成増飛行場」を含む「ドーリットル空襲」の記事については、「ドーリットル空襲」の概要を参照ください。

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