武装司偵
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「一〇〇式司令部偵察機」の記事における「武装司偵」の解説
アメリカ軍が超重爆ことB-29開発中の情報を得ていた帝国陸軍は1943年8月に対策委員会を設置、本格的な日本本土空襲の開始に先立つ1944年5月、陸軍航空工廠に対して一〇〇式司偵三型(キ46-III)に20mm機関砲(ホ5 二式二十粍固定機関砲)2門を搭載した防戦(防空戦闘機)・高戦(高高度戦闘機)に改修・試作する指示がなされた。 偵察機、特に司令部偵察機である本機が選択された理由として、当時の日本陸海軍機の中では最優秀である高空性能をもつことがその理由であり、高高度を高速で爆撃可能なB-29に対抗するには同じく高高度を高速で飛行可能な一〇〇式司偵三型(キ46-III)は応急策ではあるが順当であった。優秀な性能をもち「純戦闘機」である四式戦「疾風」は当時まだキ84増加試作機が審査中、新鋭重武装高高度戦闘機であるキ102甲は試作段階、制式採用済の一式戦「隼」(キ43)・二式戦闘機「鍾馗」(キ44)・二式複座戦闘機「屠龍」(キ45改)・三式戦闘機「飛燕」(キ61)は高高度邀撃には上昇限度や上昇力で劣り性能不足であった。 なおこれに先立つ1942年12月、海軍の要請によりソロモン、ニューギニア航空戦に参戦した陸軍航空部隊は、一式戦が進出したラバウルにて重防御のB-17と対峙し苦戦。その重防御かつ高空を高速で飛来するB-17対策として、一〇〇式司偵二型(キ46-II)に大威力の九四式三十七粍戦車砲を搭載した改造司偵を、同様に九四式戦車砲を搭載する二式複戦乙型(キ45改乙)とともに少数機をラバウルに送付している。これらは第12飛行団隷下の「特殊攻撃隊」として実戦投入されたものの、B-17とは交戦することはなかった。 1944年6月、20mm機関砲(ホ5)を機首に2門装備したキ46-III乙の改造第1号機が完成。続いて審査部でテストが行われ、これは三型乙として採用された。続いて7月にはさらに大口径37mm機関砲(ホ204)を機体背面に「上向き砲」として搭載させることが命じられ、これはキ46-III乙+丙と称し、三型乙+丙の名で採用されている。生産数は三型乙(キ46-III乙)が計75機、三型乙+丙(キ46-III乙+丙)は少なく計15機であった。さらに同年9月、上述の武装司偵のうち50機にクラスタ爆弾であるタ弾の懸吊架追加装備が指示されている。なお、従来の純偵察機型は三型甲(キ46-III甲)となった。 これら武装を施された一〇〇式司偵は武装司偵・防戦(防空戦闘機)・高戦(高高度戦闘機)・一〇〇改・三型改などと呼称され、独立飛行第17中隊や飛行第28戦隊に少数が配備された。戦果の一例としては、11月24日の邀撃で独飛17中の武装司偵1機(操縦者:中隊長北川禎佑陸軍大尉・同乗者:古賀巌陸軍軍曹)が銚子沖40~50kmの地点で帰還中のB-29 1機を確実撃墜している(アメリカ陸軍航空軍第21爆撃集団は24日の戦闘でB-29 2機を喪失。この内の1機が武装司偵北川機の戦果とされB-29は帰途不時着水喪失、なお残る1機は飛行第47戦隊の二式戦の体当たりで墜落。一方でこの戦闘で独飛17中は1機を喪失している)。 しかしながらB-29の防御砲火により実戦投入された武装司偵も少なくない損害を出しており、また以降の戦果も撃墜に至らず撃破にとどまることが多かった。もともと武装司偵は応急策であり、四式戦の普及やまたB-29が低・中高度爆撃に戦術を変更してからは高空性能を持て余すようになり、また硫黄島陥落以後護衛戦闘機(P-51D)を伴うようになると脆弱な武装司偵は自然とB-29邀撃から外れ、通常の司偵として運用されるようになっていった。 武装司偵の機体の強度不足について、改造を担当した池田研爾による以下のような反論もある。「斜め銃の銃架の部分を補強したほかは、とくに機体の補強はしなかった。しかし、明野陸軍飛行学校の統計を見ても、戦闘機はめったに六Gのかかるような運動はやっていない。せいぜい四・五Gくらいだから、偵察機だって三・五の一・八倍、つまり六・三Gまでもつはずだからかなり思い切った運動をやっても大丈夫なはず。みんな、偵察機だから弱いだろう、という先入観があるので、そこまでやれなかったのではないか」。
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