海に出て木枯帰るところなし
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出 典 |
遠星 |
前 書 |
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評 言 |
戦後七十年の節目を迎えた昨年ほど、第二次世界大戦のことを新聞、テレビなどで取り上げた年はなかった。 掲句は、第二次世界大戦末期の昭和十九年、誓子が五十歳頃に作られた句である。 当時、胸部の疾患で伊勢湾に疎開と療養をかねて居住していた。 昭和十九年は、太平洋戦争の敗戦色が濃厚になり、人々は「欲しがりません、勝つまでは」と、我慢に我慢を重ねていた。日本軍も遂に特攻隊や、人間魚雷といった、人間の命を犠牲にする手段を取り始めた。優秀な若者たちが片道燃料しかない戦闘機に乗り込んで、米艦隊に突っ込み、若い命を散らした。 誓子は、「この句を作った時、私は特攻隊の片道飛行を念頭に置いていた」と書いている。太平洋戦争のさなかに発表された句ということもあり、直接的な表現を避けたのだろう。 一見、伊勢湾の情景を客観的に詠んだ句のようにみえる。吹きすさんだ木枯が、野山を通り吹き荒らしつつ太平洋に出たが、もはや帰るところがない。決して日本に戻ってくることのない木枯。 誓子は木枯を特攻隊にたとえて、二度と家族や、日本の土地を踏めない様を、「帰るところなし」と切なく詠んだのだろう。 今も世界のあちこちで、いつ終わるともない戦争が続いている。昨年十一月にパリで起きた同時多発テロは、世界を震撼させた。戦後七十年、いつまでも戦争のない平和な国であって欲しいと願わずにはいられない。 |
評 者 |
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備 考 |
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