武装化の中断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:35 UTC 版)
国土法違反事件の影響で、1991年(平成3年)〜1992年(平成4年)はホスゲンプラント計画や生物兵器開発などの教団武装化を中断、テレビや雑誌への出演や文化活動などに重点を置いた「マハーヤーナ」路線への転換を図った。 だが1992年頃より、「宇宙衛星から電磁波攻撃を受けている」などといった麻原の妄想、幻聴が現れ始める。「シヴァ大神の示唆では仕方ないな」とつぶやき、「内なる声」が自らの進みたい道とは違うことに苦しみ始め「いっそ死んでしまいたい」と言ったのを3女麗華が聞いている。麗華は麻原を統合失調症などの精神疾患に罹患していたのではないかと推測している。 1992年春、スリランカに用地を取得して法人を設立、1992年夏にはブータンに行き、その後インドでダライラマとも会談した。92年秋、食料、医薬品無償援助のためザイールに行ったが、これは麻原の瞑想に黒人の神が出てきたためだった。 1992年11月12日には、ブッダ釈迦牟尼遺跡を200-300人で巡り、釈迦が菩提樹の下で悟りを開く瞑想に入ったとされる聖地、ブッダガヤの大菩提寺にある「金剛座」に座り、地元の高僧に下りるように言われたが従わなかったため、警官に引き摺り下ろされた。 麻原は日本では盛んにテレビ・ラジオ番組に露出し、雑誌の取材を受けたり著名人との対談などを行った。このほか講演会開催、ロシアや東南アジア諸国・アフリカ諸国などへの訪問や支援活動、出版物の大量刊行などを行った。また、この頃、早川は、麻原と鄧小平との会談を計画し、鄧小平の娘鄧隣と会食した。 オウムは図書館への寄贈・納本も行っており、麻原の著書を初めとするオウム真理教の出版物は現在も国立国会図書館等に架蔵されている。特に若い入信者の獲得を企図し、麻原が若者向け雑誌に登場したり、1980年代後半から行っていた大学の学園祭での講演会を更に頻繁に開催するなどした(東京大学、京都大学、千葉大学、横浜国立大学等)。1992年(平成4年)にはサリン事件後広範に知られるようになるパソコン製造などを行う会社「株式会社マハーポーシャ」を設立し、格安パソコンの製造販売を行うようになった。
※この「武装化の中断」の解説は、「オウム真理教の歴史」の解説の一部です。
「武装化の中断」を含む「オウム真理教の歴史」の記事については、「オウム真理教の歴史」の概要を参照ください。
- 武装化の中断のページへのリンク