ガロンヌの戦い、トゥールの戦い、そして死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 04:24 UTC 版)
「ウード (アキテーヌ公)」の記事における「ガロンヌの戦い、トゥールの戦い、そして死」の解説
731年、カール・マルテルはザクセン人に勝利した後、アキテーヌに目を向けるようになり、ウードがウスマン・イブン・ナイッサと同盟を結んだことを糾弾し、ロワール川を越えて、ウードとの和平を破棄した。カール・マルテルは二度にわたりアキテーヌに侵攻、ブールジュを占領した。ウードはフランク軍と交戦したが敗北し、カール・マルテルはフランクへと戻った。 同時に、ウマイヤ朝がサルダーニャ(あるいはカタロニア)にいるウードの同盟者ウスマン・イブン・ナイッサを攻撃するため軍を集めていた。731年、ウスマンはアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー率いる遠征軍の攻撃を受け、敗北し殺された。ウードの娘は捕縛され、捕虜としてダマスカスのハーレムに送られた:89。ウードはカールの攻撃をかわすのに忙殺され、ウスマンを助けることが出来なかった。 732年、アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーの軍はヴァスコニアを攻撃し、ボルドーへと軍を進め、この町を荒らしまわった。ウードはウマイヤ軍と交戦したが、ボルドー近郊で敗北を喫した。敗北の後、ウードは四散した軍を再編し、急ぎ北へと向かった。ネウストリアおよびアウストラシア宮宰カール・マルテルに差し迫った脅威について警告し、対アラブ=ベルベル軍の戦いに援軍を送ってくれるよう要請するためであった。この支援の見返りに、ウードは正式にフランクの支配下に入ることを受け入れた。ウードは80歳くらいであったが、カール・マルテルの軍に加わり、フランク軍の左翼を形成した。ウマイヤ軍と、カールが率いる連合軍の双方は、いわゆるトゥール・ポワティエ間の戦い(732年もしくは733年):90–91の準備のため、ヴィエンヌとポワティエの北のクラン川の間に陣を張った。 この戦いで、ウードは軍を率いてウマイヤ軍の本陣に侵入し、火をつけて敵の後方軍を大混乱に陥らせ、ウマイヤ軍を破るのに重要な役割を果たした。732年、トゥール・ポワティエ間の戦いにおいて、フランク連合軍はウマイヤ軍に勝利し、ウマイヤ軍をアキテーヌから追い出した。 戦いの後、カールはフランク王国へ戻り、ウードは引き続きアキテーヌおよびヴァスコニアの支配者の地位にとどまった。735年、ウードは退位したか死去し、息子ウナールが跡を継いだ。あるいはウードは隠棲した修道院で740年以前に死去した可能性もある。ウードのアキテーヌにおける人気は『パルドゥルフス伝(Vita Pardulfi)』で言及されている。
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