サマール沖海戦
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「カリニン・ベイ (護衛空母)」の記事における「サマール沖海戦」の解説
10月25日朝、第77.4.3任務群の航空機は対潜哨戒のため一斉に飛び去った。その時、任務群旗艦ファンショー・ベイ (USS Fanshaw Bay, CVE-70) の見張りが北西の方角に対空砲火を発見。これと同時に、ファンショー・ベイのレーダーも北西方向に複数の目標を探知していた。レイテ湾の輸送船団を目指していた栗田健男中将率いる強力な日本艦隊が、サンベルナルジノ海峡を抜けて第77.4.3任務群の目の前に出現しつつあったのである。ファンショー・ベイのスプレイグ少将は、ただちに栗田艦隊とは逆の方向に全速力で逃げるよう命令を出し、同時に第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)に救援を求める緊急電報を発信して、任務群の全艦艇は煙幕を張りながらスコールに向かっていった。栗田艦隊はよいレーダーを持たぬとはいえ、次第に護衛空母や駆逐艦、護衛駆逐艦に命中弾および至近弾を与えつつあった。 カリニン・ベイは栗田艦隊の3隻の巡洋艦に撃たれつつも、果敢に航空機を発進させて栗田艦隊と対決させた。パイロットにはあらかじめ、「日本艦隊を攻撃したら、味方が奪取したタクロバンの飛行場に向かえ」と指示してあった。砲撃はますます盛んとなり、これに対してカリニン・ベイの航空機も爆弾、ロケット弾および機銃掃射などあらゆる手立てを尽くして栗田艦隊に噛みつき続けた。しかし、スコールと煙幕、駆逐艦と護衛駆逐艦による決死的反撃で砲撃から逃れていたカリニン・ベイも、7時50分から続けさまに命中弾を受けた。その中には14インチ砲か16インチ砲のものと思われる大口径弾によるものがあり、これはエレベーター後方の格納庫区域に命中した。8時ごろには、カリニン・ベイの後方から接近してきた巡洋艦に対し、たった1基の5インチ砲で反撃を行ったが、これは敵の砲撃を煽るだけだった。やがて3発の8インチ砲弾がカリニン・ベイの薄い装甲を破って命中した。これに対してカリニン・ベイの5インチ砲も16,000ヤードの距離で射撃を行い、妙高型重巡洋艦と思しき巡洋艦の二番砲塔に命中弾を得たと判断された。撃たれた巡洋艦は一時的に戦列から下がって行った。 8時30分頃には、カリニン・ベイの右舷後方から接近してきた第十戦隊(木村進少将)の5隻の駆逐艦と砲戦を交えた。駆逐艦からの射撃はカリニン・ベイの手前に落ちるか頭上を飛び越えて命中しなかったが、間もなく巡洋艦からの8インチ砲弾が10発ほど命中し、そのうちの一発は操舵室を経て機械室で爆発し、レーダーと無電装置を破壊して使用不能とさせた。スプレイグ少将は、栗田艦隊と最初に接触した時点で「あと5分も敵の大口径砲の射撃を受け続ければ、わが艦隊は全滅していただろう」と言ったが、任務群はスコールの助けと駆逐艦、護衛駆逐艦の必死の反撃により、接触から2時間近く経っても辛うじて健在だった。9時11分、スプレイグ少将の理解しがたい事が起こった。栗田艦隊は、別の機動部隊を求めに行くとの名目で戦場を去っていき、二度と第77.4.3任務群の目の前には姿を見せなかった。スプレイグ少将は後に、「戦闘で疲れ切った私の頭脳は、この事実をすぐには理解できなかった」と回想している。9時20分頃、栗田艦隊の駆逐艦から最後の攻撃が行われた。駆逐艦は酸素魚雷をカリニン・ベイらの方に向けて発射。この時、上空を飛んでいたセント・ロー (USS St. Lo, CVE-63) のTBF アヴェンジャーが雷跡を発見して機銃掃射を行った。これと同時に、カリニン・ベイもコースを巧みに変えたり水面に向けて機銃掃射を行って魚雷を爆発させたり回避したりして、雷撃の魔の手から逃れる事ができた。やがて戦闘配置は解かれ、ガンビア・ベイを失った第77.4.3任務群の空母は再び輪形陣を構成したが、旗艦のファンショー・ベイは損傷により輪形陣からは遅れがちだった。
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サマール沖海戦
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「ガンビア・ベイ (護衛空母)」の記事における「サマール沖海戦」の解説
1944年10月25日、第77任務部隊第4群第3集団の一艦としてサマール島沖に展開していたガンビア・ベイは6時59分、大和はじめ戦艦4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻からなる日本海軍第二艦隊(栗田艦隊)と遭遇、艦隊最後尾に位置したガンビア・ベイは日本艦隊からの集中砲火にさらされた。 8時10分、砲弾1発が飛行甲板右舷最後尾に命中、火災が発生した。この時使用された日本軍の砲弾は戦艦などの重装甲を貫通することを目的としていたため、ガンビア・ベイの薄い装甲板に信管が作動せず貫通してしまい、艦上部にはさしてダメージを与えることはできなかった。しかし、喫水線下に命中した砲弾は浸水などの多大なダメージを与えた。 日本艦隊の戦艦金剛、重巡利根、筑摩、羽黒からの砲撃を受け、ガンビア・ベイは多数の命中弾を受けた。浸水のため前部機関室が放棄され、速力は11ノットまで落ちた。8時40分には艦橋と後部機関室に砲弾が命中、艦は完全に停止した。8時50分、ガンビア・ベイのヒューグ艦長は総員退艦を命じ、9時11分、ガンビア・ベイは沈没した。最終的にガンビア・ベイの乗組員・VC-10要員あわせて133名が戦死した。 ガンビア・ベイは第二次世界大戦の戦功で4つの従軍星章を受章した。また、サマール沖海戦での英雄的行動で僚艦と共に殊勲部隊章を受章した。今日、ガンビア・ベイの戦いはアメリカ海軍の士官候補生が必ず学ぶ内容となっている。アメリカ海軍とポーランド海軍の協定が成立した1944年前半に、ガンビア・ベイはポーランド海軍の水兵を訓練のため受け入れた一隻であった。このガンビア・ベイの戦没でポーランド海軍士官35名が戦死している。 なお、ガンビア・ベイの沈没の際に傍を通った栗田艦隊のうちの一隻が、沈みゆくガンビア・ベイを撮影している。原画はおそらく終戦直後に破棄されたものと思われるが、写真そのものは1944年12月8日に朝日新聞を始めとする各新聞に掲載されたようで、それらの新聞縮刷版でのみ、その写真を今でも見ることができる。
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サマール沖海戦
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「サミュエル・B・ロバーツ (護衛駆逐艦)」の記事における「サマール沖海戦」の解説
1944年10月25日の夜明け直後、サミュエル・B・ロバーツはこの日もサマール島沖で第77.4.3任務群の護衛に従事していた。第77.4.3任務群はレイテ島の戦いの支援を行う動く航空基地として機能していた。第77.4.3任務群は突然、夜のうちにサンベルナルジノ海峡を突破してきた栗田健男中将率いる日本の中央艦隊から攻撃を受けた。7時35分、サミュエル・B・ロバーツは反転して栗田艦隊との対決に打って出た。目標を重巡洋艦鳥海と思しき巡洋艦に定めたサミュエル・B・ロバーツは、コープランド艦長が艦内放送で「我々は水雷突撃を敢行する。結果はどうなるか分からない。だが、義務を果たそう」旨放送。煙幕を張りつつ突撃したサミュエル・B・ロバーツは鳥海から4,600メートルにまで迫ったものの、20センチ砲の射撃を受けた。これを受け、サミュエル・B・ロバーツは鳥海にさらに接近し、砲撃できないほど深く食い入った。砲弾はサミュエル・B・ロバーツの頭上を飛び越えていった。 栗田艦隊の砲撃はガンビア・ベイ (USS Gambier Bay, CVE-73) に集中していた。サミュエル・B・ロバーツは間隙を縫って、鳥海か羽黒、利根と思しき巡洋艦に対してMk15 魚雷を3本発射した。少なくとも1本が命中したように見え、乗員は歓喜した。しかし、依然として砲弾が飛び交っており、サミュエル・B・ロバーツはさらに約1時間もの間、栗田艦隊との対決を行った。鳥海と推定される巡洋艦の上部構造物に、600発もの5インチ砲弾を初め、40ミリ機関砲と20ミリ機銃を浴びせかけた。8時51分、サミュエル・B・ロバーツは日本側の砲弾2発が命中し、二発目の砲弾は後部砲塔を破壊した。被弾したサミュエル・B・ロバーツは筑摩と思しき巡洋艦の上部構造物などに5インチ砲を浴びせ、第三砲塔を破壊したと判断された。その直後、戦艦金剛は煙幕から出てきたサミュエル・B・ロバーツを発見し、この「クラベン型駆逐艦」に対して36センチ砲弾を発射した。サミュエル・B・ロバーツは主砲弾の直撃をボート・デッキに受け、第二機関室に長さ12メートル、幅3メートルの亀裂が入った。その後も大口径砲弾がサミュエル・B・ロバーツに命中あるいは至近弾として降り注いだ。 後部砲塔担当のポール・H・カー(英語版)兵曹は、用意された325発もの5インチ砲弾を全て発射させた。救助班が到着したとき、カー兵曹は最後の一発を抱えたまま戦死していた。戦死したカー兵曹にはシルバー・スターが授けられ、オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートの一艦であるカー (USS Carr, FFG-52) は彼にちなんで命名された。また、同型艦のコープランド (USS Copeland, FFG-25) およびサミュエル・B・ロバーツ (フリゲート) (USS Samuel B. Roberts, FFG-58) は、艦そのものと艦長を記念して命名された。9時35分、コープランド艦長は総員退艦を令して艦は放棄され、軽巡洋艦矢矧と第十七駆逐隊(駆逐艦浦風、磯風、雪風)は、「413」という艦番号が確認できるぐらいサミュエル・B・ロバーツに近接し、止めの砲弾を浴びせかけた。30分後にサミュエル・B・ロバーツは89名の乗員とともに沈没していったが、艦首の一部はしばらくの間、海面上に突き出ていた。 コープランド艦長を含む120名の生存者は、3隻の救命筏に揺られ50時間を過ごした後救助された。ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦の設計上の最高速は23から24ノットであったが、この戦闘の間にサミュエル・B・ロバーツは28.7ノット (53 km/h) の高速を発揮した。サミュエル・B・ロバーツは1944年11月27日に除籍された。 サミュエル・B・ロバーツが所属した第77.4.3任務群は「戦闘における特別な英雄的行動」を称えられ、殊勲部隊章(英語版)を受章した。サミュエル・B・ロバーツ自体には第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章(英語版)を受章し、「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」の愛称を得た。
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サマール沖海戦
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「ヒーアマン (駆逐艦)」の記事における「サマール沖海戦」の解説
1944年10月25日の夜明け、タフィ3の各艦はサマール島沖を北上していた。午前6時45分、見張りが北方に対空砲火が放たれているのを認めた。その3分後、タフィ3には第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将率いる第一遊撃部隊(いわゆる栗田艦隊)からの激しい砲撃が降り注いだ。タフィ3の艦艇はレイテ湾へ向かって撤退の望みをつなぐべく、護衛空母は速やかに艦載機を発艦させるとともに駆逐艦は煙幕を展開した。 戦闘が始まった時、ヒーアマンは護衛空母らと反対側の比較的安全な位置にいた。ヒーアマンは増速すると、レイテ湾へ向け転回しようとしている護衛空母たちを抜けて戦闘態勢に入った。煙幕と断続的なスコールによって視界が100ヤード以下まで低下したため、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツや魚雷攻撃を試みようとしているホーエルと衝突の危機に遭遇したが、ヒーアマンはいずれも後進一杯をかけて回避に成功した。 緊迫した状況にもかかわらず、ヒーアマンの艦長エーモス・T・ハサウェー中佐は、落ち着いて「われわれが欲しいのは突撃を吹いてくれるラッパ手だよ」と当直士官に冗談を言いつつ突撃を命じた。ヒーアマンは突進を始めると、栗田艦隊からの着色弾の鮮やかな赤、黄、緑といった染料が周囲の海面を染めた。ヒーアマンも反撃に転じ、重巡洋艦筑摩に5インチ主砲を浴びせるとともに重巡洋艦羽黒に対して魚雷4本を発射した。2本目の魚雷が発射管から出た時、栗田艦隊の4隻の戦艦から砲撃を受けたため、ヒーアマンも彼らを迎撃するために転舵した。ヒーアマンは戦艦金剛に主砲を放ちつつ3本の魚雷を発射した。続いて戦艦榛名へ急速に距離を詰め、4400ヤードの距離から残る魚雷3本全てを発射する。そのうち榛名に魚雷1本が命中したように見えたが、実際は全て回避されていた。一連の雷撃行動の後、ハサウェー艦長は隊内電話でスプレイグ少将に「演習終了」と報告した。ヒーアマンは戦艦大和からの強力な砲撃を受けたため、交戦を中止しておよそ10分間にわたって回避を続けた。 ヒーアマンは護衛空母群の右舷側4分の1マイルの位置へ急ぎ、再び煙幕を展開して護衛空母を隠すと、日本の重巡洋艦4隻との戦闘を再開した。筑摩と再び対峙したヒーアマンは複数の8インチ主砲弾を被弾した。これによってヒーアマンは大きな損傷を受け、艦前部に浸水が発生し沈下、主砲塔1基が破壊された。艦橋や上部構造物は、命中した着色弾の赤い染料と戦死者の血で赤く染まっていた。なおもヒーアマンは残った主砲で砲撃を続け、発射された5インチ砲弾は空襲による爆撃や雷撃とあわせて筑摩の沈没に貢献したものと思われた。 筑摩が離れた後、重巡洋艦利根が代わってヒーアマンに砲撃を始めた。ヒーアマンは主砲で反撃しつつ再度煙幕を展開するために移動した。やがて、フェリックス・B・スタンプ少将のタフィ2(第77.4.2任務群)の艦載機の介入や栗田艦隊の反転によってヒーアマンは(そして残存していたタフィ3の各艦も)生き長らえることができた。ホーエルとジョンストン(USS Johnston, DD-557)は撃沈されたため、ヒーアマンはタフィ3の3隻の駆逐艦で唯一生還した艦となった。
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サマール沖海戦
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「セント・ロー (護衛空母)」の記事における「サマール沖海戦」の解説
10月25日の夜明け前、「セント・ロー」はサマール島東60マイルの水域に向け出航し4機の対潜哨戒機を発艦させた。一方、タフィー3の残りの空母は同日に行われる上陸に先立っての地上攻撃準備を行った。「セント・ロー」から発艦した対潜哨戒機のパイロットであるビル・ブルックス少尉は4隻の戦艦、6隻の巡洋艦、10から12隻の駆逐艦から成る日本艦隊が17マイル西北から接近中であることを報告した。同時に「セント・ロー」の哨戒班は水平線上に日本戦艦独特の上部構造物を発見する。6時47分、サマール沖海戦が始まった。 スプレイグ少将はタフィー3に全速力で南へ回頭を命じたが、栗田健男中将率いる日本艦隊は6時58分に砲撃を開始し、タフィー3を火力、数共に圧倒した。 「セント・ロー」と僚艦の5隻の護衛空母はスコールに紛れて砲撃を回避し、搭載する戦闘機および雷撃機全てに持てる限りの弾薬を積ませ発艦させた。パイロット達は「日本艦隊への攻撃」「レイテ島のタクロバン臨時飛行場に着陸し、弾薬および燃料を補給すること」を命ぜられた。空母部隊は日本の戦艦・巡洋艦からの砲撃に追われ、「セント・ロー」の付近にも次々と着弾し混乱が迅速に広がった。 7時38分の時点で日本の巡洋艦は「セント・ロー」の14,000ヤードまで接近した。「セント・ロー」は日本の砲撃に対し5インチ単装砲で応戦し、利根型重巡洋艦に3発命中の戦果を主張している。続く1時間半、栗田中将の艦隊はタフィー3に接近し、10,000ヤードの距離から「セント・ロー」へ砲撃を加えた。多くの砲弾が付近に着弾、頭上を通過した。 砲撃戦の間、栗田艦隊の砲撃精度を落とすためタフィー3の全艦が煙幕を展開し、駆逐艦・護衛駆逐艦による捨て身の攻撃も栗田艦隊の攻撃を効果的に妨げた。さらにタフィー3だけでなく、南方に位置していたタフィー1およびタフィー2の艦載機も援護に加わった。 アメリカ軍の航空攻撃および駆逐艦・護衛駆逐艦からの攻撃が増し、日本巡洋艦は戦闘を停止し9時20分に北方へ回頭した。しかし日本駆逐艦が9時15分に10,500ヤードの距離からタフィー3に対し魚雷攻撃を開始していた。「セント・ロー」の艦載機TBMアヴェンジャーのパイロット、ワルドロップ少尉は機銃掃射で二発の魚雷を爆破した。 一連の戦闘でタフィー3は護衛空母「ガンビア・ベイ」、駆逐艦「ジョンストン」「ホーエル」、護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」を失った。
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