サマール沖海戦と敷島隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/10 18:05 UTC 版)
「キトカン・ベイ (護衛空母)」の記事における「サマール沖海戦と敷島隊」の解説
10月25日朝、第77.4.3任務群の航空機は対潜哨戒のため一斉に飛び去った。その時、任務群旗艦ファンショー・ベイ (USS Fanshaw Bay, CVE-70) の見張りが北西の方角に対空砲火を発見。これと同時に、ファンショー・ベイのレーダーも北西方向に複数の目標を探知していた。栗田艦隊が、第77.4.3任務群の目の前に出現しつつあったのである。ファンショー・ベイのスプレイグ少将は、ただちに栗田艦隊とは逆の方向に全速力で逃げるよう命令を出し、同時に第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)に救援を求める緊急電報を発信して、任務群の全艦艇は煙幕を張りながらスコールに向かっていった。栗田艦隊はよいレーダーを持たぬとはいえ、次第に護衛空母や駆逐艦、護衛駆逐艦に命中弾および至近弾を与えつつあった。キトカン・ベイの周囲には至近弾が落下したが、命中弾は無かった。キトカン・ベイは出動可能機全機で反撃を行い、重巡洋艦鳥海と思しき巡洋艦に打撃を与えた。スプレイグ少将は、栗田艦隊と最初に接触した時点で「あと5分も敵の大口径砲の射撃を受け続ければ、わが艦隊は全滅していただろう」と言ったが、任務群はスコールの助けと駆逐艦、護衛駆逐艦の必死の反撃により、接触から2時間近く経っても辛うじて健在だった。9時11分、スプレイグ少将の理解しがたい事が起こった。栗田艦隊は、別の機動部隊を求めに行くとの名目で戦場を去っていき、二度と第77.4.3任務群の目の前には姿を見せなかった。スプレイグ少将は後に、「戦闘で疲れ切った私の頭脳は、この事実をすぐには理解できなかった」と回想している。やがて戦闘配置は解かれ、ガンビア・ベイを失った第77.4.3任務群の空母は再び輪形陣を構成したが、旗艦のファンショー・ベイは損傷により輪形陣からは遅れがちだった。 しかし、第77.4.3任務群が安心していたのは、つかの間だった。7時25分にマバラカット基地を出撃した神風特別攻撃隊敷島隊(関行男大尉)が、10時49分に雲上から第77.4.3任務群に向けて突入してきた。キトカン・ベイの見張りは突入機と直掩機を発見し、突入機は40度の角度を以って突入してきた。やがて突入機は、キトカン・ベイの上空で一回転した次の瞬間、艦橋をかすめて飛行甲板外側部の通路に命中したが、爆弾が直撃せず海面で爆発し、爆発で生じた火災が即座に消し止められたため、被害は最小限に食い止められた。この攻撃では、セント・ロー (USS St. Lo, CVE-63) が沈没し、キトカン・ベイの他にはカリニン・ベイ (USS Kalinin Bay, CVE-68) とホワイト・プレインズ (USS White Plains, CVE-71) も損傷した。敷島隊のどの機がどの空母に突入したのかは定かではない。キトカン・ベイは一連の戦いで搭載機2機と、そのパイロットを失った。キトカン・ベイは補給と修理のためマヌス島に下がった後、11月1日に出港して11月7日に真珠湾に帰投。搭載飛行隊が VC-5 から VC-91 に交代した。
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サマール沖海戦と敷島隊
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「ファンショー・ベイ (護衛空母)」の記事における「サマール沖海戦と敷島隊」の解説
ファンショー・ベイは最初の4日間はサマール島沖にて対潜哨戒、空中哨戒、上陸部隊の援護などを実施した。10月24日、栗田健男中将率いる日本艦隊が西に向かっているとの偵察機の報告があった。翌朝6時45分、ファンショー・ベイの見張りが北西の方角に対空砲火を発見。これと同時に、ファンショー・ベイのレーダーも北西方向に複数の目標を探知していた。西に向かっていたはずの栗田艦隊が、この時第77.4.3任務群の目の前に出現しつつあったのである。折り悪く、任務群の航空機は対潜哨戒のために出動して手元にはいなかった。ファンショー・ベイのスプレイグ少将は、ただちに栗田艦隊とは逆の方向に全速力で逃げるよう命令を出し、同時に第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)に救援を求める緊急電報を発信して、任務群の全艦艇は煙幕を張りながらスコールに向かっていった。栗田艦隊はよいレーダーを持たぬとはいえ、次第に護衛空母や駆逐艦、護衛駆逐艦に命中弾および至近弾を与えつつあった。ファンショー・ベイは8時55分までに、少なくとも2隻の巡洋艦と2隻の駆逐艦から撃たれて、重巡洋艦からの20センチ砲弾4発が命中していた。ファンショー・ベイのみならず、第77.4.3任務群全体が最悪の危機に陥りつつあった。カリニン・ベイ (USS Kalinin Bay, CVE-68) とホワイト・プレインズ (USS White Plains, CVE-71) も激しく被弾し、空母群の最後尾にいたガンビア・ベイ (USS Gambier Bay, CVE-73) は戦艦と重巡洋艦に追いつかれて沈没した。スプレイグ少将は、栗田艦隊と最初に接触した時点で「あと5分も敵の大口径砲の射撃を受け続ければ、わが艦隊は全滅していただろう」と言ったが、任務群はスコールの助けと駆逐艦、護衛駆逐艦の必死の反撃により、接触から2時間近く経っても辛うじて健在だった。9時11分、スプレイグ少将の理解しがたい事が起こった。栗田艦隊は、別の機動部隊を求めに行くとの名目で戦場を去っていき、二度と第77.4.3任務群の目の前には姿を見せなかった。スプレイグ少将は後に、「戦闘で疲れ切った私の頭脳は、この事実をすぐには理解できなかった」と回想している。やがて戦闘配置は解かれ、ガンビア・ベイを失った第77.4.3任務群の空母は再び輪形陣を構成したが、ファンショー・ベイは損傷により輪形陣からは遅れがちだった。 しかし、第77.4.3任務群が安心していたのは、つかの間だった。7時25分にマバラカット基地を出撃した神風特別攻撃隊敷島隊(関行男大尉)が、10時49分に雲上から第77.4.3任務群に向けて突入してきた。この攻撃でセント・ロー (USS St. Lo, CVE-63) が沈没し、カリニン・ベイ、ホワイト・プレインズおよびキトカン・ベイ (USS Kitkun Bay, CVE-71) が損傷した。敷島隊のどの機がどの空母に突入したのかは定かではないが、一つ言えるのは、ファンショー・ベイは敷島隊に突入されなかったということである。一連の戦いが評価され、ファンショー・ベイには殊勲部隊章(英語版)が授けられた。
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