昭和十九年とは? わかりやすく解説

昭和十九年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:51 UTC 版)

磯風 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「昭和十九年」の解説

1944年昭和19年1月12日南方進出ブラウンへの輸送従事した後、26日トラック移動その後磯風敷島部隊遊撃部隊トラック泊地パラオリンガ泊地回航護衛した3月中旬パラオへの船団護衛についた29日磯風浦風パラオ大空襲から退避する戦艦武蔵連合艦隊旗艦)の護衛を行うが、米潜水艦タニー (USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282)から武蔵への雷撃許し魚雷1本が命中した武蔵小破した。武蔵本土回航され、磯風第一遊撃部隊護衛部隊に加わる。31日、第17駆逐隊雪風編入され、同隊は不知火型5隻(磯風浦風谷風浜風雪風となった磯風は第17駆逐隊司令艦に指定されていた。同日二式飛行艇退避しようとした古賀峯一連合艦隊司令長官等が殉職した(海軍乙事件)。 5月19日タウイタウイ進出6月9日駆逐艦磯風島風早霜谷風は同泊地において対潜掃討任務従事する午後10時、米潜水艦ハーダー(USS Harder, SS-257)の雷撃により僚艦谷風目前撃沈された。14日谷風負傷者乗せバコロド入港する6月19-20日のマリアナ沖海戦には小沢機動部隊甲部隊属し空母大鳳の直衛で参加した19日、米潜水艦アルバコア(USS Albacore, SS-218)の攻撃による大鳳被雷爆発沈没一部始終目撃し乗員救助している。大鳳戦死者水葬用い軍艦旗が足らなくなり毛布代用したという。同日空母翔鶴も米潜水艦カヴァラ(USS Cavalla, SS-244)の雷撃沈没し第一航空戦隊残存空母瑞鶴だけになった。翌20日瑞鶴の直衛として輪形陣右側配置され第五戦隊第十戦隊各艦と共にアメリカ軍機と交戦する戦闘後磯風燃料不足のため艦隊から分離し単艦で沖縄中城湾向かった6月24日内地到着する7月8日陸軍部隊軍需品輸送のため、遊撃部隊乙部隊として長門金剛最上矢矧浜風若月霜月と呉を出発沖縄10-12日)やマニラ(14-17日)に立ち寄りつつ、20日リンガ泊地到着した8月3日座礁した駆逐艦敷波救難作業矢矧と共に行った対潜哨戒従事した後、シンガポール回航される。10日をもって谷風が第17駆逐隊駆逐艦籍から除籍された。同日磯風は「シミ」〇八船団浜風護衛しシンガポール発ち14日ミリ着、16-20日「ミシ」〇六船団護衛20日シンガポール到着するレーダー改装工事を受ける。9月12日矢矧浦風浜風若月と共に呉に帰還19日に呉到着後は若月分離内地にて修理受けていた雪風合同した。第17駆逐隊22日より扶桑型戦艦扶桑山城の南方進出護衛する10月8日、第17駆逐隊司令艦は磯風から浦風変更された。10月22日捷一号作戦では栗田艦隊第一遊撃部隊司令長官栗田健男中将第二部隊司令官鈴木義尾中将旗艦金剛)に所属してレイテ沖海戦参加した10月23日、米潜水艦ダーターUSS Darter, SS-227)とデイス (USS Dace, SS-247)の雷撃により栗田艦隊旗艦愛宕重巡洋艦摩耶沈没高雄大破して戦線離脱した10月24日栗田艦隊シブヤン海空襲受けた磯風戦艦金剛中心とする第二部隊輪形陣の左後方配置され右前方に利根榛名位置していた。この日の戦闘で、集中攻撃受けた戦艦武蔵艦隊から落伍した夕刻白石東平大尉磯風水雷長)が沈みかけた武蔵写真撮っている。また第17駆逐隊では浜風被弾して速力低下起こし同じく被弾していた駆逐艦清霜と共に武蔵護衛命じられた。第17駆逐隊浜風残して進撃続けた。なお最終的に武蔵沈没目撃し、同艦乗組員救助行ったのはこの二艦である。 翌日10月25日サマール沖海戦では、第十戦隊旗艦矢矧に従って護衛空母群に肉薄、第17駆逐隊浦風雪風磯風)と野分は各艦酸素魚雷4本を発射したが、磯風のみ8本を発射する。だが魚雷遠距離発射だったため命中せず第十戦隊巡洋艦戦隊砲撃による水柱黒煙命中誤認して正規空母撃沈報じたものの、実際戦果はなかった。アメリカ軍によれば護衛空母カリニン・ベイセント・ローに迫る数本魚雷があったものの、対空砲艦載機機銃掃射により命中前に爆破された。戦闘後艦隊コロンにて燃料不足した駆逐艦分離したため、栗田艦隊護衛にあたる駆逐艦磯風雪風の2隻だけとなった。それでも27日燃料切れをきたし、磯風榛名から、雪風長門から、それぞれ燃料曳航補給を受ける。10月28日ブルネイ帰着した一連の戦闘磯風乗組員1名が戦死、6名が重軽傷負った。艦に対す被害は殆どなかった。 11月5日磯風ブルネイ湾外で第二氷川丸水路嚮導を行う。7日浜風ブルネイ出発新南群島(南沙諸島)東方重巡洋艦足柄会合しブルネイ戻った。なお11月15日をもって第十戦隊解隊磯風含めた各艦はそのまま第二水雷戦隊司令官木村昌福少将)へ編入された。16日矢矧17駆逐隊日本本土へ戻る戦艦大和長門金剛護衛して呉に向かうが21日台湾沖にて米潜水艦シーライオン (USS Sealion, SS/SSP/ASSP/APSS/LPSS-315)の雷撃により、戦艦金剛と第17駆逐隊司令浦風撃沈された。雪風大和長門護衛して先行磯風浜風金剛乗組員救助従事したが、浦風は全乗組員戦死した。これにより駆逐隊司令艦は浜風変更された。23日、呉入港矢矧空母隼鷹合同し佐世保向かい、第17駆逐隊には戦艦長門横須賀回航護衛任務与えられた。24日長門浜風雪風出港し、翌25日横須賀港入港した28日、第17駆逐隊大和型戦艦3番艦を改造した空母信濃護衛して横須賀出港し呉へ向かった詳細は「信濃 (空母)」を参照 11月29日、米潜水艦アーチャーフィッシュ (USS Archer-fish, SS/AGSS-311) の雷撃信濃沈没磯風浜風雪風信濃生存者救助当たった詳細は「ヒ87船団」を参照 12月16日新谷喜一大佐が第17駆逐隊司令として着任司令艦は雪風変更された。19日連合艦隊電令576号により第17駆逐隊雪風浜風磯風)は空母龍鳳指揮下に入り台湾方面への輸送作戦命じられる。この輸送船団は『ヒ87船団』と命名されていた。29日播磨灘爆雷投下訓練行い正月用の調達するが、浮かび上がった転覆した信濃思い出乗組員もいたという。また空母雲龍沈没後、佐世保修理従事していた第21駆逐隊時雨ヒ87船団護衛に加わる。30日雪風機関故障により船団護衛従事できず呉に引き返し司令艦は浜風変更された。31日午前5時30分ヒ87船団門司六連泊地出港した。 年が明けて1945年昭和20年1月7日台湾近海タンカー宗像丸が米潜水艦ピクーダ (USS Picuda, SS-382)の雷撃により損傷空母龍鳳浜風磯風時雨護衛され基隆寄港し、それを見届けて3隻はヒ87船団護衛任務戻った1月8日浜風輸送船海邦丸衝突して浸水、さらに翌日には座礁してしまう。護衛任務続行不能により、1月8日をもって磯風は第17駆逐隊司令となった1月9日台湾高雄市到着一方浜風修理のため馬公市とどまった12日龍鳳磯風御蔵タモ35船団護衛として基隆出港17日龍鳳分離すると、18日に呉へ帰還した。なお、高雄市磯風分離したのち引き続きヒ87A船団護衛していた時雨24日マレー半島東岸で米潜水艦ブラックフィン(SS-322)の雷撃撃沈された。 以後磯風船体補修整備従事した2月15日徳山沖で特攻兵器回天震洋訓練携わり3月5日土佐沖で第一機動基地航空隊対空訓練行った19日呉軍港空襲では軽巡洋艦大淀の隣に繋留され、ほとんど動けなかったが被害はなかった。26日天一号作戦発動GF電令作第582号)。28日、呉を出港し広島湾兜島南方第二水雷戦隊各艦と集結する。燃料弾薬待機する駆逐艦から補給し93魚雷16本を積載した磯風煙突には白ペンキ菊水マーク描かれた。「磯風」には新谷大佐以下第17駆逐隊司令部乗艦していた。

※この「昭和十九年」の解説は、「磯風 (陽炎型駆逐艦)」の解説の一部です。
「昭和十九年」を含む「磯風 (陽炎型駆逐艦)」の記事については、「磯風 (陽炎型駆逐艦)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「昭和十九年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「昭和十九年」の関連用語

昭和十九年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



昭和十九年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの磯風 (陽炎型駆逐艦) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS