サマール沖とは? わかりやすく解説

サマール沖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/09 10:18 UTC 版)

ホーエル (DD-533)」の記事における「サマール沖」の解説

レイテ沖海戦」も参照 パラオ戦のあと、ホーエルはマヌス島ゼーアドラー湾後退。第77.4任務群(トーマス・L・スプレイグ少将)に編入され10月12日ゼーアドラー湾出撃してレイテ島目指す。第77.4任務群は護衛空母駆逐艦および護衛駆逐艦構成されており、「スリー・タフィ」と呼称される3つの任務隊に分かれてレイテ島の戦い支援を行うこととなっていた。10月18日、「スリー・タフィ」はサマール島沖で支援作戦開始した。 ホーエルはクリフトン・スプレイグ少将の「タフィ3」第77.4.3任務隊に属し、4隻の護衛空母と他の2隻の駆逐艦、ヒーアマンとジョンストン構成されていたが、のちにラルフ・A・オフスティ(英語版少将から2隻以上の護衛空母と4隻の護衛駆逐艦デニス英語版) (USS Dennis, DE-405) 、ジョン・C・バトラー英語版) (USS John C. Butler, DE-339) 、レイモンド英語版) (USS Raymond, DE-341) およびサミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413) が増勢された。 1944年10月25日の朝、「タフィ3」はサマール島北東海域行動中であり、「タフィ2」(第77.4.2任務群。フェリックス・スタンプ少将)はレイテ湾近くを、「タフィ1」(第77.4.1任務群。トーマス・L・スプレイグ少将直卒)はレイテ湾口から240キロ南東それぞれ行動であったクリフトン・スプレイグ少将は、ハルゼー大将第3艦隊中の第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)が北方守っていると信じていたので、6時45分栗田健男中将率い第二遊撃部隊対空射撃しながら接近してくるのを発見したとき、大い狼狽した。「タフィ3」は3分以内に4隻の戦艦、6隻の重巡洋艦、2隻の軽巡洋艦および11隻の駆逐艦からの猛攻さらされることとなった。 「ジープ空母」と「ブリキ缶からなる小艦隊大艦隊から生き残るチャンスは、自らの存亡の前に助太刀が来ることを信じて、とにかく南に逃走することであった護衛空母可能な限り航空機発進させてレイテ湾をめざし、ホーエル、ヒーアマンとジョンストン煙幕を張ってベビー空母」を圧倒的な栗田艦隊から覆い隠そう無我夢中駆けずり回った7時6分折からスコールも「タフィ3」を守ってくれない悟ったクリフトン・スプレイグ少将は、駆逐艦反転して栗田艦隊立ち向かうよう命じる。ホーエルは即座に、約16.5キロの最も至近距離にいた戦艦金剛との重巡洋艦羽黒立ち向かっていった。金剛36センチ砲の射程内を突き進んだホーエルは、距離12.8キロで5インチ砲の発砲開始し次いで彼我の距離が8.2キロになった時点羽黒に対して魚雷を5本発射魚雷羽黒の前をかすめ去り後方進んでいた金剛は目ざとく魚雷発見して北方回避する魚雷金剛を「タフィ3」から一時的に遠ざけたものの、ホーエルは間もなく重巡洋艦から猛打浴びマーク37射撃指揮装置機関室艦橋レーダー操舵装置被弾して人力操舵切り替え残り魚雷重巡洋艦に対して発射。5.5キロ離れた羽黒のあたりに水柱立ったのを見て命中した判断されたものの、羽黒魚雷命中した記録はなく、錯覚であった。 ホーエルは半身不随であり、金剛との距離は約7.3キロ羽黒など重巡洋艦からの距離は約6.4キロであり、スコールから抜け出して残存の2基の5インチ砲で最後反撃試みたそのうちの1発は第二水雷戦隊早川幹夫少将)の旗艦である軽巡洋艦能代命中した。しかし、すでに40発以上の命中弾を受けていたホーエルは死に体であり、重巡洋艦からのものと思われる20センチ砲弾機関室命中した時点で、ついにその動き止めた。ホーエルに止め刺したこの砲弾戦艦大和副砲弾という説もある。艦長レオン・S・キンツバーガー中佐総員退艦を令し生き残った乗組員は艦を順次離れていった。8時55分、ホーエルは横転して沈没していった。駆逐艦磯風操舵員の証言によると、磯風沈没寸前のホーエルに接近前田實中佐磯風駆逐艦長)は砲撃命令し機銃員がホーエルの生存者照準合わせた磯風乗員日本兵生存者機銃掃射殺戮する鬼畜米兵恨み抱いており、報復美酒酔った顔で見守ったが、結局前田艦長良心従い攻撃中止命じたので乗員黙って拳を握り締めたという。ただし同じ磯風操舵がもっと古い時期発表した証言によれば磯風沈没寸前の敵駆逐艦艦名不詳)と遭遇したが、敵兵全て逃げ出した無人の艦だったので発砲しなかっただけで、日頃鬱憤を晴らすべく「左砲戦」「撃てっ!」と命令出した前田艦長や、「誰もいないではないか」と呟いた砲術科の兵曹始め磯風艦内誰しも泳ぎ逃げまとう敵兵救助どころか蹴散らしたい気持ちだったという。 直情径行個性強烈なハルゼーが「ジャップ殺せ、もっと殺せ」というのなら、目には目をである。今日は「ヤンキー殺せ、もっとヤンキー殺せ」である。 — 駆逐艦磯風操舵井上理二 駆逐艦磯風三人の特年兵 231ページ平成11年9月発行) ホーエルの乗組員のうち、生存者はキンツバーガー艦長以下89名のみであり、残り253名はホーエルとともに沈んでいった。負傷者のうち、15名も後刻落命した。キンツバーガー艦長はホーエルの追悼碑に、次のように記した。「自らの艦が沈みゆくその時まで乗組員は冷静かつ効率的に割り当てられた己の職務をよく遂行しその結果、非常に優れたチームワーク発揮できることを完全に認識した。」。生還したキンツバーガー艦長海軍十字章パープルハート章受章し少将昇進して1983年73歳亡くなった。 ホーエルは第二次世界大戦戦功で5個の従軍星章大統領殊勲部隊章英語版)、フィリピン政府からフィリピン政府殊勲部隊章英語版)を受章した

※この「サマール沖」の解説は、「ホーエル (DD-533)」の解説の一部です。
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