最大速力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:51 UTC 版)
建造当時の米戦艦の最大速力は20 - 21ノットであった。日本海軍は改装によって、長門型/伊勢型/扶桑型戦艦を25ノット、金剛型を30ノットに向上させていたため、部隊単位で優速であった。大和型の27ノットは、米新型戦艦が25ノットと見積もられていたために、これを上回る速力として承認されたものである。 だが、大和型戦艦が艦型の拡大を抑制するため、最大速力を約27ノットとしたことに対し「低速のため、機動部隊護衛などに使用できなくなり、失敗であった」という根強い意見がある。この根拠には、下記が挙げられている。 軍令部第一課(作戦課)が新戦艦(重高戦)の速力として、空母機動部隊との共同作戦を前提とした35ノット(航続距離18ノット20,000浬)を想定していたこと。 初期の計画書に30 - 31ノットの速力が要求されている。 欧州の30ノット級新型戦艦や、大戦中活躍した33ノットの米戦艦(測定条件によっては最高35ノットもの高速を発揮した)アイオワ級との比較。 アメリカと比較して劣っていた日本の機関技術により、省スペースで大馬力機関が製作できなかった点に関係しては、「技術的には旧弊以下と評されるべきもの」とも酷評されている。 一方、佐藤大輔のように速力を27ノットに抑えたことによる悪影響、あるいは他国海軍に比較しての欠点は結果としてほとんどなかったという反論がある。 対戦国の同世代戦艦である英国のキング・ジョージ5世級戦艦は約28ノット、米国のノースカロライナ級戦艦は約27ノットであり、ほぼ同速であった。ノースカロライナ級戦艦は戦争中に対空火器の増設を行い、戦争後半には26.8ノットと大和型より僅かながら低速になった。サウスダコタ級戦艦は、公式には27.5ノットだが、戦争中に対空兵装などの装備増設で排水量が増加して戦争後半には27ノットまで低下し、姉妹艦のアラバマは42,740トンのときに133,070馬力で27.08ノット、44,840トンのときに135,420馬力で26.7ノットを発揮したという。大量の装甲板、砲塔、弾薬を搭載し、喫水の深い戦艦に高速力を要求するのは酷であり、それを達成した金剛型やアイオワ級はなんらかの設計上の妥協を強いられており従来からの巡洋戦艦の延長上の戦艦ともいえる。事実、アメリカ海軍のモンタナ級戦艦では6万トンの排水量に達し、速力も28ノットの計画に留まっている。イギリス軍最期の戦艦であるヴァンガード (戦艦)も30ノットの速力を発揮したが搭載できたのは38センチ砲であり、ライオン級戦艦は40センチ砲を搭載し28.5ノットであったが薄い水平装甲で済ます計画であった。それを考えると大和型の46センチ砲で、27ノットという設定は極めて妥当な判断と言うのが反論側の意見である[要出典]。 速力一辺倒の考え方に対する疑問は1920年代の米海軍にもあり、元海将の高須廣一は「基地から遠く離れた西太平洋で戦う場合に重要なのは母港に帰り着く能力であり、速力を数ノット高く建造したとしても、そのような優位は決戦の最初の数分間で失われるかも知れない」と低速重防御思想を維持してきたが、仏伊で建造されつつある新世代の戦艦が30ノット程度を狙っていることを察知し、1935年の将官会議で自国の新戦艦に「高速戦艦」案として出力強化に重量を割くことを妥協し、27ノットの速力を要求した。 その後建造されたアイオワ級戦艦はパナマ運河通行のために幅をしぼった艦型となっており、33ノットの速力発揮が可能な反面、横方向の揺動に対する安定性が低かった。現実に英国戦艦ヴァンガードと同行した際に、航洋性と安定性の低さが指摘されるなど、同級の運用上の問題点として挙げられている。こうした点において、武蔵は護衛する駆逐艦のスクリューが露出するような大型台風の中を航行しても、安定した航行を行ったと言われている。大和が1941年10月20日の公試で27.4ノットを記録したのも、駆逐艦が退避するほどの悪天候下だった。ミッドウェー海戦では、長門型戦艦「陸奥」でさえ揺れるような嵐の中を、大和は安定して航行していた。このように、大和型戦艦は米英仏独伊の新型戦艦よりも航洋性に優れた船体設計をしており、排水量においても大型のため、安定性に優れていた。従って海独仏伊の30ノット級同世代戦艦に対しても実質的な劣速はわずかと言える。 太平洋戦争時の砲術学校の教範には「僅少な機動力の優位を最大限に活用して、極力敵との砲戦距離を詰めるようにする」と明記されており、日本戦艦部隊が米旧式戦艦部隊に対して持つ4 - 5ノット程度(25%程度)の速力差は、さほど優位をもたらすものではないと認識されていた[要出典]。日本海軍では、速力の優越で恒常的に戦闘を優位に進められる指針として、敵より50%以上の優越が必要だと判断していた。20 - 21ノットの米戦艦に対する、朝潮型・陽炎型・夕雲型駆逐艦の35ノットや、米新型戦艦が27ノット級であることが判明した後で、40ノットの速力を要求された島風型駆逐艦がその一例である。なお金剛型高速戦艦(や大和型戦艦の初期計画時、長門型戦艦の高速化計画)は、米旧式戦艦の20ノットに対する50%増の30ノットを近代化改装によって実現しており、戦艦であっても「できればその程度の速力差を得たい」と認識されていたことが伺える。 現実には、少数の戦艦同士の戦闘においても、彼我の対戦姿勢によっては、丁字戦法の効果同様に発砲できない砲塔が発生することもあるため、射界と速力の有利は「できれば得たい」ものであった。しかし、戦例から見れば数ノット程度の優速は戦闘結果に影響しないと考えられる。 実際に栗田艦隊ではレイテ沖海戦前に、今後の作戦で予想される夜戦に対し「大和型戦艦の速力27ノットは夜戦でも問題ないので、武蔵を旗艦にするよう変更してほしい」という要求を行っている。このレイテ沖海戦では、本来なら30ノットを発揮できる金剛型戦艦「榛名」がマリアナ沖海戦による損傷が尾をひいて26ノットしか出せず、参加した日本海軍戦艦中で大和・武蔵より高速を出せた戦艦は 金剛一隻だった。 なお、低速のため空母機動部隊と随伴できないという批判だが、大和竣工時に日本機動部隊の主力であった赤城は31.2ノット(航空本部資料では30.2ノット)、同航する加賀は28.3ノットであり、正式空母に随伴する軽空母、改装空母や補給艦などはさらに劣速であった。機動部隊といえども、最大船速を出すのは艦載機の発艦時や爆撃や雷撃の回避時に限られており、大半の行動時には最低速艦に速度を合わせる必要があることから、大和型による護衛は物理的には可能であった。 そうしなかったのは虎の子の空母を中心とする機動艦隊を露払いとし、戦艦部隊を温存しておいて艦隊決戦で最終的に勝利するという、日本海軍の古い用兵思想が根底にあったからである。一方、米国においては、大和型と同等速力だったノースカロライナ級戦艦、もしくは大和型より低速だったサウスダコタ級戦艦が、米機動部隊に随伴して護衛任務を果たしている。 「第二次ソロモン海戦南太平洋海戦」も参照 その後、マリアナ沖海戦の頃になって、初めて大和、武蔵が前衛部隊に配置され、空母3隻を護衛するようになったが、そのころには機動部隊は大半の正式空母、航空機と優秀な搭乗員を喪失しており、航空機や対空兵器の物量と技術力の差も明らかとなって効果を上げることができなくなっていた。。
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