ヴァジラヤーナ以前 − 地位確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:49 UTC 版)
「遠藤誠一」の記事における「ヴァジラヤーナ以前 − 地位確立」の解説
出家後は教団でのバイオテクノロジーの応用研究を一任され、教団を「科学」のベールで飾り立てる重臣の一人として扱われた。初期における主な仕事はCMIでのイニシエーション(儀式)の開発とAFIでの食料品開発で、教団の布施獲得による収益基盤の強化に大きく貢献した。出家後は約束通りサティアンビルの一角に専用の研究室を与えられ、後には自身の教団名を冠した研究棟「ジーヴァカ棟(ジーヴァカ邸・CMI棟)」までもを設けた。 出家直後は石井久子と村井秀夫を直属の上司としてCMI(コスミック・メディカル・インスティチュート)の実質的な責任者となる。CMIでは主に「シークレット・イニシエーション」や、先述の「愛のイニシエーション」などのバイオテクニック関係のイニシエーション開発を行った。 「愛のイニシエーション」については、出家後、麻原に与えられた自身の研究室にて出家前に培養した麻原のリンパ球からDNAを取り出し、それを大腸菌に入れることでDNAを増殖させた。こうして遠藤が増殖させたDNAを麻原自身が飲み、遠藤に対し「エネルギーが上がった。コーザル世界やアストラル世界の浄化がおきる」と告げるが、そのとき遠藤は「何故自分のDNAを飲んでエネルギーが上がるのだろう(自分自身のだから変化はないはず)」と疑問に思い、データを取りたい旨を麻原に申し出ると、麻原は自分が言うんだから間違いないとこれをはね退けて、遠藤はやむなく引き下がった。このときオウムの書籍で「京大医学部で調べたら尊師のDNAに秘密があることが分かった」と書かれ、それをオウム真理教被害者対策弁護団が京大医学部側に「照会書」として送るが、もちろん当時の京大医学部長はこれを否定した。遠藤自身も教団の出版部門の責任者に対し「自分が個人的に培養しただけなのにこれでは京大医学部が正式に研究したことになってしまう」と抗議したが、結局うまく言い包められてしまったという。 また教団内部の食料等を統括するAFI(アストラル・フード・インスティチュート)の責任者をも務め、ここでは健康食品・「アストラル丹」・「ソーマ」・「サットヴァレモン」などを製造・販売し、教団の食料関係の資金稼ぎに貢献した。教団の女性向け刊行誌である『えんじょい・はぴねす』では石井久子・中川智正とともにクッキングコーナー「健康を食べよう!」の調理実修を担当した(監修は麻原)。 他にも(獣医であるにも関わらず)麻原の主治医を務めたり、菊地直子がいた教団の陸上競技部 のコーチをも兼任した。村井秀夫・中川智正とともに理系信者獲得のため教団の科学者として入信希望者の面談を受け持つこともあった。 このように様々な職責を担い、仕事をこなすことで、遠藤は麻原の寵愛をものにしていく。その象徴として遠藤は麻原4女・松本聡香の許婚とされ、将来的に麻原の義理の息子となることを確約される栄誉にあずかった(すなわち政略結婚)。1989年、遠藤が麻原の妻・松本知子の出産に立ち会い4女を取り上げた。寝ている4女の様子を見に行った際、4女の体から青い光が出て、自身のアナハタチャクラ(胸のあたり)に入ってくる神秘体験をし、4女に対し「恋心のようなもの」を抱いたという。4女は遠藤について「とても子供っぽい人」と評しており、それを示すエピソードとして、遠藤が4女とトランプをする際は自身が勝つまでやり続けたことなどを挙げた。遠藤は逮捕された時「最後にもう一度、さとちゃんとババ抜きがしたかったよ」と語ったともされる。 1989年11月に「大師」の称号と、古代インドで名医・医王と尊称された、釈迦牟尼の医師の名に因むホーリーネーム(祝福名)「ジーヴァカ」を得る。 1990年、政界進出を目論んだ教団はオウムの宗教政党である真理党を結成し、第39回衆議院議員総選挙に立候補する。遠藤は渋谷周辺地区の選対リーダーを任され、自身も候補者の一人として旧千葉4区から出馬するが落選。これによって息子のオウム入信を知った母親は、周囲の人に対し「息子は勘当した」と話した。
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