B-29爆撃機との戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 04:24 UTC 版)
「第10飛行師団 (日本軍)」の記事における「B-29爆撃機との戦闘」の解説
1944年(昭和19年)12月26日、軍令陸甲第165号によって第6航空軍司令部が臨時編成された。これは戦局が切迫し本土における航空作戦に専任する航空軍が必要となったためで、従来の教導航空軍が第6航空軍に改編され、第10飛行師団はその隷下に置かれた。 同じころフィリピンのレイテ島は米軍の手中にあり、戦局は悪化する一方であった。大本営では今後について、米軍を主体とする連合軍は日本本土と南方との資源経路を絶つとともに本土空襲を強化し日本の戦力ならびに国力を急速に弱体化させ、機を見て本土上陸を企図するであろうと判断していた。 1945年(昭和20年)1月3日昼、大阪市街地に焼夷弾を投下し名古屋方面に東進した約90機(日本側推定)のB-29爆撃機に対し、第10飛行師団は第11飛行師団を支援するため飛行第244戦隊、飛行第28戦隊、独立飛行第17中隊戦闘班(武装司偵を使用)を出動させ、東京上空には飛行第47戦隊に哨戒を命じた。この出撃で飛行第244戦隊は敵機の撃墜確実5機、損害を与えたもの7機と戦果を報じている。 1月9日昼には関東上空にB-29爆撃機約30機(日本側推定)が侵入した。これに対し第10飛行師団は邀撃を行い、飛行第47戦隊の体当たり4機、飛行第244戦隊の体当たり2機を含む11機の敵機を撃墜確実とし、ほかに撃墜不確実4機、撃破13機の戦果を報告した。師団の同日戦死者は4名、体当たり特攻をした操縦者のうち3名は生還している。 1月27日昼、B-29爆撃機26機の第1梯団、同46機の第2梯団からなる東京東部地区の空襲に対し、第10飛行師団は全力の邀撃を実施し、敵機の撃墜22機、撃破多数と発表した。師団の損失は未帰還22機である。2月4日昼、神戸および中部日本を空襲した米軍B-29に対し第10飛行師団は戦力の一部を防空に協力させるため静岡県および東京周辺上空に出撃したが、敵機を補足することはできなかった。 2月10日昼、鹿島灘沖から茨城県を通過して群馬県に侵入し中島飛行機太田工場を爆撃した約100機(日本側推定)の敵機に対して、第10飛行師団は第16飛行団と協力し双方の合計で15機撃墜の戦果を報告したが、特攻自爆と未帰還機で7機を失った。第16飛行団はフィリピンでの作戦に参加後、12月23日に茨城県真壁郡の下館飛行場に移動して戦力回復中で、防空警報が発令された場合は第10飛行師団の指揮下に入ることになっていた。
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