ヴァスコニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 08:37 UTC 版)
6世紀、緩やかなフランク人の支配のもと、現在のスペイン、ナバラ州にあたる地域から西ゴート人の支配を避け、ヴァスコン人が移住してきた。彼らは現在のバスク人の祖先とされる人々である。ヴァスコン人は政治的空白に乗じて覇権を掌握し、これによってこの地域はヴァスコニアの名で知られるようになる。このヴァスコニアという地名がガスコーニュという地名の語源となった。ヴァスコニアの人々はバスク語の影響を強く受けた俗ラテン語で話したが、これはのちにこの地域の地方語であるガスコーニュ語の基礎となる。 602年、メロヴィング朝はガロンヌ川周辺に辺境伯をおいた。この地でフランク人、西ゴート人、バスク人の三者が対峙し、7世紀中頃まで戦いが散発的に繰り返されることになる。660年、フランク王国の中央からの影響が弱まったのを機に、ヴァスコニア辺境伯フェリックス・ダキテーヌは、事実上独立した権限を手にし、隣接するアキテーヌ辺境伯を兼任する。7世紀後半からフランク王国では宮宰が強い権力をもつようになるが、以降もヴァスコニアは中央とは距離をおき、独立した地位を維持しようと試みる。 アキテーヌ公を兼任していたウードは、ヴァスコニアの独立性を確固たるものとすべく、フランク王国の分国の一つ、ネウストリアの国王キルペリク2世やその宮宰のラガンフリドらと同盟し、フランク王国のもう一つの分国であるアウストラシア宮宰のカール・マルテルと敵対する。ところが、8世紀初頭、イスラム勢力がイベリア半島からヴァスコニアに進出、719年にはパンプローナがムーア人の支配下におかれ、721年にウード自身がトゥールーズでウマイヤ朝軍と戦闘することとなった。このトゥールーズの戦いでウードは勝利をおさめるが、732年のガロンヌ川の戦いでは逆に敗れてボルドーを奪われる。これに対し、同年、カール・マルテルはトゥール・ポワティエ間の戦いに勝利し、イスラム勢力のピレネー以北への進出を食い止めることに成功した。 このカール・マルテルの勝利にもかかわらず、ヴァスコニア辺境伯とフランク王国との戦いはその後も2世代にわたって続いた。741年、ウードの子、ウノー(ウナール、Hunaud)はフランク王国の支配に抵抗してシャルトルを襲撃した。これにはカール・マルテルの子小ピピンとその息子カールマンが反撃し、結果、ウナルドは自ら和平を申し出て、フランク王国の勝利に終わる。さらにその子ワイフル(ワイファリ、Waïfre)も3度にわたって小ピピンに挑むがいずれも敗れ、親ピピン派の部下に殺された。 ヴァスコニアとカロリング朝フランク王国との衝突の例が778年、ロンスヴォーの戦い(Battle of Roncevaux Pass)である。イベリア半島遠征のため、シャルルマーニュは自ら軍を率いてヴァスコニアへやって来た。大帝は拠点としたパンプローナを去る際、この都市が反乱分子の手に落ちることのないよう破壊を命じたが、これが原因となって8月15日夜、フランク王国の兵がピレネー山中のロンスヴォー峠(Roncevaux Pass)の近くでゲリラ攻撃を受け、壊滅的な被害を受けた。この戦いで死んだフランク人の中にはシャルルマーニュの腹心の部下たちも多く含まれたとされ、このエピソードは後にローランの歌として語りつがれることになる。 9世紀になるとピレネー山脈の北部はフランク王国との関係を強め、これに対して南部は小国に分裂する。この時期、ピレネー以南ではアストゥリアス王国が台頭し、トゥデラ周辺ではバスク・ムスリムの国家、バヌ・カシ(Banu Qasi)、パンプローナにはパンプローナ王国が成立する。 戦乱が多かったガスコーニュ地方からは多くの若者たちが剣で身を立てようとパリを目指した。ガスコーニュはデュマの小説『三銃士』のダルタニャンのモデルとなった人物の出身地でもある。パリ出身の作家で剣豪としても知られたシラノ・ド・ベルジュラックが一時身をおいたガスコン青年隊も、その名のとおり、ガスコーニュ出身者が隊員の大半を占め、彼らは勇猛果敢なことでよく知られたという。
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