サマール沖
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「ホーエル (DD-533)」の記事における「サマール沖」の解説
「レイテ沖海戦」も参照 パラオ戦のあと、ホーエルはマヌス島ゼーアドラー湾に後退。第77.4任務群(トーマス・L・スプレイグ少将)に編入され、10月12日にゼーアドラー湾を出撃してレイテ島を目指す。第77.4任務群は護衛空母、駆逐艦および護衛駆逐艦で構成されており、「スリー・タフィ」と呼称される3つの任務隊に分かれてレイテ島の戦いの支援を行うこととなっていた。10月18日、「スリー・タフィ」はサマール島沖で支援作戦を開始した。 ホーエルはクリフトン・スプレイグ少将の「タフィ3」第77.4.3任務隊に属し、4隻の護衛空母と他の2隻の駆逐艦、ヒーアマンとジョンストンで構成されていたが、のちにラルフ・A・オフスティ(英語版)少将から2隻以上の護衛空母と4隻の護衛駆逐艦、デニス(英語版) (USS Dennis, DE-405) 、ジョン・C・バトラー(英語版) (USS John C. Butler, DE-339) 、レイモンド(英語版) (USS Raymond, DE-341) およびサミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413) が増勢された。 1944年10月25日の朝、「タフィ3」はサマール島の北東海域で行動中であり、「タフィ2」(第77.4.2任務群。フェリックス・スタンプ少将)はレイテ湾近くを、「タフィ1」(第77.4.1任務群。トーマス・L・スプレイグ少将直卒)はレイテ湾口から240キロ南東をそれぞれ行動中であった。クリフトン・スプレイグ少将は、ハルゼー大将の第3艦隊中の第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)が北方を守っていると信じていたので、6時45分に栗田健男中将率いる第二遊撃部隊が対空射撃をしながら接近してくるのを発見したとき、大いに狼狽した。「タフィ3」は3分以内に4隻の戦艦、6隻の重巡洋艦、2隻の軽巡洋艦および11隻の駆逐艦からの猛攻にさらされることとなった。 「ジープ空母」と「ブリキ缶」からなる小艦隊が大艦隊から生き残るチャンスは、自らの存亡の前に助太刀が来ることを信じて、とにかく南に逃走することであった。護衛空母は可能な限りの航空機を発進させてレイテ湾をめざし、ホーエル、ヒーアマンとジョンストンは煙幕を張って「ベビー空母」を圧倒的な栗田艦隊から覆い隠そうと無我夢中で駆けずり回った。7時6分、折からのスコールも「タフィ3」を守ってくれないと悟ったクリフトン・スプレイグ少将は、駆逐艦に反転して栗田艦隊に立ち向かうよう命じる。ホーエルは即座に、約16.5キロの最も至近距離にいた戦艦金剛との重巡洋艦羽黒に立ち向かっていった。金剛の36センチ砲の射程内を突き進んだホーエルは、距離12.8キロで5インチ砲の発砲を開始し、次いで彼我の距離が8.2キロになった時点で羽黒に対して魚雷を5本発射。魚雷は羽黒の前をかすめ去り、後方を進んでいた金剛は目ざとく魚雷を発見して北方に回避する。魚雷は金剛を「タフィ3」から一時的に遠ざけたものの、ホーエルは間もなく重巡洋艦から猛打を浴び、マーク37射撃指揮装置、機関室、艦橋、レーダー、操舵装置に被弾して人力操舵に切り替え、残りの魚雷を重巡洋艦に対して発射。5.5キロ離れた羽黒のあたりに水柱が立ったのを見て命中したと判断されたものの、羽黒に魚雷が命中した記録はなく、錯覚であった。 ホーエルは半身不随であり、金剛との距離は約7.3キロ、羽黒など重巡洋艦からの距離は約6.4キロであり、スコールから抜け出して残存の2基の5インチ砲で最後の反撃を試みた。そのうちの1発は第二水雷戦隊(早川幹夫少将)の旗艦である軽巡洋艦能代に命中した。しかし、すでに40発以上の命中弾を受けていたホーエルは死に体であり、重巡洋艦からのものと思われる20センチ砲弾が機関室に命中した時点で、ついにその動きを止めた。ホーエルに止めを刺したこの砲弾は戦艦大和の副砲弾という説もある。艦長のレオン・S・キンツバーガー中佐は総員退艦を令し、生き残った乗組員は艦を順次離れていった。8時55分、ホーエルは横転して沈没していった。駆逐艦磯風操舵員の証言によると、磯風は沈没寸前のホーエルに接近。前田實穂中佐(磯風駆逐艦長)は砲撃を命令し、機銃員がホーエルの生存者に照準を合わせた。磯風乗員は日本兵生存者を機銃掃射で殺戮する鬼畜米兵に恨みを抱いており、報復の美酒に酔った顔で見守ったが、結局前田艦長は良心に従い攻撃中止を命じたので乗員は黙って拳を握り締めたという。ただし同じ磯風操舵員がもっと古い時期に発表した証言によれば、磯風は沈没寸前の敵駆逐艦(艦名不詳)と遭遇したが、敵兵が全て逃げ出した無人の艦だったので発砲しなかっただけで、日頃の鬱憤を晴らすべく「左砲戦」「撃てっ!」と命令を出した前田艦長や、「誰もいないではないか」と呟いた砲術科の兵曹を始め、磯風艦内は誰しもが泳ぎ逃げまとう敵兵を救助どころか蹴散らしたい気持ちだったという。 直情径行で個性の強烈なハルゼーが「ジャップを殺せ、もっと殺せ」というのなら、目には目をである。今日は「ヤンキー殺せ、もっとヤンキーを殺せ」である。 — 駆逐艦磯風操舵員 井上理二 駆逐艦磯風と三人の特年兵 231ページ(平成11年9月発行) ホーエルの乗組員のうち、生存者はキンツバーガー艦長以下89名のみであり、残り253名はホーエルとともに沈んでいった。負傷者のうち、15名も後刻落命した。キンツバーガー艦長はホーエルの追悼碑に、次のように記した。「自らの艦が沈みゆくその時まで乗組員は冷静かつ効率的に割り当てられた己の職務をよく遂行し、その結果、非常に優れたチームワークが発揮できることを完全に認識した。」。生還したキンツバーガー艦長は海軍十字章とパープルハート章を受章し、少将に昇進して1983年に73歳で亡くなった。 ホーエルは第二次世界大戦の戦功で5個の従軍星章と大統領殊勲部隊章(英語版)、フィリピン政府からフィリピン政府殊勲部隊章(英語版)を受章した。
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