教団の科学者として
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1993年10月からは教団の武装化路線の本格化と土谷正実によるサリン合成の成功に伴い、土谷とともに化学兵器製造や薬物の人体実験に従事。池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件やVX事件をはじめとした多くの事件に関わる。中川は土谷や遠藤誠一と共にサリンやVXといった兵器の製造管理を任されていた(土谷正実#兵器と違法薬物の製造も参照)。土谷と遠藤は対抗意識から仲が悪くなっており、中川が緩衝材の役割を果たしていた。中川は遠藤を無能と評しており、アンソニー・トゥとの面会の際も、中川は基本的に人名に「さん」や「君」をつけて呼ぶのに対し、遠藤誠一だけ呼び捨てだった。 1995年1月1日、 読売新聞朝刊が「上九一色村の教団施設付近からサリン残留物検出」とスクープしたのを受け、土谷正実とともに土谷の実験棟「クシティガルバ棟」で保管していたたサリン、VXガス、ソマンやこれらの前駆体を加水分解して廃棄した。廃棄作業および廃棄設備解体後、廃棄しそびれたサリンの中間生成物「メチルホスホン酸ジフロライド(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)」が発見され、これがのちの地下鉄サリン事件で使用されたサリンの原料となる。ジフロを隠しもっていたのが中川か井上かは裁判でも結論が出ていない。地下鉄サリン事件では土谷正実の製造アドバイスのもと、遠藤誠一とともに遠藤の実験棟「ジーヴァカ棟」でジフロからサリンを生成の上、袋詰めにし、サリン中毒の予防薬「メスチノン錠剤」も準備し、遠藤を介して村井秀夫に引き渡した。
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