ヴァジラヤーナの実行
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1988年(昭和63年)7月に麻原彰晃はインドでカール・リンポチェと会うことに成功、麻原はリンポチェと会ってからヴァジラヤーナを説くようになった。 1988年8月から9月にかけて富士山総本部において、タントラやヴァジラヤーナには完璧な帰依、絶対的なグルに対する帰依が求められると説いた。 1988年9月22日、奇声をあげるなど異常行動をとった信者を風呂場で水につけていて死亡した在家信者死亡事件が発生した。 1988年10月2日、富士山総本部で「いよいよオウムがヴァジラヤーナのプロセスに入ってきた。このヴァジラヤーナのプロセスは善も悪もない。ただ心を清め、そして真理を直視し、目の前にある修行に没頭し、後は神聖なるグルの エネルギーの移入によって成就する」「金剛乗の教えというものは、もともとグルというも のを絶対的な立場に置いて、そのグルに帰依する。そして、自己を空っぽにする努力を する。その空っぽになった器にグルの経験あるいはグルのエネルギーをなみなみと満ち あふれさせる。つまり、グルのクローン化をする。あるいは守護者のクローン化をする。こ れがヴァジラヤーナだ。」と説いた。 1989年(平成元年)2月10日、オウム真理教男性信者殺害事件発生。 1989年9月24日、世田谷道場で、ヴァジラヤーナの教えでは、成就者が悪業を積んだ者を殺して天界へ上昇させることは、高い世界へ生まれ変わらせるための善行、立派なポア、功徳となると説いた。 1989年9月には『サンデー毎日』が「オウム真理教の狂気」特集をスタートし、「オウム真理教被害者の会」を組織した弁護士の坂本堤がインタビューに答えていった。教団は猛反発し、1989年11月4日には坂本堤弁護士一家殺害事件で殺害を実行した。 1990年の選挙で惨敗すると、富士山総本部での選挙総括会合で麻原は「敗北は選挙管理委員会の陰謀であり、合法的な救済はできない。ヴァジラヤーナ(テロ活動)が唯一の救済の選択だ」と述べた。以降、ヴァジラヤーナは麻原の予言を成就するための活動として大量破壊兵器の開発と使用を意味していく。選挙直後は生物兵器の開発に取りかかった。 1990年8月頃には熊本県波野村での対立が激化すると、熊本県警の捜査も深まり、麻原は塩素ガスの製造を指示した。1990年10月、全国一斉の強制捜査の情報が入ってくると麻原は「もう少し早くヴァジラヤーナを始めていれば勝てていた。マハーヤーナでもいいかと思ったのが間違いだった」と語った。 警視庁はオウム真理教のヴァジラヤーナの教義は殺人を正当化するものと解釈、オウム後継教団は現在もこの教義を根幹に据えていると見ている。
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