昭和十九年
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「磯風 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「昭和十九年」の解説
1944年(昭和19年)1月12日、南方に進出。ブラウンへの輸送に従事した後、26日トラック移動。その後、磯風は敷島部隊と遊撃部隊のトラック泊地~パラオ~リンガ泊地回航を護衛した。3月中旬、パラオへの船団護衛についた。29日、磯風、浦風はパラオ大空襲から退避する戦艦武蔵(連合艦隊旗艦)の護衛を行うが、米潜水艦タニー (USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282)から武蔵への雷撃を許し、魚雷1本が命中した武蔵は小破した。武蔵は本土に回航され、磯風は第一遊撃部隊の護衛部隊に加わる。31日、第17駆逐隊に雪風が編入され、同隊は不知火型5隻(磯風、浦風、谷風、浜風、雪風)となった。磯風は第17駆逐隊司令艦に指定されていた。同日、二式飛行艇で退避しようとした古賀峯一連合艦隊司令長官等が殉職した(海軍乙事件)。 5月19日にタウイタウイに進出。6月9日、駆逐艦磯風、島風、早霜、谷風は同泊地において対潜掃討任務に従事する。午後10時、米潜水艦ハーダー(USS Harder, SS-257)の雷撃により僚艦の谷風が目前で撃沈された。14日、谷風負傷者を乗せバコロドに入港する。6月19-20日のマリアナ沖海戦には小沢機動部隊・甲部隊に属し、空母大鳳の直衛で参加した。19日、米潜水艦アルバコア(USS Albacore, SS-218)の攻撃による大鳳の被雷と爆発、沈没の一部始終を目撃し乗員を救助している。大鳳戦死者の水葬に用いる軍艦旗が足らなくなり、毛布で代用したという。同日、空母翔鶴も米潜水艦カヴァラ(USS Cavalla, SS-244)の雷撃で沈没し、第一航空戦隊の残存空母は瑞鶴だけになった。翌20日、瑞鶴の直衛として輪形陣右側に配置され、第五戦隊や第十戦隊各艦と共にアメリカ軍機と交戦する。戦闘後、磯風は燃料不足のため艦隊から分離し単艦で沖縄中城湾へ向かった。6月24日、内地に到着する。 7月8日、陸軍部隊と軍需品輸送のため、遊撃部隊乙部隊として長門、金剛、最上、矢矧、浜風、若月、霜月と呉を出発、沖縄(10-12日)やマニラ(14-17日)に立ち寄りつつ、20日にリンガ泊地へ到着した。8月3日、座礁した駆逐艦敷波の救難作業を矢矧と共に行った。対潜哨戒に従事した後、シンガポールに回航される。10日附をもって谷風が第17駆逐隊と駆逐艦籍から除籍された。同日、磯風は「シミ」〇八船団を浜風と護衛しシンガポールを発ち、14日ミリ着、16-20日「ミシ」〇六船団を護衛、20日シンガポールに到着するとレーダー改装工事を受ける。9月12日、矢矧、浦風、浜風、若月と共に呉に帰還、19日に呉到着後は若月と分離、内地にて修理を受けていた雪風と合同した。第17駆逐隊は22日より扶桑型戦艦扶桑、山城の南方進出を護衛する。 10月8日、第17駆逐隊司令艦は磯風から浦風に変更された。10月22日の捷一号作戦では栗田艦隊第一遊撃部隊(司令長官栗田健男中将)第二部隊(司令官鈴木義尾中将、旗艦金剛)に所属してレイテ沖海戦に参加した。10月23日、米潜水艦ダーター(USS Darter, SS-227)とデイス (USS Dace, SS-247)の雷撃により栗田艦隊旗艦愛宕、重巡洋艦摩耶が沈没、高雄が大破して戦線を離脱した。 10月24日、栗田艦隊はシブヤン海で空襲を受けた。磯風は戦艦金剛を中心とする第二部隊輪形陣の左後方に配置され、右前方に利根、榛名が位置していた。この日の戦闘で、集中攻撃を受けた戦艦武蔵は艦隊から落伍した。夕刻、白石東平大尉(磯風水雷長)が沈みかけた武蔵の写真を撮っている。また第17駆逐隊では浜風が被弾して速力低下を起こし、同じく被弾していた駆逐艦清霜と共に武蔵の護衛を命じられた。第17駆逐隊は浜風を残して進撃を続けた。なお最終的に武蔵の沈没を目撃し、同艦乗組員の救助を行ったのはこの二艦である。 翌日10月25日のサマール沖海戦では、第十戦隊旗艦矢矧に従って米護衛空母群に肉薄、第17駆逐隊(浦風、雪風、磯風)と野分は各艦酸素魚雷4本を発射したが、磯風のみ8本を発射する。だが魚雷は遠距離発射だったため命中せず、第十戦隊は巡洋艦戦隊の砲撃による水柱や黒煙を命中と誤認して正規空母撃沈を報じたものの、実際の戦果はなかった。アメリカ軍によれば、護衛空母カリニン・ベイやセント・ローに迫る数本の魚雷があったものの、対空砲や艦載機の機銃掃射により命中前に爆破された。戦闘後、艦隊はコロンにて燃料の不足した駆逐艦を分離したため、栗田艦隊の護衛にあたる駆逐艦は磯風と雪風の2隻だけとなった。それでも27日に燃料切れをきたし、磯風は榛名から、雪風は長門から、それぞれ燃料の曳航補給を受ける。10月28日、ブルネイに帰着した。一連の戦闘で磯風乗組員1名が戦死、6名が重軽傷を負った。艦に対する被害は殆どなかった。 11月5日、磯風はブルネイ湾外で第二氷川丸の水路嚮導を行う。7日、浜風とブルネイを出発、新南群島(南沙諸島)東方で重巡洋艦足柄と会合し、ブルネイに戻った。なお11月15日附をもって第十戦隊は解隊、磯風を含めた各艦はそのまま第二水雷戦隊(司令官木村昌福少将)へ編入された。16日、矢矧と17駆逐隊は日本本土へ戻る戦艦大和、長門、金剛を護衛して呉に向かうが21日、台湾沖にて米潜水艦シーライオン (USS Sealion, SS/SSP/ASSP/APSS/LPSS-315)の雷撃により、戦艦金剛と第17駆逐隊司令艦浦風が撃沈された。雪風は大和、長門を護衛して先行、磯風と浜風は金剛乗組員の救助に従事したが、浦風は全乗組員が戦死した。これにより駆逐隊司令艦は浜風に変更された。23日、呉入港。矢矧は空母隼鷹と合同して佐世保に向かい、第17駆逐隊には戦艦長門の横須賀回航護衛任務が与えられた。24日、長門、浜風、雪風と出港し、翌25日、横須賀港へ入港した。28日、第17駆逐隊は大和型戦艦3番艦を改造した空母信濃を護衛して横須賀を出港し呉へ向かった。 詳細は「信濃 (空母)」を参照 11月29日、米潜水艦アーチャーフィッシュ (USS Archer-fish, SS/AGSS-311) の雷撃で信濃が沈没、磯風、浜風、雪風は信濃の生存者の救助に当たった。 詳細は「ヒ87船団」を参照 12月16日、新谷喜一大佐が第17駆逐隊新司令として着任、司令艦は雪風に変更された。19日、連合艦隊電令576号により第17駆逐隊(雪風、浜風、磯風)は空母龍鳳指揮下に入り、台湾方面への輸送作戦が命じられる。この輸送船団は『ヒ87船団』と命名されていた。29日、播磨灘で爆雷投下訓練を行い正月用の鯛を調達するが、浮かび上がった鯛に転覆した信濃を思い出す乗組員もいたという。また空母雲龍の沈没後、佐世保で修理に従事していた第21駆逐隊時雨もヒ87船団護衛に加わる。30日、雪風は機関故障により船団護衛に従事できず呉に引き返し、司令艦は浜風に変更された。31日午前5時30分、ヒ87船団は門司の六連泊地を出港した。 年が明けて1945年(昭和20年)1月7日、台湾近海でタンカー宗像丸が米潜水艦ピクーダ (USS Picuda, SS-382)の雷撃により損傷、空母龍鳳は浜風、磯風、時雨に護衛されて基隆に寄港し、それを見届けて3隻はヒ87船団護衛任務に戻った。1月8日、浜風は輸送船海邦丸と衝突して浸水、さらに翌日には座礁してしまう。護衛任務続行不能により、1月8日をもって磯風は第17駆逐隊司令艦となった。1月9日、台湾の高雄市に到着。一方、浜風は修理のため馬公市にとどまった。12日、龍鳳、磯風、御蔵はタモ35船団の護衛として基隆を出港。17日、龍鳳と分離すると、18日に呉へ帰還した。なお、高雄市で磯風と分離したのち引き続きヒ87A船団を護衛していた時雨も24日、マレー半島東岸で米潜水艦ブラックフィン(SS-322)の雷撃で撃沈された。 以後、磯風は船体の補修や整備に従事した。2月15日、徳山沖で特攻兵器回天と震洋の訓練に携わり、3月5日、土佐沖で第一機動基地航空隊と対空訓練を行った。19日の呉軍港空襲では軽巡洋艦大淀の隣に繋留され、ほとんど動けなかったが被害はなかった。26日、天一号作戦発動(GF電令作第582号)。28日、呉を出港し広島湾兜島南方に第二水雷戦隊各艦と集結する。燃料弾薬は待機する駆逐艦から補給し、93式魚雷16本を積載した。磯風の煙突には白ペンキで菊水マークが描かれた。「磯風」には新谷大佐以下第17駆逐隊司令部が乗艦していた。
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