サマール島沖海戦
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「ジョンストン (DD-557)」の記事における「サマール島沖海戦」の解説
1944年10月25日の夜明け後、上空警戒機の1機が栗田健男中将率いる日本の中央艦隊が接近中であるという警報を発した。「タフィ3」に真っすぐ向かっていたのは、第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将(旗艦大和)が指揮する第一遊撃部隊(通称栗田艦隊または栗田部隊 )であった。この日の第一遊撃部隊は、戦艦4隻(第一戦隊〈大和、長門〉、第三戦隊〈金剛、榛名〉)、重巡洋艦6隻(第五戦隊〈羽黒、鳥海〉、第七戦隊〈熊野、鈴谷、利根、筑摩〉)、二個水雷戦隊(第二水雷戦隊〔軽巡洋艦〈能代〉、第2駆逐隊〈早霜、秋霜〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉、島風型駆逐艦〈島風〉〕、第十戦隊〔軽巡洋艦〈矢矧〉、第17駆逐隊〈浦風、磯風、雪風〉、第4駆逐隊〈野分〉〕)という合計23隻の艦隊編成であった。 スプレイグ少将は「どの艦にせよ、5分間の大口径砲をくらって生き延びる艦はいそうになかった」と回想する。ジョンストンの砲術士官であったロバート・C・ヘーゲン大尉は後に「我々は投石器を持たない少年ダビデのような気分だった」と述べている。ジョンストンをふくめ7隻の駆逐艦は米軍護衛空母6隻と日本艦隊の間をジグザグ航行しつつ、護衛空母を隠すため2,500ヤード(2,300m)以上前方に煙幕を展開した。 我々が煙幕を張り始めても、日本側は我々に砲弾を放ち始め、ジョンストンは水柱の間をジグザグ航行しなければならなかった…我々は最初に煙幕を張り、最初に発砲し、最初に魚雷を放った駆逐艦だった… 栗田長官ふくめ第一遊撃部隊は、目標が低速のアメリカ軍護衛空母群だったにもかかわらず、敵を高速を発揮する正規空母機動部隊と誤認した。まず戦艦で射撃を実施、高速の巡洋艦を突出させて敵空母に有効な打撃をあたえ、第二水雷戦隊と第十戦隊の投入は見合わせることにした。米空母群はスコールに逃げ込み、警戒の駆逐艦は煙幕を展開して退却を掩護した。米空母群が見えなくなったので、栗田艦隊の戦艦群はアメリカ側駆逐艦(日本側は巡洋艦と艦隊型駆逐艦と誤認)に目標を定めた。 最初の20分間、敵の大型艦が持つ大口径砲はジョンストンの5インチ砲の射程外から攻撃していたため反撃できなかった。ジョンストンにむけ主砲弾を放ったのは、大和と長門と思われる。命令を待つことなく、エヴァンズ中佐は陣形から離れると攻撃をかけるべく栗田艦隊にむけ真っすぐ突き進むように命じた。東側にはさらに3隻の巡洋艦と数隻の駆逐艦が現れた。 距離が10マイル内に縮まるとすぐに、ジョンストンは一番近くにいた重巡洋艦熊野を砲撃した。また重巡洋艦羽黒もジョンストンと思われる艦から砲撃された。羽黒側は「敵巡洋艦、敵駆逐艦」(駆逐艦と護衛駆逐艦の誤認)と交戦し、駆逐艦に対して0715に距離1万2100mで三斉射を放ち、命中弾を観測したが煙幕で見失った。 第七戦隊司令官白石萬隆少将座乗の熊野は煙幕を出入りする巡洋艦と駆逐艦(ジョンストン等の誤認)を砲撃しようとしたが、効果的な射撃はできなかった。魚雷の射程内に入り込む5分間、ジョンストンは200発以上の弾を敵に発射し、それから水雷士官ジャック・K・ベックデル大尉の指揮の下で魚雷攻撃を敢行する。ジョンストンは10本の魚雷を全て発射すると、反転し濃い煙幕の向こうへ退避した。大和は主砲と副砲を併用して「〇七二五敵大巡一隻撃沈」を記録するが、これは煙幕に入ったジョンストンを「巡洋艦撃沈」と誤認したと思われる。 午前7時24分、魚雷1本が熊野の艦首部分に命中した。艦首を失った熊野は最大速力14ノットとなり、落伍した。第七戦隊司令官は旗艦を熊野から重巡洋艦鈴谷に変更した。健在の重巡4隻(第五戦隊〈羽黒、鳥海〉、第七戦隊〈筑摩、利根〉)はアメリカ軍駆逐艦や空襲に対処しつつ、ひきつづき米空母群を追撃した。第五戦隊は大型巡洋艦(ジョンストンと推定)と交戦しつつ米空母群を追撃した。 この頃、ジョンストンには大和主砲46㎝砲弾と大和副砲の15.5㎝砲弾、あるいは羽黒の20㎝砲弾がふりそそいでいた。6インチ(約16㎝)砲弾が後部煙突に1発、艦橋に2発が命中し、続いて戦艦金剛からの14インチ(36㎝)砲弾3発も被弾した。ジョンストンの先任将校は「まるで子犬がトラックにひきつぶされるようであった」と回想している。日本側の砲弾は徹甲弾だったので駆逐艦の薄い装甲に命中しても突き抜けてしまい爆発しなかったが、ジョンストンも「損傷なし」というわけにはいかなかった。14インチ砲弾は左舷の機関歯車とタービン、後部ボイラーにそれぞれ命中し左舷推進軸が停止した。この損傷により速力は17ノットに低下した。さらに操舵機と5インチ砲3基への動力が失われ、ジャイロコンパスは役に立たなくなった。低く垂れこめたスコールが現れたため、ジョンストンは逃げ込んで数分間応急修理と復旧作業を行った。艦橋内は死傷者が横たわり血の海となっていた。エヴァンズ中佐は破片によって上半身が傷だらけになり、さらに左手の指2本を失ったが、傷口を自らハンカチで覆うと駆け付けた救護班に対し、自身に構わず他の負傷者を看るように命じ指揮を継続した。 7時50分、スプレイグ少将は駆逐艦に対して魚雷攻撃を命じた。ジョンストンは機関に損傷を受けていたが、他の駆逐艦を砲撃で援護しつづけた。煙幕から現れた時、危うくヒーアマン (USS Heermann, DD-532)と衝突しそうになった。8時20分、煙幕から抜け出たジョンストンは左舷方向わずか7,000ヤード(6,400m)の距離に金剛を発見し、それに向かって45発の5インチ砲弾を浴びせかけ上部構造物に複数の命中を記録した。金剛からの主砲による反撃は全て外れた。 つづいてジョンストンは敵巡洋艦に砲撃されている護衛空母ガンビア・ベイ (USS Gambier Bay, CVE-73)を確認し、砲撃をガンビア・ベイから遠ざけるべく巡洋艦に攻撃をかけ、重巡洋艦に対して4発の命中を記録した。米空母群に接近した第五戦隊(羽黒、鳥海)の周辺には着色された巨大な水柱が立ち、この頃に被弾した鳥海は落伍した。 さらに、ジョンストンは日本の水雷戦隊が護衛空母群へ急速に接近しつつあるのを視認し、阻止を試みる。この水雷戦隊は、第十戦隊司令官木村進少将が指揮する軽巡洋艦矢矧(第十戦隊旗艦)と第17駆逐隊司令谷井保大佐指揮下の陽炎型駆逐艦4隻(浦風、磯風、雪風、野分)であった。0848、木村司令官は「空母二隻 我ヨリノ方位二一〇度二〇,〇〇〇米 我空母二隻ニ突撃ス」と報告し、各艦に魚雷戦の準備を命じた。第十戦隊が魚雷を発射する前、ジョンストンは先頭の軽巡洋艦矢矧と交戦し12発の命中弾を観測して進路を妨害すると、後続する陽炎型駆逐艦浦風(第17駆逐隊司令駆逐艦)と戦って命中弾を観測した。矢矧はジョンストンに対してまず8㎝高角砲を発射し、続いてジョンストンの行動を魚雷発射とみて右舷側に回避行動をとった。第十戦隊の右側への回避行動は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将)の進撃を妨げる結果となり、二水戦は空母群への射点につくことができなくなった。前述のようにジョンストンは既に魚雷を撃ち尽くしていたが、第十戦隊(矢矧)は「ジョンストンが魚雷を発射した」と誤認したのである。旗艦が回避行動をとったのをみて、後続の第17駆逐隊も矢矧同様に右側へ回避行動をとった。態勢を立て直した矢矧は0905に魚雷7本を発射、つづいて敵駆逐艦に砲撃をくわえ0900に爆発し0915に沈没したと記録している。この駆逐艦はサミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413)であった。交戦中、矢矧の右舷士官室にジョンストンの主砲1発が命中した。第17駆逐隊は0915から0923までに距離1万メートルで魚雷約20本(浦風4、磯風8、雪風4、野分推定4)を発射したが、命中しないか、艦砲射撃や艦載機の銃撃で爆破された。第十戦隊は「エンタープライズ型空母撃沈1、沈没確実1、駆逐艦撃沈3」を報告した。 ジョンストンは被弾によって2番砲が破壊され、3番砲直下にも命中弾を受けた。動力が失われているため揚弾機は使えず、1発あたり54ポンド(24.5kg)ある砲弾を乗員が弾薬庫から人力で担ぎ上げた。艦橋は40mm機関砲用即応弾庫への被弾によってもたらされた火災と爆発によって惨状をさらしていた。ジョンストンの艦尾に移り指揮を継続していたエヴァンズ中佐は、手動で舵を動かす乗員たちへ開け放ったハッチ越しに命令を叫んでいた。主砲塔の一つでは、一人の砲手が「もっと砲弾を!もっと砲弾を!」と叫んでいた。いまだジョンストンは、生き残っている5隻の護衛空母に日本の巡洋艦と駆逐艦が到達するのを防ぐため戦っていた。 奮闘するジョンストンにも9時30分までには最期の時が訪れようとしていた。ヒーアマンは護衛空母を守りながら南へ撤退し、護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ホーエルは既に海面上になく、サミュエル・B・ロバーツは矢矧にとどめをさされて沈没した。米空母群に魚雷を発射したあとの第十戦隊は、再びジョンストンに狙いを定めた。矢矧は15㎝主砲を撃ちこんだ。0930の時点でジョンストンは沈没しかかっており、乗組員の一部は脱出しつつあった。矢矧はジョンストンを砲撃したあと、麾下駆逐艦にジョンストンを砲撃で処分するよう命じた。第17駆逐隊(浦風、磯風、雪風、野分)はジョンストンを包囲すると、集中砲火を浴びせた。同時刻、栗田部隊から落伍していた重巡洋艦鈴谷も距離18km先に日本側水雷戦隊(第十戦隊)と米軍防空巡洋艦らしき1隻との交戦を目撃、12.4kmに接近して20㎝砲40発を発射した。鈴谷側は、至近弾により目標の傾斜が増大するのを確認した。 9時45分にエヴァンズ艦長は総員退艦を令し、10時10分にジョンストンは転覆した。一隻の日本の駆逐艦が接近し、炎上するジョンストンの艦体に止めの砲撃を加えた。ジョンストンの生存者は、その駆逐艦が爆雷や機銃で彼らを殺傷するのではないかと心配し、実際に艦橋にいる艦長が対空砲の方を向いて何かを指示するのが見えた。だが生存者の予想に反し、艦長は漂流する生存者に向き直ると直立不動の姿勢で彼らに敬礼を送った。また、その駆逐艦が通り過ぎる際に1人の乗員が何かを投げていった。誰かが手榴弾だと叫んだが、生存者の一人であったクリント・カーター(5番砲班長)が漂うその物体に近寄ってみたところアーカンソー州で製造されたトマトの缶詰であり、3年前の日米開戦直前に日本へ輸出されたものであった。日本側の証言にも、駆逐艦雪風の寺内正道艦長(中佐)が咄嗟にジョンストンに対し発砲した機銃手(照準調整のため2射したのみで命中せず)に向け「酷いことをするな」と怒鳴り、攻撃中止を命じたことが伝えられている。雪風艦橋にいた柴田正(雪風砲術長)は「艦橋にいた我々は敵勇者の最後を弔って挙手の礼を捧げた」と回想している。雪風はジョンストンの兵が救命ボートを下しているすぐ傍をすれ違い、田口康生(雪風航海長)は「お互いの顔まで見えた」と語った。 そして多くのジョンストンの生存者が生涯忘れられない光景を目にした。日本の駆逐艦の艦橋で、ひとりの士官が直前まで仇敵だったジョンストンが波間に沈んでいくのをじっと見ていた。その誇り高き船が姿を消した時、この日本の士官は手を帽子のひさしにあてて直立の姿勢をとった. . .敬礼したのだ。"And many of Johnston’s survivors then witnessed something they would never forget. There on the bridge-wing of the Japanese destroyer, an officer stood watching as Johnston, his mortal enemy of just moments before, slipped beneath the waves. As the noble ship went down, this Japanese officer lifted a hand to the visor of his cap and stood motionless for a moment . . . salutin." — トマス・J・カトラー『The Battle of Leyte Gulf 23-26 October 1944』 第17駆逐隊をふくめ日本艦隊は去っていったものの、2隻の救命ボートと2隻の筏に分乗したジョンストンの生存者は長時間の過酷な漂流を強いられることになった。友軍のアヴェンジャー雷撃機が彼らを発見したものの、通報した位置が間違っていたため救助隊が全く異なる場所を捜索していたからであった。漂流中、ジョンストンの生存者は鮫の襲撃や衰弱、体温より低い夜間の海水温による低体温症といった脅威に耐えねばならず、途中で力尽きる者もいた。自軍の生存者を探す日本の駆逐艦が接近してきたことが一度あったが、日本軍の捕虜収容所における厳しい扱いの噂を聞いていたため息をひそめてやり過ごした。生き残った者はジョンストンの沈没から3日後の早朝に歩兵揚陸艇(LCI)に発見され、救助のうえで病院船に収容された。 ジョンストンの全乗員327名のうち生還したものは141名だった。186名が戦死した。そのうち約50名は戦闘によって命を落とし、45名が負傷により漂流中に死亡、艦長エヴァンズ中佐を含む残り92名は退艦したものの行方不明となった。
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