男性信者殺害事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 17:05 UTC 版)
TはMが死亡した現場に居合わせ、遺体を運搬し、焼却の際も現場に立ち会って護摩壇にくべる薪を運ぶなどしていた。 T(当時21歳)は、福岡県北九州市の生まれで、地元の私立高校の電気科を卒業後、大手家電メーカーに就職。1988年6月に退職し出家すると、富士山総本部道場で修行しながら電気班に所属して、1988年12月中旬までサティアンビルの保全などを担当していた。Tは爽やかでまじめな性格で、大きな声と大きな動作で修行に取り組む目立つ存在だった。その姿を麻原も好感を持って見ていたという。しかし出家して4か月後くらいから次第に不満を口にする様になり、東京本部の教団出版部門であるオウム出版に転属となる。オウム出版では、責任者だった岡﨑の元で営業に従事し書店回りをしていたが、1988年12月下旬頃「修行に参加させてもらえない」「合わないワークをやっても功徳にならない。修行がしたい」と述べて、富士山総本部への異動を申し出た。そこで、岡﨑がTの希望を麻原に伝えたが、一蹴されてしまう。Tは引き続きオウム出版で営業職に従事していたが、1989年1月上旬ころ、岡﨑に対し「こういうワークで解脱できるんですか」「私は『Mの件』のあと、教祖を信じることができません。いっそ帰郷して、自分なりに修行する道を選びたいのです」と教団からの脱会を申し出た。岡﨑は思いとどまるよう説得したが、Tが応じなかったことから、麻原にこれを報告した。1989年1月中旬ころ、麻原はTを富士山総本部の電気班に再度転属させた上で、1月下旬から2月上旬の数日間、村井に命じて独房修行と称しTを富士山総本部道場前の空き地に設置したコンテナ内の施錠付き独房内に監禁した。 独房は、コンテナ(長さ12.15 m、縦2.57 m、横2.44 m)の内部を改造し、その中に5つ設けられた広さ2畳程の1室で、室内は外壁上部に通気孔が開けられているだけだった。電灯などの照明は設置されておらず、排便用具としてオマルが置かれており、各室のドアは外側から施錠され、食事の配給や汚物の始末は担当の信者が1日1回各室を巡回して行っていた。これらの部屋は、当初は社会から遮断された環境において行われる極限修行と称する修行に使用されていたが、この頃は戒律を破った信者に懲罰を加える目的や、教団から脱会を希望する信者に対し翻意を促す目的で、主に監禁用として使用されていた。 岡崎は1989年2月、「このまま、わしを殺すことになったらとしたら、大変なことになる。もう一度、おまえたちが見にいって、わしを殺すという意思が変わらなかったり、オウムから逃げようという考えが変わらないならばポアするしかないな」「ロープで一気に絞めろ。その後は護摩壇で燃やせ」という麻原の命令に従い、他の幹部らとともにコンテナ内でTを絞殺した。
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