特別攻撃隊を編成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 04:24 UTC 版)
「第10飛行師団 (日本軍)」の記事における「特別攻撃隊を編成」の解説
1944年(昭和19年)7月末、第10飛行師団の指揮下にあった飛行第70戦隊は第2航空軍の戦力支援のため満州国に派遣された。同じく指揮下にあった飛行第1戦隊は10月に、隷下にあった飛行第18戦隊は11月初頭にそれぞれ捷号作戦参加のためフィリピンに派遣され本土から去った。かわりに10月末に飛行第23戦隊(一式戦闘機使用)が千葉県印旛郡の印旛飛行場で編成され、第10飛行師団隷下に編入された。 米軍はすでにマリアナ諸島を攻略し、建設した飛行場からB-29爆撃機が関東地区への侵入を11月1日より開始した。第10飛行師団隷下あるいは指揮下の飛行戦隊はそれぞれ邀撃を試みたが、日本陸軍の航空機は高々度での性能が劣り目ぼしい戦果は得られなかった。使用している戦闘機では装備を可能なかぎり取り外し軽量化しないと高々度への上昇は難しく、防弾鋼板や機関砲まで取り去り敵機に体当たりをする以外の方法はないとの結論に達し、飛行師団を指揮する吉田少将は11月7日、各飛行戦隊に対しそれぞれ4機の特別攻撃隊編成を命じた。後日この防空特攻隊は防衛総司令官の東久邇宮稔彦王陸軍大将より震天制空隊と命名された。 その一方で満州に派遣されていた飛行第70戦隊は11月6日、千葉県東葛飾郡の柏飛行場に帰還し再び第10飛行師団の指揮下で本土防空の任務についた。また11月13日、大陸命第1182号によって飛行第28戦隊(一〇〇式司令部偵察機使用)が満州から調布飛行場に移動し第10飛行師団の指揮下に入った。同戦隊では司令部偵察機に20ミリ機関砲2門を装備し「武装司偵」とする変更を行い、さらに千葉県山武郡の東金飛行場に移動し翌12月には戦闘機操縦者の新戦隊長をむかえて高々度戦闘を主な任務とする部隊となった。地上部隊では第46航空地区司令部が軍令陸甲第136号により臨時編成され、第187飛行場大隊とともに10月下旬に、第188飛行場大隊は11月中旬に、それぞれ第10飛行師団に編入された。 12月31日夜に吉田少将が書いた日誌の「昭和十九年歳末所見」では、第10飛行師団は11月から2か月間の防空戦闘において出撃回数40回、撃墜確実28機、うち16機は特攻機の体当たりによるもので特攻戦死者10名、撃墜不確実24機、撃破60機、来襲した敵機の9パーセントを撃墜としている。一方、米軍資料では太平洋戦争の期間を通じマリアナ諸島から日本本土に出撃したB-29全体の損失率は昼間攻撃で1.5パーセント、夜間では0.95パーセントを失ったのみである。米側の資料は空襲が大規模となった1945年(昭和19年)をふくむ終戦までのものであり、なおかつ第10飛行師団だけを相手とした損失ではないが、日本側が算定した数字とは相当な差がある。また前述の吉田少将日誌によれば、第10飛行師団は2か月で戦力の10パーセントを失っている。
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