サマール島沖海戦とは? わかりやすく解説

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サマール島沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 11:00 UTC 版)

ジョンストン (DD-557)」の記事における「サマール島沖海戦」の解説

1944年10月25日夜明け後、上空警戒機の1機が栗田健男中将率い日本中央艦隊接近中であるという警報発した。「タフィ3」に真っすぐ向かっていたのは、第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将旗艦大和)が指揮する第一遊撃部隊通称栗田艦隊または栗田部隊であった。この日の第一遊撃部隊は、戦艦4隻(第一戦隊〈大和長門〉、第三戦隊〈金剛榛名〉)、重巡洋艦6隻(第五戦隊羽黒鳥海〉、第七戦隊熊野鈴谷利根筑摩〉)、二個水雷戦隊第二水雷戦隊軽巡洋艦能代〉、第2駆逐隊早霜秋霜〉、第31駆逐隊岸波沖波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉、島風型駆逐艦島風〉〕、第十戦隊軽巡洋艦矢矧〉、第17駆逐隊浦風磯風雪風〉、第4駆逐隊野分〉〕)という合計23隻の艦隊編成であったスプレイグ少将は「どの艦にせよ、5分間大口径砲くらって生き延びるはいそうになかった」と回想するジョンストン砲術士であったロバート・C・ヘーゲン大尉は後に「我々は投石器持たない少年ダビデのような気分だった」と述べている。ジョンストンをふくめ7隻の駆逐艦米軍護衛空母6隻と日本艦隊の間をジグザグ航行しつつ、護衛空母を隠すため2,500ヤード(2,300m)以上前方に煙幕展開した。 我々が煙幕張り始めても、日本側は我々に砲弾放ち始めジョンストン水柱の間をジグザグ航行なければならなかった…我々は最初に煙幕張り最初に発砲し最初に魚雷放った駆逐艦だった… 栗田長官ふくめ第一遊撃部隊は、目標低速アメリカ軍護衛空母群だったにもかかわらず、敵を高速発揮する正規空母機動部隊誤認した。まず戦艦射撃実施高速巡洋艦突出させて敵空母有効な打撃をあたえ、第二水雷戦隊第十戦隊投入見合わせることにした。米空母群はスコール逃げ込み警戒駆逐艦煙幕展開して退却掩護した。米空母群が見えなくなったので、栗田艦隊戦艦群はアメリカ側駆逐艦日本側は巡洋艦艦隊駆逐艦誤認)に目標定めた最初20分間、敵の大型艦が持つ大口径砲ジョンストンの5インチ砲の射程外から攻撃していたため反撃できなかった。ジョンストンにむけ主砲弾を放ったのは、大和長門思われる命令を待つことなくエヴァンズ中佐陣形から離れる攻撃をかけるべく栗田艦隊にむけ真っすぐ突き進むように命じた東側にはさらに3隻の巡洋艦と数隻の駆逐艦現れた。 距離が10マイル内に縮まるとすぐに、ジョンストンは一番近くにいた重巡洋艦熊野砲撃した。また重巡洋艦羽黒ジョンストン思われる艦から砲撃された。羽黒側は「敵巡洋艦、敵駆逐艦」(駆逐艦護衛駆逐艦誤認)と交戦し駆逐艦に対して0715に距離1万2100mで三斉射放ち命中弾を観測した煙幕見失った第七戦隊司令官白石萬隆少将座乗熊野煙幕出入りする巡洋艦駆逐艦ジョンストン等の誤認)を砲撃しようとしたが、効果的な射撃はできなかった。魚雷射程内に入り込む5分間ジョンストン200発以上の弾を敵に発射し、それから水雷士官ジャック・K・ベックデル大尉指揮の下で魚雷攻撃敢行するジョンストン10本の魚雷全て発射すると、反転し濃い煙幕向こう退避した大和主砲副砲併用して「〇七二五敵大巡一隻撃沈」を記録するが、これは煙幕入ったジョンストンを「巡洋艦撃沈」と誤認した思われる午前7時24分、魚雷1本が熊野艦首部分命中した艦首失った熊野最大速力14ノットとなり、落伍した第七戦隊司令官旗艦熊野から重巡洋艦鈴谷変更した健在重巡4隻(第五戦隊羽黒鳥海〉、第七戦隊筑摩利根〉)はアメリカ軍駆逐艦空襲対処しつつ、ひきつづき米空母群を追撃した第五戦隊大型巡洋艦ジョンストン推定)と交戦しつつ米空母群を追撃したこの頃ジョンストンには大和主砲46砲弾大和副砲の15.5砲弾、あるいは羽黒20㎝砲弾がふりそそいでいた。6インチ(約16砲弾後部煙突に1発、艦橋に2発が命中し続いて戦艦金剛からの14インチ36砲弾3発も被弾した。ジョンストン先任将校は「まるで子犬トラックにひきつぶされるようであった」と回想している。日本側の砲弾徹甲弾だったので駆逐艦の薄い装甲命中して突き抜けてしまい爆発しなかったが、ジョンストンも「損傷なし」というわけにはいかなかった。14インチ砲弾左舷機関歯車タービン後部ボイラーそれぞれ命中し左舷推進軸停止した。この損傷により速力17ノット低下した。さらに操舵機と5インチ砲3基への動力失われジャイロコンパスは役に立たなくなった低く垂れこめたスコール現れたため、ジョンストン逃げ込んで数分応急修理復旧作業行った艦橋内は死傷者横たわり血の海となっていた。エヴァンズ中佐破片によって上半身傷だらけになり、さらに左手の指2本を失ったが、傷口を自らハンカチで覆うと駆け付けた救護班対し自身構わず他の負傷者看るように命じ指揮継続した7時50分スプレイグ少将駆逐艦に対して魚雷攻撃命じたジョンストン機関損傷受けていたが、他の駆逐艦砲撃援護しつづけた煙幕から現れた時、危うくヒーアマン (USS Heermann, DD-532)と衝突しそうになった。8時20分、煙幕から抜け出たジョンストン左舷方向わずか7,000ヤード(6,400m)の距離に金剛発見し、それに向かって45発の5インチ砲弾浴びせかけ上部構造物に複数命中記録した金剛からの主砲による反撃全て外れたつづいてジョンストンは敵巡洋艦砲撃されている護衛空母ガンビア・ベイ (USS Gambier Bay, CVE-73)を確認し砲撃ガンビア・ベイから遠ざけるべく巡洋艦攻撃をかけ、重巡洋艦に対して4発の命中記録した米空母群に接近した第五戦隊羽黒鳥海)の周辺には着色され巨大な水柱が立ち、この頃被弾し鳥海落伍した。 さらに、ジョンストン日本水雷戦隊護衛空母群へ急速に接近しつつあるのを視認し、阻止試みる。この水雷戦隊は、第十戦隊司令官木村進少将指揮する軽巡洋艦矢矧第十戦隊旗艦)と第17駆逐隊司令井保大佐指揮下の陽炎型駆逐艦4隻(浦風磯風雪風野分であった。0848、木村司令官は「空母二隻 我ヨリノ方位二一〇度二〇,〇〇〇我空母二隻ニ突撃ス」と報告し、各艦に魚雷戦の準備命じた第十戦隊魚雷発射する前、ジョンストン先頭軽巡洋艦矢矧交戦し12発の命中弾を観測して進路妨害すると、後続する陽炎型駆逐艦浦風(第17駆逐隊司令駆逐艦)と戦って命中弾を観測した矢矧ジョンストンに対してまず8㎝高角砲発射し続いてジョンストン行動魚雷発射とみて右舷側に回避行動をとった。第十戦隊右側への回避行動第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将)の進撃妨げ結果となり、二水戦は空母群への射点につくことができなくなった前述のようにジョンストンは既に魚雷撃ち尽くしていたが、第十戦隊矢矧)は「ジョンストン魚雷発射した」と誤認したのである旗艦回避行動をとったのをみて、後続の第17駆逐隊矢矧同様に右側回避行動をとった。態勢立て直した矢矧は0905に魚雷7本を発射つづいて駆逐艦砲撃をくわえ0900に爆発し0915に沈没した記録している。この駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413)であった交戦中、矢矧右舷士官室にジョンストン主砲1発が命中した。第17駆逐隊は0915から0923までに距離1万メートル魚雷20本(浦風4、磯風8、雪風4、野分推定4)を発射したが、命中しないか、艦砲射撃艦載機銃撃爆破された。第十戦隊は「エンタープライズ空母撃沈1、沈没確実1、駆逐艦撃沈3」を報告したジョンストン被弾によって2番砲が破壊され3番直下にも命中弾を受けた動力失われているため揚弾機使えず、1発あたり54ポンド(24.5kg)ある砲弾乗員弾薬庫から人力担ぎ上げた艦橋は40mm機関砲即応弾庫への被弾によってもたらされ火災と爆発によって惨状さらしていた。ジョンストン艦尾移り指揮継続していたエヴァンズ中佐は、手動で舵を動かす乗員たちへ開け放ったハッチ越し命令叫んでいた。主砲塔一つでは、一人砲手が「もっと砲弾を!もっと砲弾を!」と叫んでいた。いまだジョンストンは、生き残っている5隻の護衛空母日本巡洋艦駆逐艦到達するのを防ぐため戦っていた。 奮闘するジョンストンにも9時30分までには最期の時が訪れようとしていた。ヒーアマンは護衛空母守りながら南へ撤退し護衛空母ガンビア・ベイ駆逐艦ホーエルは既に海面上になく、サミュエル・B・ロバーツ矢矧にとどめをさされて沈没した米空母群に魚雷発射したあとの第十戦隊は、再びジョンストン狙い定めた矢矧15主砲撃ちこんだ。0930時点ジョンストン沈没しかかっており、乗組員一部脱出しつつあった。矢矧ジョンストン砲撃したあと、麾下駆逐艦ジョンストン砲撃処分するよう命じた。第17駆逐隊浦風磯風雪風野分)はジョンストン包囲すると、集中砲火浴びせた同時刻、栗田部隊から落伍していた重巡洋艦鈴谷も距離18km先に日本水雷戦隊第十戦隊)と米軍防空巡洋艦らしき1隻との交戦目撃、12.4kmに接近して20㎝砲40発を発射した鈴谷側は、至近弾により目標の傾斜増大するのを確認した。 9時45分エヴァンズ艦長総員退艦を令し10時10分にジョンストン転覆した一隻日本駆逐艦接近し炎上するジョンストンの艦体に止め砲撃加えたジョンストン生存者は、その駆逐艦爆雷機銃で彼らを殺傷するではないかと心配し実際に艦橋にいる艦長対空砲の方を向いて何かを指示するのが見えた。だが生存者予想反し艦長漂流する生存者向き直る直立不動姿勢で彼らに敬礼送ったまた、その駆逐艦通り過ぎる際に1人乗員が何かを投げていった。誰かが手榴弾だと叫んだが、生存者一人であったクリント・カーター(5番班長)が漂うその物体に近寄ってみたところアーカンソー州製造されトマト缶詰であり、3年前日米開戦直前日本輸出されたものであった日本側の証言にも、駆逐艦雪風寺内正道艦長中佐)が咄嗟にジョンストン対し発砲した機銃手照準調整のため2射したのみ命中せず)に向け「酷いことをするな」と怒鳴り攻撃中止命じたことが伝えられている。雪風艦橋にいた柴田正雪風砲術長)は「艦橋にいた我々は敵勇者最後弔って挙手の礼捧げた」と回想している。雪風ジョンストンの兵が救命ボート下しているすぐ傍をすれ違い田口康生(雪風航海長)は「お互いの顔まで見えた」と語った。 そして多くジョンストン生存者生涯忘れられない光景を目にした。日本駆逐艦艦橋で、ひとりの士官直前まで仇敵だったジョンストン波間沈んでいくのをじっと見ていた。その誇り高き船が姿を消した時、この日本士官は手を帽子のひさしにあてて直立姿勢をとった. . .敬礼したのだ。"And many of Johnston’s survivors then witnessed something they would never forget. There on the bridge-wing of the Japanese destroyer, an officer stood watching as Johnston, his mortal enemy of just moments before, slipped beneath the waves. As the noble ship went down, this Japanese officer lifted a hand to the visor of his cap and stood motionless for a moment . . . salutin." — トマス・J・カトラー『The Battle of Leyte Gulf 23-26 October 1944』 第17駆逐隊をふくめ日本艦隊去っていったものの、2隻の救命ボートと2隻の筏に分乗しジョンストン生存者長時間過酷な漂流強いられることになった友軍アヴェンジャー雷撃機が彼らを発見したものの、通報した位置間違っていたため救助隊が全く異なる場所を捜索していたからであった漂流中、ジョンストン生存者襲撃衰弱体温より低い夜間の海水温による低体温症といった脅威に耐えねばならず、途中で力尽きる者もいた。自軍生存者探す日本駆逐艦接近してきたことが一度あったが、日本軍捕虜収容所における厳し扱いの噂を聞いていたため息ひそめてやり過ごした生き残った者はジョンストン沈没から3日後の早朝歩兵揚陸艇LCI)に発見され救助のうえで病院船収容された。 ジョンストンの全乗員327名のうち生還したものは141名だった。186名が戦死したそのうち50名は戦闘によって命を落とし45名が負傷により漂流中に死亡艦長エヴァンズ中佐を含む残り92名は退艦したもの行方不明となった

※この「サマール島沖海戦」の解説は、「ジョンストン (DD-557)」の解説の一部です。
「サマール島沖海戦」を含む「ジョンストン (DD-557)」の記事については、「ジョンストン (DD-557)」の概要を参照ください。

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