マハーヤーナとヴァジラヤーナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:45 UTC 版)
「麻原彰晃」の記事における「マハーヤーナとヴァジラヤーナ」の解説
「オウム真理教事件」および「オウム真理教の国家転覆計画」も参照 麻原は既にオウム神仙の会時代の1987年にはタントラ・ヴァジラヤーナやポアといった暴力肯定の教えを説いていたとされる。さらに、阿含宗のスパイがいないか調査させるなど、後につながる行動が始まっていた。 1988年(昭和63年)、7月に莫大な布施によりインドでカール・リンポチェと会うことに成功する。麻原の神秘体験中心主義はリンポチェにはあまり褒めてもらえなかったが、この際に麻原はリンポチェからヴァジラヤーナの暴力肯定の教えを説法され大きな影響を受け、帰国後には「これからは、ヴァジラヤーナの掟だ!」と叫びなから新実智光ら男性幹部に暴力をふるっていた。9月には在家信者死亡事件が発生、教団から死人を出す。麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」と語った。この頃からヨハネの黙示録解読に熱中し始める。同年10月28日、「当初、初めは、わたしはね、凡夫を救済するのがわたしの役割だろうと考えていた。しかし、近ごろわたしは心が少しずつ変わってきている。(略)動物化した、あるいは餓鬼化した、あるいは地獄化したこの人間社会というものの救済は不可能なのかもしれないなと。そして、じゃあどうしたらいいかというと、新しい種、つまり、今の人間よりも霊性のずっと高い種、これを残すことがわたしの役割なのかもしれないなと。」と説法した。 1989年(平成元年)、男性信者殺害事件、坂本堤弁護士一家殺害事件を指示。坂本弁護士事件では当初からオウム真理教の関与が疑われた。 1990年(平成2年)2月の衆議院議員選挙では、真理党代表として東京4区(5人区)から出馬、オウムソングを歌うなど独特の選挙パフォーマンスで注目を集め「泡沫候補とか言っているが、今に見てろよ」と語っていたが、結果は1783票で落選。「今回の選挙の結果は、はっきり言って惨敗、で、何が惨敗なのかというと、それは社会に負けたと。(略)つまり、選挙管理委員会を含めた大がかりなトリックがあったんじゃないか」「今の世の中はマハーヤーナでは救済できないことが分かったのでこれからはヴァジラヤーナでいく」として、ボツリヌス菌やホスゲン爆弾による無差別テロを計画する。 坂本弁護士事件から逃げ切った麻原だが、1990年(平成2年)10月に国土法違反事件で強制捜査を受けたため、武装化の中断を余儀なくされる。この時、「世界的に名を残す宗教にオウム真理教はこれから発展していくんじゃないかなと。ただまあ、それだけになる条件をひとつだけ備えていませんけどね。・・・それは何かというと、それは教祖の逮捕です」と妙な予言をした。 1991年(平成3年)から1992年(平成4年)にかけてはマハーヤーナ・合法路線に切り替え、文化活動や、インド・チベット・ラオス・スリランカ・ロシア訪問、テレビ朝日『朝まで生テレビ!』『ビートたけしのTVタックル』・フジテレビ『おはよう!ナイスデイ』・日本テレビ『とんねるずの生でダラダラいかせて』への出演、雑誌や新聞への登場、島田裕巳・荒俣宏・中沢新一・栗本慎一郎・田原総一朗・ビートたけしらとの対談、大学での講演などを精力的に行い知名度を高める。 かくして新新宗教ブームの代表として人気者となっていた麻原だが、一方で、麻原自身はこのような穏健路線は「邪悪な世界への誘惑」であり、「救世主としての使命を妨げている」と感じており「この流れにのってはいけない」と言ったと上祐史浩は語っている。1993年前後から「またヴァジラヤーナを始めるぞ」として徐々に武装化を再開した。
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