艦型
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「ヤマト (宇宙戦艦ヤマト)」の記事における「艦型」の解説
大和型戦艦をベースにしたため、水上艦艇をそのまま宇宙に浮かべたような外観を有している。 艦体上部中央には同艦の塔型艦橋を改造した、上甲板から司令塔がそびえ、頂上部には艦長専用居室、その直下には艦の全機能を艦長以下各班の責任者が集中管理するための第一艦橋、さらに下に航路策定並びに航海管制に機能特化した第二艦橋が収まる。艦長席の椅子は、艦長室から第一艦橋を通り第二艦橋まで着席したまま移動出来るように設置された貫通レールに乗っている。司令塔真下の位置に艦底から突き出ている第三艦橋は、メインブリッジである第一艦橋のバックアップのためのサブブリッジである。内部設備は、重力下環境で船体が転覆したような状況を想定した上下対称構造になっている。 主砲を始めとする各種兵装は、艦体上部に集中している。大気圏内航行時の安定保持のため、左右両舷に収納式の巨大なデルタ翼型主翼(安定翼・可変翼)を装備している。 また、着水・潜水能力を有している。
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艦型
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基本計画番号F50(陽炎型はF49)。艦型は陽炎型駆逐艦とほとんど同じだが、若干の変更がされた。艦の殆どが太平洋戦争中の竣工であり、順次戦訓による改正が行われている。なお約半数の艦で写真が見つかっておらず、改正の状況が推定となる艦もある。
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艦型
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艦型
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基本的に朝潮型とほぼ同じ艦型になる。友鶴事件、第四艦隊事件の教訓を完全に盛り込んだ設計となった。
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艦型
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基本計画番号F30。前型である磯風型の設計を大幅に改良した。機関に初めてオールギアードタービンを採用した艦(後述)で、計画は慎重に進められた。船体形状は水槽試験で数種類を比較検討して決定、船体の重量軽減にも一層注意を払い、浮いた分を機関重量に回した。 4基の缶(ボイラー)を全て重油燃焼とし、日本海軍駆逐艦として初めてオールギアードタービンを搭載したことによって37.5ノットの高速力を実現した。なおタービン形式は天龍型と同じブラウン・カーチス式である。竣工当初はタービン翼の折損事故が頻発したが、造機技術官の努力により逐次解決されていき、本型以降の駆逐艦の主機関は重油専焼缶とギアードタービンの組合せとなった。 主砲は磯風型より1基減の3基だが、装備位置を高くして荒天時の砲戦能力向上を図った。雷装は前型と同一の、45cm連装3基6門を装備した。探照燈は艦橋上の1基に加え、後部マスト直後にも1基装備し、夜戦能力の強化も図っている。 主砲を艦橋の前後に1門ずつ装備するなど、同時期計画の天龍型軽巡洋艦と艦型が類似し、河合定二造船官の設計と思われる。全体的には雷撃力と速力を重視し、その分砲力が犠牲となった。
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艦型
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艦型
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煙突1本の外輪船で、帆やマストは無い。主機は斜置2気筒機械で、気筒の直径は53cm、行程は485mm。ボイラーは汽車缶1基を装備し、蒸気圧力は最大5kg/cm2の記録があるという。 要目表の値は『横須賀海軍船廠史』、機関は『帝国海軍機関史』等によった。その他の文献による要目は以下の通り。 『記録材料・海軍省報告書』:長さ131尺7(39.91m)、幅18尺44(5.59m)、深さ6尺9寸48(2.11m)、吃水3尺8(1.15m)、排水量170英トン、トン数64トン、75名馬力 『帝国海軍機関史』:長さ134 ft 7 in (41.02 m)、幅18 ft 4 in (5.59 m)、排水量170英トン(『廃艦機関沿革』による) 『近世帝国海軍史要』:排水量170英トン 『日本近世造船史 明治時代』:トン数170トン、長さ134 ft (40.84 m)、幅18 ft (5.49 m)、75馬力。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 00:27 UTC 版)
本艦は、1航海で1基の主砲塔、砲身3本、砲塔用装甲を輸送できるよう設計された。「一度に主砲砲身6本・主砲塔2基を輸送できる」ともされる。51センチ砲搭載を予定した超大和型戦艦用の砲塔搭載も設計時に想定された。これはよく言われる、51センチ連装砲塔ではなく、3連装砲塔(3,790トン)が採用された場合にも対応できた。[要出典] 上甲板には計3カ所のハッチがある。最前部のNo.1ハッチは長さ19.2m、幅11.0m、主砲身の運搬に支障が出ないように砲身の長さ20.7mとほぼ同じ長さとなっている。No.2ハッチは長さ13.6m、幅12.5m、No.3ハッチは長さ15.7m、幅14.8mの楕円形で3番目の船艙が最大だった。樫砲運用長は、最大のハッチ(砲塔旋回部用)は直径16mの円形と回想している。 艦幅に対してハッチ部分が非常に広いので、上甲板での船体強度確保のために、船体の断面は上部が外側に捲れた様な特殊な形状をしている。また、砲塔の輸送中に他船との接触や座礁で船艙に浸水すると、国防計画に重大な影響がでるので、船艙の部分は船底の二重底がそのまま舷側の上甲板まで続く、軍艦と同様な二重構造となっていた。重量物を積載する関係で極端な低重心構造で設計されており、波浪の際には激しい横揺れが発生した。「耐え難い乗り心地」という報告が残っており、後ほど上甲板に鋼板を積み重ねて載せて重心を上げる処置が実施された。 砲塔や砲身を輸送する場合の揚げ降ろしは、工廠や造船所にあるクレーンを使うので、本艦にデリックの必要はないが、通常の貨物の輸送にも使えるように装備された。その場合はハッチが大きすぎて不便であり、船体の補強を兼ねて鋼板を鋲接、開口部分を小さくして使用し、鋼板をはずせば再度砲塔の輸送ができるようにした。 機関は技術吸収の意味もあり外国から輸入、スイスのブラウン・ボベリ社製のタービンとアメリカのラモント社製の缶(ボイラー)を搭載している。缶は蒸気温度450度、圧力50kg/平方cmと、島風型駆逐艦島風の400度、40kg/平方cmを上回る高温・高圧缶だった。更に、輸入した缶が不調だった場合に備え、日本製のホ号艦本式缶も2基搭載、これだけで全力発揮できるようにし、2種類の缶の比較実験も兼ねた。また輸入が間に合わなくなった場合に備え、タービンは樅型駆逐艦樅のもの、缶は戦艦伊勢から陸揚げしたものを臨時に搭載する第2案も準備されていた。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/21 16:47 UTC 版)
基本的な艦型は「速吸」に類似している。 船体規模は大体1TL型戦時標準船と同じ、機関出力は約2倍として速力20ノットを計画、速力が違うため線図は全く違うものとなった。 船体形状は「速吸」と同じで船首楼甲板と船尾楼甲板を有し、船橋楼甲板は持たず、船首楼甲板の後端に軍艦式艦橋と3脚式前部マストを設けた。 その後方から、上甲板上高さ約7mの位置に船尾楼甲板まで続く射出甲板を設け航空機8機を搭載、その前寄りの位置にカタパルト2基を設置し航空機の急速発進に対応した。 射出甲板の下部には船首楼甲板と同じ高さに最上甲板を設けてハンガー(格納庫)とし、折りたたんだ航空機(6機)を格納、エレベーターは設置しない。 後部デリックは「速吸」では右舷、左舷各1本ずつあったが、本艦型では射出甲板後端部の船尾楼甲板、中心線上に3脚式後部マスト1本とそれを支柱とした長大なデリック1本を設置、曳航補給用と航空機揚収用を兼用した。 ハンガーの航空機を射出甲板に揚げ降ろす場合もこのデリックを使用する予定だった。 機関部は舷側に重油タンクを設置し、機関各室は船体中心線上に一列に割り当てられた。 そのため缶室が従来のタンカーより前方になり、煙突は上甲板で後方へ約30m這い右舷側に立ち上がる形となった。 船体中央部は従来のタンカー同様に重油タンクだったが、最前部中央のものは空母と同じ全溶接構造の軽質油(ガソリン)タンクとした。 曳航給油用設備として前述のデリックの他、最上甲板レベルで左舷側に全通の蛇管通路を設置、また補給糧食及生糧品庫、補給弾薬庫などは船首楼の下に置かれた。 12.7cm連装高角砲は艦の前後に各1基設置、 25mm機銃は3連装2基、連装1基を計画、 3連装機銃は艦橋後方横の射出甲板レベルに左右1基ずつ装備した。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/25 09:50 UTC 版)
艦型は船首楼型で船首楼後端に艦橋を設け、その後方に前部マストを設置した。前部マスト後部の甲板上に防舷物として使用する浮船を2個搭載し、その揚げ降ろしのために前部マストも頑丈な3脚マストとして20トンの大型クレーンが装備された。また後部に門型のデリック・ポストを設置し、爆弾などの搭載のための5トンデリック1基が装備された。 兵装は艦の前後に12cm単装高角砲を1基ずつ、25mm連装機銃を艦の中央部、上構の左右に1基ずつ装備した。機銃は増備されたのではないかという意見もある。 実際の「洲埼」の搭載量は以下の通りだった。 軽質油 1,080トン 航空機用潤滑油 173トン 弾薬火工品 爆弾の時205トン、魚雷の時192トン爆弾の時は800kg57個、250kg229個、60kg363個 魚雷の時は九一式魚雷27本、爆弾が800kg45個、250kg183個、60kg243個 生糧品 8トン 真水 53トン 航空材料 5トン
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/14 22:08 UTC 版)
船体は3島型とし、船艙には肉、魚、野菜など合計235立方メートルの冷凍庫を設置、3,000人10日分の生糧品が冷凍庫で約2カ月間保存できた。 生糧品の揚収のために前部マストにデリックを1トン1本、3トン1本の計2本を装備した。 後部には小さい雑品倉庫があり、 後部マストにもデリックを2本装備した。 兵装は艦首に砲台を設け 8cm単装高角砲1門を装備、その他7.7mm機銃2挺も装備した。 全体として民間のトロール船や冷凍船と大きな違いはないが、海軍の補給船として兵器、補給用真水を搭載し、民間船より速力があり、乗員が多いなどの違いが出た。 中型冷凍船(後の「杵崎」)との比較の結果、艦型が小型すぎるとして同型艦は建造されなかった。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:47 UTC 版)
「アンドロメダ (宇宙戦艦ヤマト)」の記事における「艦型」の解説
旧デザインからほぼ変わっていないが、細部のバランスを調整して旧デザインのパース絵の雰囲気を立体で保てるようにされている。後述の通り、アンドロメダは極端なパースで描かれるため、三面図とパース絵の間の接合性が薄い。『2202』では、コンセプト段階で三面図とパース絵のどちらを目指すのかと玉盛が本作の監督である羽原信義に確認したところ、パース絵の再現が選択された。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/24 15:39 UTC 版)
計画番号H12。基本的には「白鷹」の設計を改良、近代化した艦型になる。 船首楼はシアがほとんど無く、艦尾の上甲板が後方に大きく張り出しており、敷設艦艇に特徴的な船体を持つ。一度に敷設できる防潜網をなるべく長くするために、船首楼は艦橋の直前で終わっていた。なお艦首に大型ローラーを備えるため、菊花紋章は左右舷に1個ずつ(計2個)が取り付けられていた。 防潜網は「白鷹」と同じ24組(6カイリ分)を搭載する。防潜網の代わりに九三式1号機雷100個の搭載も可能。敵前での夜間敷設を考慮して、灯火管制中でも敷設準備が出来るよう設備を整えた。 主機はタービン(白鷹はレシプロ)を搭載し、速力(白鷹16ノットから本型20ノット)や航続力(同2,000カイリ/10ノットから3,000カイリ/14ノット)が改善された。当時の海軍の方針により、本型の燃料は重油と石炭の併用となった。 砲熕兵装についてはマル3計画で建造された2隻には砲ではなく40mm連装機銃2基が装備され、対空と対潜の両方に使用できるよう考えられた。実際には潜水艦に対する貫徹能力が不十分であり、「若鷹」は8cm単装高角砲2基に改められた。 「白鷹」では復元性能改善工事後も、艦の大きさに対し重心位置が非常に高かった。この艦種では防潜網を網庫から上甲板に上げた時(敷設時)に重心位置が更に高くなる。本型ではこの状態も考慮して網庫を艦内の低くない位置に配置し、防潜網が網庫から上甲板に移動した場合でも重心位置が大きく変化しないように配慮した。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/24 15:37 UTC 版)
艦型は平島型敷設艇(測天型敷設艇)をタイプシップとし構造、艤装とも簡易化とされた。すなわち船体は線図に直線を多用し、キャンバー無し、シアーも艦首に直線的に付した以外は無かった。上構も出来るだけ簡易化され、煙突も六角形となっている。 主機はマン式ディーゼルの在庫品1隻分を当て(「粟島」に搭載)、残りは当時の丙型海防艦用に量産されていた艦本式ディーゼルを搭載した(「神島」他1隻)。このため艦本式ディーゼル搭載艦の速力は(平島型の20ノットから)16.5ノットに落ちている(「粟島」は19.5ノット)。 平島型が船団護衛のために航続力(計画は14ノットで2,000カイリ)を伸ばす必要が生じたため、本型では計画から航続力を14ノットで3,000カイリとした。 兵装は、従来の8cm高角砲に代わり仮称五式(ボーフォース)40mm単装機関砲が2基装備された。機銃は当時の平島型に増備された数を基準に搭載した。『終戦時の日本海軍艦艇』によると25mm連装機銃2基、同単装3挺の計画だったが、連装1基と単装4挺が追加されたという。電探は13号、22号各1基を装備。ソナーは九二式水中聴音機1基、三式二型探信儀1組を装備するなど、最新型を一通り装備した。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/16 02:17 UTC 版)
船型は日本のタンカーには珍しい中央機関のトランクド・デッキ型である。日本での同様の形式のタンカーとしては「瑞洋丸」(日東鉱業汽船、7,386トン)と「第三小倉丸」(小倉石油、7,350トン)の輸入船、太平洋戦争中に平時標準船A型・B型・C型・K型や戦前建造船等各種貨物船を改造した応急油槽船があるほか、「野間」と全く同じ War 型戦標タンカーも1937年(昭和12年)に輸入された「御津丸」(大平汽船、5,682総トン、旧イギリス艦War Gaekwar)、1938年(昭和13年)に輸入された「北喜丸」(北川産業、5,599総トン、旧イギリス艦「ウォー・ビーガム」War Begum)、1940年(昭和15年)に輸入された「大神丸」(大岩汽船部、5,574総トン、旧イギリス艦「ウォー・カーン」War Khan)の中古船3隻が輸入され、太平洋戦争中にも「鳳南丸」(飯野海運運航、5,542総トン、旧イギリス艦「ウォー・サーダー」War Sirdar )の1隻が鹵獲されている。「野間」は、対潜偽装のために艦橋と煙突の間にマストを立てていた。 上述の通り船体中央に機関室があり、石炭庫はその上方左右1カ所ずつ、また前方に1カ所の計3カ所、石炭庫の前に燃料タンクを設けた。その前後には前部に3カ所、後部に2カ所の重油タンクがあり、タンクには7,290トン搭載の計画だった。また艦首、艦尾部には船艙が各1個あり、倉庫もあった。 搭載量は、計画で載貨重量8,450トン、重油は満載8,080トン(燃料タンクを含む、以下同様)、石炭は石炭庫848トン、予備石炭庫198トン、庫外498トンの計1,346トンだった(実際に載せられるのは貨物の合計が載貨重量トン以下、以下同様)。実際の満載量として竣工翌年の1920年(大正9年)の文書に重油8,080トン、石炭庫1,290トンの記載がある。また1924年(大正13年)調べでは重油満載7,720トン、石炭庫1,290トン、庫外240トンの計1,530トンとなっていた。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/23 03:01 UTC 版)
「夏島 (二等敷設艇)」の記事における「艦型」の解説
本艇は各軍港、要港を警備するための機雷敷設艇で日本海軍で初めての大型敷設艇である。それまでは70トンの木造船に始まり300トンの中型艇を使用していた。本艇に次いで測天型敷設特務艇が建造された。 福井静夫によると本艇は測天型敷設特務艇と同型とされる。ただし写真を見る限り艦首形状、前部マストの高さ、短艇搭載位置などに測天型との違いが見られる。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/25 14:14 UTC 版)
艦型は全体的に熱海型を縮小、簡易化したようなものとなった。 船体は底の平たい1層甲板で、また艦尾はトランサム型であった。上部構造物は操舵室より前には船首楼甲板を設けて士官室とし、士官室直後からは兵員室、艇長室は操舵室後方に、厠と烹炊所は後部構造物内に設けられた。敷物は中央部上甲板のみを木甲板とし、それ以外は滑り止めをつけた。 機関は航続力の要望を満たすためディーゼルエンジンとし、新潟M6Hディーゼル270馬力を2基搭載することで15.5ノットを得た。2基のスクリューは船底に設けたセレス内に収められ、ベースラインより下に出ないようにし、また舵は2枚でスクリュー直後に置かれていた。 兵装は7.7mm機銃3挺で、前甲板、操舵室天蓋、後部構造物天蓋にそれぞれ1挺ずつ、また30cm探照燈と1m測距儀が操舵室天蓋に置かれた。 運用開始後の1931年に落下防止用に手摺を設置、機銃に盾を装備などが要請され、工事が実施された。操舵室や居住区への防弾装備も要請があったが、重量などの問題で実施されなかった。 なお、数年後に本船をタイプシップとして満州国の砲艇2隻が建造された。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 09:04 UTC 版)
計画番号H11B。前型の測天型敷設艇(計画番号H11)とほぼ同一の艦型だが、その実績を取り入れて、細部にわたって色々な改善が行われた。 測天型で搭載した毘式40mm単装機銃は、潜水艦の内殻に有効な被害を与えることが出来ないことが実験で判り、代わりに8cm高角砲1基を搭載した。 対潜装備として水中聴音機と水中探信儀を竣工時から装備した(測天型の計画では搭載を考慮したのみ)。補音機近くの外板表面をなるべく平滑にするなどの対策が行われたが、それでも航走中はほとんど使えずに停止聴音を前提としていた。 船体は測天型より深さを20mm増している。「一般計画要領書」によると測天型の搭載機雷は九三式機雷のみだったが、平島型では九三式機雷の他に五号機雷や九二式機雷も搭載できた。また掃海装備の搭載も計画された。 爆雷投射機は計画では九四式投射機1基だが、竣工時は爆雷投射機2基、または三式投射機4基とする文献もある。 大戦中の船団護衛では航続力の不足が指摘され、機械室後部のバラストタンクを重油タンクに改造して重油約17トンを増載、14ノットで4,000海里まで航続力を伸ばした。1944年(昭和19年)以降は機銃などの増備がなされたらしく、「済州」の例では25mm連装機銃4基(13mm機銃は撤去)、同単装7基、計15艇を最終的に装備した。レーダーは22号電探1基を装備した。「怒和島」では22号電探に代わり13号電探を装備したという。「怒和島」は九四式爆雷投射機も1基から2基に増備しているという。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 08:37 UTC 版)
計画番号H11。前型の夏島型敷設艇(計画番号H5、H5b)の改良型になる。軍令部の要求も夏島型に準じたものだったが、公試排水量を本型から機雷搭載状態に変更したため、計画で750トン(夏島型は510トン)となった。 船体は凌波性向上のため船首楼を艦橋後端まで延長、艦首に向かってシアーを付けた(夏島型はシアー無し)。舵は低速での保針性のために半釣合舵を装備した。 主機は当初の計画ではタービンだったが、「猿島」で好評だったディーゼル推進とした。搭載のマン式3号10型ディーゼルエンジンは元が商船用で比較的低速で重量も大きかったが、性能や信頼性が良く、出入港では内火艇のように自由に操艦できたという。 主砲に代わり、対潜水艦のために発射速度の速い40mm機銃を搭載したが、次型の平島型では8cm高角砲に戻されている。機銃は13mm連装機銃1基も装備した。 機雷は九三式機雷120個の搭載できた。なお、次型の平島型では九三式機雷、五号機雷、九二式機雷(管制機雷)のどれか1種類搭載と計画されている。機雷を搭載しない場合は、防潜網か捕獲網の搭載も出来た。機雷庫は機械室の前後に置かれ、艦の前後方向の重心移動も考慮されている。その他爆雷も36個搭載出来、いわば対潜哨戒兼敷設艇であった。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/28 00:02 UTC 版)
基本的に元となった2D型戦時標準船(船尾楼型小型貨物船)と変わらないが、機雷敷設のための改造がされた。先に改造が行われた「永城丸」と大きな変更はない。 機雷搭載は500個の要求であったが船艙を改造した機雷庫に232個、上甲板に設置の敷設軌道は艙口付近の軌道を片舷2本にして148個を置き、計380個を搭載可能とした。敷設軌道は片舷1条ずつが船尾楼両舷を貫いて艦尾に達して海上へ敷設する形とし、敷設口部分には大きな張り出しを設けた。船尾楼内の軌道部分は浸水時の浮力保持に重要であったので、軌道の入口(船尾楼前端)と敷設口には防水扉を設けた。 船艙は3つ(「永城丸」の船艙は2つ)に分けて浸水対策とし、更に船艙内は中甲板を新設して上下を仕切り、下部機雷庫と上部機雷庫を設けた。中甲板の後方には兵員室、士官寝室、前部水測室などを設けた。艙口(ハッチ)には元々木製の蓋があったが防水上の観点から鋼板でふさぎ、小さな機雷用の艙口を新たに設けた。機雷の搭載や機雷庫からの取り出しには元からあったデリックを使用する予定だったが、機雷の取り扱いが難しく結局専用のスキッドビームとホイストを設置した。 主機は従来の2D型がレシプロ機関搭載(2DRS型)の所、タービン1基を搭載(2DT型)、本艦は2D型のタービン搭載1番船だった。ボイラーは石炭専焼缶を搭載、戦後の復員輸送の際には重油焚きに変更した。 兵装は艦尾に砲台を設け、12cm高角砲1門を設置した。25mm機銃は、艦首の両舷に3連装をそれぞれ1基ずつ、艦橋上両舷に連装1基ずつ、艦尾に単装4挺を設置した。レーダーは13号電探1基を装備、ソナーは最新式の仮称五式一号水中聴音機を1組装備、同聴音機を装備した唯一の艦となった。また探照燈1基も煙突後方に備えていた。 その他に羅針艦橋前面と上面には14mmの防弾板を装着、羅針艦橋天蓋にはコンクリート製の屏風を設けて乗員の機銃掃射避けとした。 当時は貨物船も絶対的に不足しており、機雷を搭載しない場合は貨物船として使用できるように従来のデリックは殆ど残し、カーゴ用ハッチも3カ所設けていた。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/12 09:16 UTC 版)
「ドゥダール・ド・ラグレ級砲艦」の記事における「艦型」の解説
船首楼のない平甲板型で艦首はスプーンバウを採用。主砲は前部主甲板上に、37mm機砲は上構一階の屋上部分に、機銃は煙突挟んだ前後に装備されていた。主缶はフーシェ式石炭専焼缶2基、三段膨脹式往復動機関2基2軸推進で、速力はドゥダール・ド・ラグレが13kt、バルニーは14ktであった。 武装はM1885 37mm5連装回転式機砲(英語版)が6門であったが、ドゥダール・ド・ラグレは1918年、バルニーは1930年代に改装を受け、M1897 75mm砲1門、M1902 40口径37mm砲2門、Mle1907 8mm機銃(英語版)4挺となった。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 07:10 UTC 版)
前述の通り内海御召船として建造された198トンの木造外輪船(帆走併用)で、玉座を1カ所備えていた。当時の記録では艦種を皇艦ともしている。 主機は揺動式機械1基で2気筒、シリンダーの直径は800mm、行程は720mmだった。ボイラーは管入方形缶1基。半円缶とする文献もある。大きさは長さ1m、幅3.590m、高さ2.540m、炉筒は2個あった。復水器は注射式だった。 1879年(明治12年)3月30日、御召船の装飾として煙突の塗装を薄黄土色に変更(従来は黒色)の上申があり、7月3日に認許された。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/25 20:53 UTC 版)
全長540mの大型艦で、ガルマン・ガミラス世代の新型三段空母(設定のみで劇中に登場せず)を左右に2隻繋ぎ合わせた双胴式の形状を持つ。艦橋周りや最上部飛行甲板の艦上機の出入り口のデザインなどは戦闘空母の流れを汲んでいる。艦体色はガミラス世代の戦闘空母などと同じ赤。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/12 07:37 UTC 版)
本型の計画番号はF37C。前型である樅型(計画番号F37、F37A、F37B)の改型とも言える艦級である。 樅型では復元力の不足から舵を切るときの傾きが大きくなり、本型では船体幅を6インチ(約15cm)広げて改善を図った。また樅型では排水量が計画より45トン超過する状態で、軽減する見込みも無いことから、本型では初めから計画排水量900トン(樅型より50トン増)とした。これにより吃水が3インチ(約7.6cm)増加し、速力も36ノットから34ノットに低下する計画だった。外見上に樅型と大きな違いは無い。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 04:38 UTC 版)
木造外輪船で第一利根川船の姉妹船であるが、船体主要寸法が若干違う。『横須賀海軍船廠史』の利根川丸の艦型図によるとマストは装備していないが、マスト1本、または2本の記録がある。機関は第一利根川丸と同じになる。主機は斜置2気筒機械で、気筒の直径は53cm、行程は485mm。ボイラーは汽車缶1基を装備し、蒸気圧力は5kg/cm2だった 要目表の値は『横須賀海軍船廠史』、機関は『帝国海軍機関史』等によった。その他の文献による要目は以下の通り。 『記録材料・海軍省報告書』:長さ131尺9996(40.000m)、幅18尺5(5.606m)、深さ6尺9寸3(2.100m)、吃水3尺2(0.970m)、排水量109.25英トン 『帝国海軍機関史』:長さ40m(21間5尺7寸2分)、幅5.61m(3間4寸7分8厘)、吃水前後共91cm(3尺6分2厘)。(『艦船総表及経歴書』による)。または排水量109.3英トン、長さ133 ft 3 in (40.61 m)、幅16 ft 6 in (5.03 m)(『廃艦機関沿革』による) 『近世帝国海軍史要』:排水量109英トン 『日本近世造船史 明治時代』:トン数109トン、長さ132 ft (40.23 m)、幅16 ft (4.88 m)、30馬力。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 05:11 UTC 版)
木造船体で三檣バーク型の砲艦になる。計画要目は以下の通り。 垂線間長:44.60m 最大幅:7.72m 吃水:平均3.15m 出力:650馬力 兵装:15cm回転砲1門、12cm舷側砲2門
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 10:03 UTC 版)
2檣スクーナー型の(木造)外輪船で、外海用御召艦(快走御召船)になる。艦種は『日本近世造船史』ではヨット、『Conway』では外輪コルベット(paddle corvette)としている。 当初計画では3檣だったが、1876年(明治9年)にチボジエーの進言により2檣に改められた。見た目の悪さ、中央檣の網具取り付けに外輪が邪魔になる、御座のある部屋の真上に檣がかかる、というのが理由だった。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 13:51 UTC 版)
満月は秋月型の中で唯一、基本計画番号F53に従ったものとされる。基本計画番号F51との違いは艦首部がナックルフレアであること、船首楼甲板上端の断面が垂直であること、艦尾の側面形が末広がり型ではなく垂直であること、艦橋が丸みを帯びていないこと、艦尾艦底部が曲線ではなくナックルがつけられていることなど、曲面と曲線を極力廃したもので、特殊鋼の使用もやめたとされる。 特に艦橋と艦首の設計は、1944年1月16日に被雷大破した涼月の復旧工事の際に使用されたと考えられている。 ただし、満月が本当に基本計画番号F53に従って建造されていたかどうかについては異説が有り、一般艤装改正図の記述では「本改正は367号艦以降に実施」とあり、このことから満月も通称冬月型に含まれるとされる。367号艦は、花月の次の艦である。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 16:45 UTC 版)
船体は前甲板での防御甲鈑の位置を低めるために平甲板型とされ、簡易化のため直線型の艦首となった。防御上の観点から舷窓は廃止し、居住性確保のため冷却設備を装備する予定だった。 防御は4,000mからの爆撃で投下される10kg演習弾に耐えることが求められ、「矢風」や「摂津」の訓練実績を元に、当たっても防御鋼鈑が軽く凹む程度の厚さが計算された。上甲板のうち爆弾の当たる可能性のある部分やその上に設置された防御甲板には25mmDS鋼が張られ、傾斜部分などは更に薄くされた。防御甲板の高さも復元性能の観点からなるべく低くされ、中央の缶室部分は下に短艇を搭載できる高さがあったが、それより後部は中央部分のみを通路として使用できる高さにして、それ以外は甲板下が保守点検のできる程度の高さ800mmに抑えた。また防御甲板は、鋲接構造にすると爆弾の当たった時の衝撃で鋲が飛ぶ恐れがあるので、全溶接構造で作られた。爆撃訓練時に人のいる艦橋や居住区、トイレなどは、防御鋼鈑との間に空所が設けられ、スプリンター対策を施した。舷側部分は18mmMS鋼とされ、「波勝」の舷側は傾斜が10度あったが、本艦では復元性能を考慮して5度に減らされた。 機関は秋月型駆逐艦と同じものを使用、当初33ノットを計画した。また機関配置は陽炎型駆逐艦と同じにして、機関室の長さを最小とすることを目指した。 艤装工事の途中で護衛艦にも使用できるように計画が変更され、竣工時より甲板上に多数の機銃が配置された。対潜兵装として爆雷投射台、爆雷投下軌条も装備された。弾薬庫は冷却設備のスペースを当て、爆撃訓練時には高角砲と3連装機銃は陸揚げし、単装機銃は艦内保管の予定だった。これら兵装増備で艦の重量が増え、公試排水量は当初の2,950トンから3,070トンの計画になり、公試吃水は0.13m増、速力は0.5ノット減少、航続距離は50カイリ減少する予定となった。しかしながら、元々復元性能に余裕があることで多くの兵装を追加することができた。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 02:43 UTC 版)
空母への改装による重心の上昇に対応し復原力をあたえるため、船体にバルジが増設された。また艦載機の大型化に対応するために、船体長よりも長い飛行甲板(長さ205m、幅23m)を設置する。このため、従来の日本軍小型空母のように船体前方の飛行甲板下に艦橋を設けることが出来ず、日本の小型空母としては異例のアイランド(島型艦橋)を採用している。重巡洋艦からの改装のため、格納庫は1段のみ、魚雷調停場も有しない。このため搭載航空機数はそれほど多くなく、エレベーターも2基のみで小さかった。改装案では、銃砲座のブルワークは丸みを帯びていたが、戦時改装に伴い直線状の簡易なものとなった。 戦後に撮影された写真では、艦体は迷彩を施さずに軍艦色一色で塗装されているほか、なぜか赤い水線塗装が喫水線ではなくバルジに沿って塗装されていた。 空母への改装にあたり、ボイラーとタービンを巡洋艦計画時より半減した。空いたボイラー室は重油タンク等に、後部のタービン室は航空機用のガソリンタンク(軽質油庫)となり、プロペラ軸数も、最上型重巡洋艦の4軸から2軸に減少している。これによって出力は15万2,000馬力から7万2,000馬力に減少し、最高速力は35.0ノットから29.0ノットへ減速、航続距離は18ノットで8,000海里を予定していた。最高速度が30ノットに満たなかったのは、6,300海里であった重巡洋艦時の航続距離の延長と、大鷹型航空母艦などの商船改装空母がほぼ同じ速力で運用されても支障なかったためだと予想されている。機関室舷側に30 - 100mm、(機関室上部)甲板35mmの防御を施した。余剰となった本艦と第301号艦の機関は雲龍型航空母艦2番艦「天城」と同型4番艦「笠置」に転用された。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 16:46 UTC 版)
「マエストラーレ級駆逐艦」の記事における「艦型」の解説
復原性が不足していたダルド級駆逐艦の改良型であり、船体が一回り拡大されている。排水量も増した一方で出力は強化されてないが、前級に比べ船体が約10m延長されたことにより高速力は維持されていた。また、主砲は新型である「OTO社製 50口径 Model1931 12cm連装砲」を搭載しており、軽量化が施されたが強度は低下していた。 各部の余裕が生まれるなどした為、その基本設計は後のアルフレード・オリアーニ級、ソルダティ級へと受け継がれた。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/10 05:57 UTC 版)
「筑摩 (防護巡洋艦)」の記事における「艦型」の解説
筑摩型は、日本海軍の巡洋艦として初めてタービン機関を採用した。同型艦3隻(筑摩、平戸、矢矧)には性能実績を調査するためにそれぞれ異なるタイプの機関を搭載している。筑摩の大型缶には過熱器が装備されている。一般的に筑摩型は防護巡洋艦と認識されているが(日本海軍の法的な類別は二等巡洋艦)、舷側装甲を持っていた。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/09 14:38 UTC 版)
多種類の糧食を積む「間宮」「伊良湖」とは異なり、冷凍糧食や生鮮品に特化した艦としたので冷凍庫を持つ遠洋漁船タイプの艦型となった。 船体は逓信省の鋼船構造規定に準拠し、船首楼と船橋楼を持つ1層甲板型である。船艙は艦橋前にあり、内部を仕切って獣肉庫、卵果物庫、魚肉庫、野菜庫、氷庫などを設けた。これら冷凍庫の容積は477立方メートルだった。艙口は小型の2個があり、前部マストに1トンデリック4本(「杵埼」はデリック2本)を設け、急速補給に対応した。艦橋直下の冷却機室に力量5,000キロ・カロリー/時の炭酸ガス式電動冷却機2台を設置、それより後方には士官室や兵員室、機械室などがあって船艙は無く、後部マストにデリックも無かった。 兵装は前部の砲台に8cm高角砲を設置、13mm連装機銃は後部構造物上に設置した。大戦中に13mm連装機銃は25mm連装機銃に換装、艦橋上に13mm単装機銃2挺を追加したらしい。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:55 UTC 版)
双胴を思わせる外観、艦の前から中間にかけて設置した飛行甲板、後方に艦橋構造物や常用火器を寄せた構成など、大まかな形状は戦闘空母に似るが、全長は260メートルと、大型化されている。
※この「艦型」の解説は、「デスラー戦闘空母」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/09 18:16 UTC 版)
敷設艦「沖島(II)」は日本海軍最初の純粋な大型敷設艦だが、ロンドン海軍軍縮条約の制限下で建造されたため備砲や速力に制限があった。当初の軍令部要求は基準排水量5,000英トン、速力20ノット、15.5cm砲4門、機銃4門以上、機雷500個以上、航続距離14ノットで5,000浬という規模だった。予算の都合上、艦型をなるべく小さくする必要があって基準排水量4,800英トンに抑え、主砲も14cm砲の在庫品を利用することになった。基本計画番号H4。この時点(友鶴事件前)での主要目は右表の通り。 起工直前に起きた友鶴事件により急遽設計をやり直し、船体を小型化するなど基準排水量4,470英トンでまとめられた。この時にボイラーを重油専焼とし、主砲を単装4門から連装2基への変更もされている。また電気溶接を広範囲に使用しているため第四艦隊事件後には構造の再検討が行われた。燃料搭載量の問題もあり(後述)、竣工時の基準排水量は4,000英トンになっていた。 船体はフラッシュ・デッキ型で、艦前部に大型の艦橋と三脚マストを備え、艦橋と煙突の間のシェルターデッキ上に四十口径三年式八糎高角砲(単装、片舷2門)と艦橋両舷の同甲板上に13mm連装機銃を設置。煙突後方にはカタパルト(呉式二号三型)とデリックを装備した大型の三脚マストがある。基準排水量4,500トン艦としては巨大なマストである。これはカタパルト上に九四式水上偵察機を搭載するクレーンの支基を兼ねているためである。水上機搭載数は1機のみ。 計画時は最上型軽巡洋艦と同様の15.5cm砲主砲の搭載を検討したが、予算の関係から日本海軍軽巡洋艦で標準的に採用されていた50口径三年式14cm砲となった。この14cm砲は軽巡洋艦「夕張」や迅鯨型潜水母艦2隻(迅鯨、長鯨)搭載と同型で、これを連装砲型とし、艦前部と艦後部に一基ずつ装備する。砲尾側は露出しており、密閉式ではない。敵駆逐艦と交戦し撃退することを念頭においていた。 本艦は500個の六号二型機雷を搭載可能で、艦橋と煙突の間の前後両舷4箇所に儲けられた機雷搭載口から積み込んだ。艦内の中甲板に機雷格納所があり、艦前後の下甲板、船艙甲板にも機雷庫がある。この機雷格納所、機雷庫は輸送任務のための倉庫や海軍陸戦隊の待機所にも転用された。機雷の敷設は中甲板を艦尾へ伸びる2条の軌道で行う(航行時に艦尾の開口は扉で閉鎖される)。また上甲板にも軌道2条が設置されている。この他、爆雷22個と爆雷投射機1基を装備した。 重油搭載量は計画時に自艦用850トンと補給用200トンだったが、公試の結果は重油850トンに対する航続力が9,500カイリ/14ノットにも達し(計画は5,000カイリ/14ノット)、実際の搭載量は自艦用561トンと補給用360トンに改められた。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:27 UTC 版)
船体は計画のみに終わった逓信省標準船TL型タンカーをベースにして、艦隊随伴の給油艦として縦曳、横曳の他に斜曳、逆曳による洋上給油のできること、重油以外の補給物件の搭載の要求もあり、以下のような変更がされた。 艦隊随伴給油艦としての特有の設備は、後部マストを3脚として洋上給油のためのデリックを設けた。更に艦橋の前後にそれぞれ1対のツインポストを設け同じく蛇管の吊り上げ用とした。また縦曳給油用設備として、左舷寄りに全通の蛇管通路を設け、甲板作業の便を図るために上甲板にブルワークを設けずハンドレールとしている。 船体中央部は基本的に補給用の重油タンクとなるが、最前部両舷を軽質油(ガソリン)タンクとし、その構造は空母のそれと同じにした。そのタンクの中央側区画にはガソリンポンプ室と補給用真水タンクを設置した。要求として潜水艦用ディーゼルエンジンの燃料となる2号重油の搭載もあり、中心線のタンクをそれに当て、給油ポンプ1台をその専用とした。それと同時に潜水艦への荷電もできるようになっており、それ以外に補給関係として小艦艇への糧食と真水の補給ができた。 機関は逓信省標準船TL型タンカーに搭載予定だったものをそのまま搭載している。計画速力は16.5ノットであるが、公試の条件が民間の試験より排水量の重い状態であり、商船としては19ノットに相当するものだった。 対空装備は計画の途中で高角砲口径の増大、連装化と強化の要求があったが、12cm単装高角砲を艦首に1門、艦尾に2門設置することで妥協した。また25mm3連装機銃を艦橋両側に設置した。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/27 14:43 UTC 版)
先に建造された知床型給油艦の設計に若干の修正を加えた給油艦である。船体構造の改正とデリック設備の補強を行い、搭載機関のうち主缶に、知床型の円缶に代わって艦本式水管缶あるいは宮原式水管缶を採用した。艦型に大きな変更はなく、基本性能に違いは無い。
※この「艦型」の解説は、「隠戸型給油艦」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/02 01:50 UTC 版)
第3号では重心が計画より上昇し、軽荷状態ではバラストタンクの注水に加え、燃料を若干残す必要があった。そこで本型では重心をなるべく下げて、復原性能が良好になるよう、艦橋は1/2デッキ分下げ、艦橋下部は高さ1mの倉庫区画とした。また煙突付近の上部構造物を撤去し、煙突後部にあった兵員厠は艦橋構造物の後部延長部分に設置した。ボート・ダビットをラッフィング型からラジアル型へ変更し搭載艇を甲板に置いたのも、重心降下対策と思われる。それでも軽荷状態では海水16トンの補填が必要とされた。また第3号では竣工後に後部甲板の補強が必要になったため、本型ではその部分の強度を十分考慮して設計された。
※この「艦型」の解説は、「第四号型駆潜艇」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/09 03:31 UTC 版)
木造気船で、帆装は2檣ブリッグ型。主機は直立双置気筒機械でシリンダーの直径は660mm、行程は540mmだった。ボイラーは方形缶1基で蒸気圧力は2kg/cm2。計画出力は250実馬力(60名馬力)だった。 要目表は『海軍省報告書』、『横須賀船廠史』などによった。その他の文献による主な要目は以下の通り。 『日本近世造船史』:長さ175 ft (53.34 m)、幅20 ft (6.10 m)、トン数373トン、63馬力 『近世帝国海軍史要』:排水量450英トン 『日本海軍史』第7巻:長さ50.9m、幅7.1m、吃水2.7m、排水量450トン、250馬力
※この「艦型」の解説は、「函容丸」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/09 07:58 UTC 版)
2檣スクーナー型の木造汽船。推進はスクリュー2軸で主機は蒸気機関2基、ボイラーは1基だった。 要目表の値は主に『記録材料・海軍省報告書第一』による。『公文原書』に記載の冲鷹丸の船体主要寸法は以下の通り。 長さ:キールで14間(25.455m)、荷線溝内で15間(27.273m) 幅:荷線で2間2寸(4.242m)、甲梁で2間1尺9寸(4.212m) 深さ:荷線上で船首7尺5寸(2.273m)、船尾6尺9寸(2.091m)。荷線下で船首4尺(1.212m)、船尾4尺5寸(1.364m)。 吃水:船首3尺7寸(1.121m)、船尾4尺7寸(1.424m)
※この「艦型」の解説は、「沖鷹丸」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 09:44 UTC 版)
「龍驤 (コルベット)」の記事における「艦型」の解説
汽帆併用の3檣シップ型コルベット。木造船体で舷側に114mmの装甲帯をもっていた。木造鉄帯ではあるが、当時の日本海軍唯一の錬鉄製の装甲艦である東(甲鉄)は1,358トン、主力として使われた木造スループ日進は1,468トン、旧式艦ではあったが龍驤の次に大きい筑波でも1,947トン、それ以外の軍艦も1,000トン前後のものはわずか数隻に過ぎず、大半の軍艦や運輸船は100トンから500トン程度であったため、2,500トンを超える当時の日本海軍最大の艦である龍驤が主力艦として実質的な旗艦の役割を務めることとなった。類別は東、筑波と同様の三等軍艦であった。なお、一等軍艦および二等軍艦は海軍発足時には存在せず、日進は四等軍艦であった。
※この「艦型」の解説は、「龍驤 (コルベット)」の解説の一部です。
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艦型
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播磨造船所建造の1TL型戦時標準船である「南邦丸」型とほぼ同じであり、それに艦隊随伴用の設備が追加された。ただ、計画当時は戦況も悪化し、資材も不足していたために給油設備、補給物件の搭載施設の追加は最低限とされた。 船体は1TL型戦時標準船と変わらず、軽質油タンクは装備されなかった。艦隊給油設備としては後部デリックを設け横曳給油のみに対応、縦曳給油用の設備は艦側の強い要望で完成直後に追加された。補給物件として大発もしくは魚雷艇を数隻搭載できるように艦橋後方の上甲板に架台が設けられ、後部デリックは30トンのヘビーデリックとなった。 対空兵装は12cm単装高角砲を艦の前後に1基ずつの計2門、25mm機銃は連装を艦橋の左右に1基ずつ計2基、3連装を船尾楼甲板構造物上の煙突の前後左右に各1基の計4基を装備した。竣工直後に3連装機銃、単装機銃が若干増備されたという。電探、水測兵器は一通り装備、13号電探と22号電探、音響探信儀を装備したともされる。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:41 UTC 版)
3檣バーク型のスループ。海防艦とする文献もある。『#Conway(1860-1905)』では海門と同型艦のスクリュー・コルベット(screw corvette)に分類している。また『日本海軍艦船名考』では巡洋艦と称している。船材は木で、横須賀造船所で建造する木造船体の軍艦は天龍が最後になった(次の建造艦「葛城」では鉄骨木皮となる)。計画要目は以下の通り。 垂線間長:63.74m、最大幅:9.86m、深さ:計画:6.11m、吃水:前部4.70m、後部5.30m、排水量:1,372英トン、トン数:925トン、速力12ノット、乗員205名 1885年(明治18年)1月に竣工前の重心検査を行った所、復原性能の不足が判明した。このため竣工時には艦隊へでは無く、横須賀鎮守府へ引き渡して、横須賀造船所で舷側水線部にバルジを装着した。このバルジは水線幅を増加する目的であり、吃水線上下の限定的な範囲だった。バルジの外面、内面共に木材で作られ、片舷約460mmで水線幅は海門より960mm増加した。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 15:03 UTC 版)
3檣バーク型の木造帆船。要目表の値は主に『記録材料・海軍省報告書第一』に記載の明治8年艦船総数表による。その他の文献にある要目は以下の通り。 『日本海軍艦船名考』:排水量443英トン 『近世帝国海軍史要』:排水量443英トン 『日本近世造船史 明治時代』:長さ149 ft (45.42 m)、幅28 ft (8.53 m)
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 18:20 UTC 版)
河内型戦艦(摂津、河内)は、日本海軍最初の弩級戦艦である。河内と摂津の外観上の相違点は艦首部で、河内は垂直型、摂津はクリッパー型であった。 河内型戦艦は、30㎝連装砲塔6基12門を装備する。主砲の配置は亀甲型であり、右もしくは左舷に主砲を撃つとき反対舷の主砲が使用できなかった(片舷へ主砲8門発射可能)。そのうえ前後の砲2基が50口径、中央舷側の4基が45口径と、射撃指揮に問題がでるものであった。同時の軍令部長東郷平八郎元帥が「前後の砲はより強化すべし」と主張したためであった。実際の運用では12インチ50口径砲に減装薬を使用することで、性能を12インチ45口径砲に統一していた。また日本海軍は次世代戦艦にひきつづき50口径12インチ砲を搭載する予定だったが、イギリス滞在中の加藤寛治中佐が12インチ50口径砲の欠陥と13.5インチ口径砲新開発の情報を掴み、緊急報告をおこなう。この情報をもとに日本海軍は12インチ50口径砲を搭載予定だった扶桑型戦艦と金剛型巡洋戦艦の設計を変更し、14インチ45口径砲を搭載することになった(当初の秘匿名称は43式12インチ砲)。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:24 UTC 版)
急速建造に対応するために鈴谷型重巡洋艦の船体線図を利用した、改鈴谷型として計画された。1941年11月の商議では防空指揮所の設置、後部マストを第4砲塔直前に移設することが記されている。 船体は鈴谷型と基本的に同じであるが、上甲板のキャンバーがわずかに増やされている。 主砲は鈴谷型と同じ2号20cm連装砲5基、砲塔の形式は利根型と同じE3型、利根型では円錐台形であったリング・サポートは、円筒形となっている。高角砲は当時の標準となる12.7cm連装高角砲4基、砲の形式はA1型だった。機銃は鈴谷型と同じ25mm機銃連装4基、13mm機銃連装2基の計画であるが、もし重巡洋艦として竣工したら、時期的に考えて機銃は更に増備されたと思われる。 魚雷発射管は最上型、利根型の3連装4基から、改装後の妙高型、高雄型と同等の4連装4基に強化されている。建造の進んだ1番艦(第300号艦)では、さらに航空兵装を廃止し5連装発射管5基に変更されたといわれる。このときの詳細な計画は残されていないが、おそらく従来の発射管位置の4カ所に加え、後部マスト直前に1基追加したものと思われる。これら雷装の強化は夜戦での使用が重視されたことがうかがわれる。 防御は、機関部については舷側の長さ76.70mに渡り、艦底に向かって内側へ20°の角度を付けた傾斜装甲で、上部100mmNVNC甲鈑から下部の30mmCNC甲鈑に連なるテーパード・アーマーを施した。水平防御は中甲板に水平部30mmCNC、傾斜部60mmCNC甲鈑、前後の隔壁部は105mmNVNC甲鈑とした。弾火薬庫は、舷側は機関部と同様の方法で上部140mmNVNCから下部の30mmCNCに連なるテーパード・アーマー、水平部は下甲板に40mmCNC、前後の隔壁部は95mmから140mmのNVNC甲鈑を取り付けた。舵取機室は舷側100mmNVNC、前後の隔壁50mmCNC、水平部は中甲板に30mmCNC甲鈑で防御した。 機関は鈴谷型、利根型と同様の艦本式ボイラー8基、艦本式タービン4基の組み合わせである。ボイラーの蒸気圧、温度は計画では20kg/平方cm、300度であるが、鈴谷型、利根型と同じ22kg/平方cm、300度とする文献もある。利根型では高雄型までと同様に前部機械室のタービンで外軸のスクリューを回転させていたが、本型では鈴谷型と同じ前部と内軸を結ぶ形とした。推進器直径は3.9mで最上型、利根型の3.8mから0.1m大きくなる計画だった。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:20 UTC 版)
基本計画番号C-33。球磨型・長良型(以下は従来と表記)からの主な変更点は、以下の通り。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:16 UTC 版)
天龍型の艦型は同時期計画の江風型駆逐艦(または磯風型駆逐艦)と似ており、駆逐艦艦型を拡大した形になっている。設計においても巡洋艦ではなく大型駆逐艦を標準として各部分が計画された。基本計画番号C33、設計は河合定二だった。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 01:28 UTC 版)
マル3計画艦で、「白鷹」の改良型。石炭燃料・レプシロ機関の白鷹型(速力16ノット)に対し、初鷹型(速力20ノット)は石炭・重油混燃(重油節約のため)・タービン機関となった。九六式防潜網24組6カイリ分、または九三式一型機雷100個を搭載可能。 先行2隻(初鷹、蒼鷹)は、連装毘式四十粍機銃を艦前部と後部に一基ずつ装備。対空・対潜水艦戦闘に対応可能という触れ込みだったが、低性能のため「若鷹」は四十口径三年式八糎高角砲を搭載した。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 01:29 UTC 版)
竣工時の艦型は初鷹型急設網艦#艦型を参照。 「あ号作戦後の兵装増備状況調査」によると、1944年(昭和19年)4月10日時点で25mm連装機銃を前部40mm連装機銃の直後と後部40mm連装機銃の後方にそれぞれ機銃台を設けて1基ずつ増備した。対潜兵装は九四式爆雷投射機1基、九三式水中聴音機を装備、探信儀には水流覆が装備されていた。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 04:22 UTC 版)
「若鷹」はマル4計画艦の仮称艦名第102号艦。初鷹型3番艦だが、基本計画番号は初鷹型1番艦「初鷹」と初鷹型2番艦「蒼鷹」のH12に対して「若鷹」はH12b(H12B)と異なる。船体寸法は同一であるが船首楼甲板を延長するなど船体に若干の違いがある。前檣と後檣も、本艦はやや後方に傾斜している。また兵装に関しても差異がある。先行2隻(初鷹、蒼鷹)では対空・対潜双方に対応可能な兵装として連装毘式四十粍機銃を2基装備していたが、性能不足のため「若鷹」はこれを四十口径三年式八糎高角砲とした。 防潜網は九六式二型防潜網24組(6カイリ分)を搭載可能。「一般計画要領書」によると先行の2隻と違って機雷の搭載を計画しておらず、掃海装備を搭載した。 太平洋戦争中、漸次レーダー増設や対空兵装の強化をおこなった。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると1944年(昭和19年)3月16日の時点で25mm連装機銃2基(艦橋前と艦尾付近に機銃台を設け1基ずつ)、13mm連装機銃2基(煙突直後に機銃台を設け左右1基ずつ)、九四式爆雷投射機1基、九三式水中聴音機を装備、探信儀には水流覆を取り付けた。また「終戦時の日本海軍艦艇」によると最終時には艦橋天蓋に22号電探が装備されていた。 艦首損傷時の修理で艦首部が約4m(または5から6m)短くなり、商船タイプの揚錨機が装備された。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:10 UTC 版)
3檣バーク型砲艦。機関は横置2筒機械で推進はスクリュー・プロペラだった。機関は1872年(明治5年)から翌年にかけて撤去された。 右上表の要目は主に『薩藩海軍史』と『帝国海軍機関史』による。その他の文献による船体主要寸法は以下の通り。 明治元年『公文類纂』:長さ27間(49.09m) 『日本近世造船史 明治時代』:長さ177 ft (53.95 m)、幅23 ft (7.01 m)、吃水10 ft (3.05 m)
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:08 UTC 版)
木造のスループ、または砲艦。排水量については色々な値が伝えられている。 計画:1,030トン 竣工時:1,000英トン 公試時:1,066英トン 1894年6月時:926英トン 936英トン その他に1,500英トンの数値もあるが、他と値が離れている。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:10 UTC 版)
第一丁卯は姉妹艦。機関は同一であるが、1874年(明治7年)の『公文類纂』によると船体寸法に差違がある。多くの文献で船体寸法は第一丁卯と同一としており(など)、主なその値は以下の通り。 『日本近世造船史 明治時代』:長さ126 ft (38.40 m)、幅21 ft (6.40 m)、吃水7 ft 7 in (2.31 m)(第一丁卯の吃水は空欄)。 『日本海軍艦船名考』(1928):長さ126尺(38.18m)、幅21尺(6.36m)。 『日本海軍史』第7巻:長さ39.4m、幅6.6m、吃水2.4m。 排水量は第一丁卯と同一で125トンとする文献が多い(など)。『幕末の蒸気船物語』によると、船体寸法に対して明らかに小さいという。兵装については砲8門としている文献が多い(など)。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 15:36 UTC 版)
基本計画番号はK4。第1号型と比較して復原性能を考慮し、一般艤装は第1号型の使用実績を参考にした。また建造中に第四艦隊事件の教訓により、船体構造が改正された。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:56 UTC 版)
基本計画番号J39。連合国軍側の揚陸艦艇では中型揚陸艦(LSM)に近い規模であり、LST-1級戦車揚陸艦の半分程度の排水量である。全般的な設計としては、強行輸送という用途に応じる高速性能と強兵装の一方で、戦時下における量産性への配慮がされている。
※この「艦型」の解説は、「第百一号型輸送艦」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 18:32 UTC 版)
排水量1,678トン、400馬力。長さ70.10m、幅10.46m。大砲は左右に40斤ライフル砲を5門ずつ、前面に50斤ライフル砲1門の合計11門。プロイセンで製造され、イギリスで改装。機関と汽罐、武装はイギリス製だった。ダンツィヒ(Danzig)号、イーグル(Eagle)号、回天丸と名前が変わった。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 02:10 UTC 版)
計画番号H5b。船体、兵装は「夏島」(計画番号H5)と同一であるが試験的にマン式ディーゼルを主機とした。このため速力は幾分落ちたが航続距離は2倍近くに伸びている。この主機の性能は満足のいくものでその後の測天型、平島型敷設艇の他、駆潜艇、海防艦などの小艦艇の主機に積極的に採用された。 建造中に起きた友鶴事件により復元性能改善工事を実施、固定バラスト80トンを搭載するなどし、1939年(昭和14年)には船体補強工事を行い公試排水量は647.1トンに増加した。 大戦中に機銃増備を実施したと思われるが、詳細は判っていない。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/03 10:29 UTC 版)
暗車(スクリュープロペラの意味)、汽船との記録があるが、その他建造所、原名、要目などの詳細は不明である。乗員は明治元年時に41人と記録が残る。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 13:23 UTC 版)
2檣の帆船で船体は和洋混形だった。乗員は秋田県からの返還時(明治4年11月)で士官相当3名、他12名の計15名、また同年11月24日の報告で乗員17名の記録がある。要目等は記録が残っていない。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 00:15 UTC 版)
建造所、竣工日、要目などの詳細は現在に伝わっていない。練習艦とされたことからおそらく「満珠」「干珠」と同じ程度の帆走の旧式艦であったろうと推定される。 『明治27・8年 戦時書類 巻1 明治29年』によると要目は表の通り。2層甲板、3檣の帆船。船首楼を持ち、中檣の前後に甲板室があり、船橋は後檣の前にあった。船材は木で主に米松が使われている。しかし『日本海軍艦船名考』では鋼としている。
※この「艦型」の解説は、「敏捷 (練習艦)」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 16:10 UTC 版)
「富士山 (スループ)」の記事における「艦型」の解説
二檣(機関撤去後は三檣)シップリッグ型(またはバーク型)木造スループである。 主機は文献に「ヂレクトエクチーブエンジン(Direct active engine)」(直動機関)とあり、気筒径は40インチ、行程は28インチ1/2。これを2基装備し、2軸推進だった。ボイラーは円缶2基を装備した。1876年(明治9年)10月機関は撤去された。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 15:39 UTC 版)
3檣2本煙突の木造外輪船で、直立艦首としており、近代的な容姿をしていた。速力は16ノットが可能で、当時の汽船としては非常に高速の船だった。日本海軍では燃料消費の点から9ノットで使用しており、艦種は報知艦(通報艦)とされた。 主機は揺動式機械1基であり、日本の艦船で揺動式機械と明記されているのは春日丸が最初だった。
※この「艦型」の解説は、「春日丸」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 05:07 UTC 版)
※この「艦型」の解説は、「清輝」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 18:05 UTC 版)
専従艦種として建造されたため、艦内に17ある工場には海軍工廠にすら配備していないドイツ製工作機械など最新の114台が設置されていた。そのため修理能力は非常に優れ、連合艦隊の平時年間修理量35万工数の約40%を処理できる計算であり、文字通り『移動する海軍工廠』であった。小倉竜朗技術大尉(明石造船主任)は「あらゆる修理工事が可能だった」と回想している。 船体は平甲板型として艦内の工場面積を稼ぐと共に、上甲板に構造物をなるべく置かず、露天作業場の面積を確保した。上甲板に設置された作業用の電動デリック(クレーン)は、前部マストに10トン1台、艦橋後壁の両舷に5トン1台ずつ、後部マストに揚艇用を兼ねて10トン1台、中央部右舷に23トン1台の計5台を配置した。また艦内の工場にも第1機械工場に3トン天井クレーン、第1鋳造工場に5トン天井クレーン、鍛冶および鈑金工場に3トンジブクレーンがそれぞれ1台設置された。煙突は2本あり、後部は主機であるディーゼル機関の排気用の消音器2本と補助缶煙突1本を1つにまとめたもの、前部は艦内各工場からの排気用だった。 自衛用の武装として、艦首尾甲板に12.7cm連装高角砲各1基計4門を装備、その他に艦橋直後のシェルター甲板上に25mm連装機銃を左右1基ずつ装備した。 明石には艦自体の乗員のほか、工作に従事する工作部員(造船科員、機関科員、海軍技師)も乗艦していた。
※この「艦型」の解説は、「明石 (工作艦)」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 02:37 UTC 版)
当初は乙型潜水艦として建造の予定であったが、水上偵察機と搭乗員の不足が明らかになり、水上偵察機の搭載を廃止した。その代わりに魚雷発射管の数を2門増やし8門とし、また魚雷搭載数を20本に増やし魚雷兵装を強化した。船体は乙型と同じとなる予定だったが、建造を急ぐため伊七型潜水艦(巡潜3型)の線図を流用した。その他主機は甲型、乙型潜水艦と同じものを搭載している。
※この「艦型」の解説は、「伊十六型潜水艦」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 04:05 UTC 版)
※この「艦型」の解説は、「千鳥型水雷艇」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 15:05 UTC 版)
1942年(昭和17年)の昭和17年度計画(マル追計画)により5隻の建造が計画され、3隻が竣工した。丙型潜水艦ではあるが艦型は乙型改2潜水艦(計画番号S37C)の航空設備を撤去した船型である。計画番号がS37Dであることからもそれがわかる。(乙型潜水艦の計画番号はS37、一方丙型潜水艦はS38である。)乙型で格納筒のあった艦前部には14cm砲1門を搭載し、後部甲板と合わせて2門とした。魚雷発射管は乙型改2と同じく艦首に6門、ただし魚雷本数は17本であった。 1944年(昭和19年)後半に伊53は後部14cm砲を撤去し回天4基を搭載した。この時期に22号電探と逆探も設置と推定される。1945年(昭和20年)に入り前部14cm砲も撤去し前甲板に2基の回天を追加搭載した。このころ13号電探とシュノーケル装置の装備も実施したと思われる。 改⑤計画で計画された丙型潜水艦、計画番号S49Bのうち、15隻を丙型改として建造する予定だったが、すべて建造取り止めとなった。
※この「艦型」の解説は、「伊五十二型潜水艦」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 08:25 UTC 版)
球磨型軽巡洋艦の改良型として設計され、球磨型の船型、主要寸法、機関出力、速力、備砲、機雷搭載量は変更無い。艦型は球磨型軽巡洋艦#艦型も参照。球磨型からの主な変更点は以下のとおり。
※この「艦型」の解説は、「長良型軽巡洋艦」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 16:35 UTC 版)
設計主任は天龍型に続いて河合定二造船少監で、1917年(大正6年)に設計がまとまった。イギリス海軍の後期C級軽巡洋艦やD級軽巡洋艦を手本としたイギリス式の軽巡洋艦であり、直線的な船体で艤装も簡素なもので、各所に駆逐艦式の考えが適用された。加えて日本海軍では艦隊決戦に備えて強力な砲力、魚雷兵装、1号機雷敷設設備や通信設備を備えた司令部施設が必要であり、水雷戦隊旗艦として36ノットが要求され、その他に波の荒い太平洋での作戦のために凌波性が求められた。 艦の構造を前部から記述すると、艦首甲板上に主砲の14cm砲を単装砲架で背中合わせに1番・2番主砲を1基ずつ計2基を搭載、その背後に露天の操舵艦橋と竣工時から三脚式の前部マストの左右に3番・4番主砲を1基ずつ配置した。 船体中央部に等間隔に立つ3本煙突を前後から挟み込むように53.3cm魚雷発射管が連装で前後に片舷1基ずつ計4基8門を配置した。煙突の周囲には丈の低い通風筒が立ち並び、舷側部は艦載艇置き場となっており、艦載艇は2本1組のボート・ダビッドが片舷3組ずつ計6組で運用された。8cm高角砲は1番煙突の両舷に片舷1基ずつの計2基が配置された。
※この「艦型」の解説は、「球磨型軽巡洋艦」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 09:02 UTC 版)
「秋津洲 (水上機母艦)」の記事における「艦型」の解説
「秋津洲」は排水量5000トン程度であり、大型飛行艇1機を艦上で整備するという構想には無理があった。当初の計画では、艦尾のスロープから大型飛行艇をウインチで船体後部の飛行艇収容区画へ引き揚げる計画だった。ところが川西航空機が開発した二式飛行艇(重量31トン)をウインチで引き揚げるのは無理という判断により、設計を変更して艦尾に35トン電動クレーンを装備した。このクレーンが秋津洲型の最大の特徴となった。艦内には航空隊員用の居住施設、飛行艇に搭載する魚雷(36本)・爆弾・機銃弾等の弾薬庫、軽質油用タンク、工作施設を備え、通信設備も充実していた。なお秋津洲型は大型飛行艇を艦上に収容した場合、搭載機が航行中に損傷したり、あるいは操艦そのものが困難となるため、揚収中は航行しない事を前提に運用されている。 「秋津洲」が施していた特異な迷彩塗装は、同艦の初代艦長黛治夫大佐の影響であった。第一次ソロモン海戦後のラバウルで、第八艦隊参謀長大西新蔵少将が本艦の迷彩の事を「厚化粧みたいにゴテゴテ塗ってきたな」と指摘した時には「攻撃力がないから、昆虫のように保護色にしたんですよ」と黛艦長は説明している。またラバウル停泊時、空襲を回避するため、連日の爆撃から航海士が米重爆の水平爆撃のクセを見抜き、黛艦長に進言、独自の回避行動を実践した。これは停泊中に空襲を受けた場合に、両舷の錨を右舷側に偏らせ150mの所まで錨鎖を伸ばしておき、敵機が仰角38度になった時に前進一杯を号令すると艦が急速に右舷側に動いて回避できるという方法であった。ソロモン諸島で行動する時には、座礁すれすれの場所を通ることで米潜水艦の襲撃を防いでいる。黛は単艦指揮官としての工夫を「秋津洲流兵法」、航海方法については「秋津洲流戦場航海術」と称していた。 機関は22号10型ディーゼル4基を搭載、2組ずつフルカンギアで接続し2軸とした。その他補助缶にホ号艦本式缶(空気過熱器付)2基を搭載した。電源は200KVAディーゼル発電機2基、2770KVA同1基を搭載、交流電源だった 大戦中は飛行艇用の広い後甲板とクレーンを利用して魚雷艇数隻を搭載し前線への輸送を行った。1944年(昭和19年)3月に横須賀海軍工廠で損傷修理を行った際に21号電探を前部マスト上に1基装備、機銃を増備し25mm3連装機銃6基、同単装3挺となった。また後甲板に軌条3組を設けて、魚雷艇または大発などの運搬設備を設けた。日本海軍は1944年前半に工作艦船のほとんどを喪失したため、同年8月に呉海軍工廠で臨時の工作艦任務のための改造を行った。
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艦型
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ワシントン条約で定められた「基準排水量一万トン」は、8インチ砲6門という戦闘に必要な門数を確保する最小排水量として定められた。しかし本型は、以下に述べる数々の新機軸で、その最小とされた排水量以下でそれと同等となる武装を持たせることとなった。
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艦型
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艦名は奈良県にある葛城山にちなんで命名された。艦名は明治時代の葛城 (スループ)に続いて二番目となる。太平洋戦争は出撃の機会がなく、終結後の復員輸送で活躍した。 雲龍型ネームシップの雲龍とは以下のような差異がある。 対空機銃座の形状が、簡易化により半円形ではなく、台形の平面になり、その支柱も角形となっている。防煙シールド付3連装機銃も雲龍、天城で4基だったのに対し、本艦では前方の2基だけ装備された。 艦橋前面、羅針艦橋下の外面が天城までは曲面だったが、工事簡易化のため平面の構成となった。また天城と葛城は艦橋構造物が後方に延長され、信号マストはその構造物上に立つ形になった。 主機の生産が遅滞した為、葛城と阿蘇は駆逐艦用の主機を流用し、それを2隻分搭載した。そのため、機関出力が約4800馬力低下し、速力も約2ノット低下した。なお、主機変更に伴う余剰空間には重油タンクを増設した。 対空噴進砲(十二糎二八連装噴進砲)を改良型の三十連装とするなど、対空兵器の増備。 対潜のため、艦橋後部の信号檣を短縮。 喫水が10cm浅く、排水量が330トン小さい。
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艦型
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3檣トップスル・スクーナー型で鉄骨木皮の砲艦。右表の船体の主要寸法は主に明治4年『記録材料・海軍省報告書第一』、明治元年 と明治7年の『公文類纂』 によった。他の文献での主要寸法は以下の通り。 『佐賀藩海軍史』:長さ22間半余り(40.91m強)、幅3間半余り(6.36m強) 『帝国海軍機関史』:長さ132 ft (40.23 m)、幅22 ft (6.71 m) 『日本近世造船史 明治時代』:長さ131 ft (39.93 m)、幅22 ft (6.71 m)、吃水7 ft 7 in (2.31 m) 『日本海軍艦船名考』:長さ131尺(39.70m)、幅22尺(6.67m) 『日本海軍史』第7巻:長さ44.5m、幅6.6m、吃水2.5m 『日本軍艦史』(1995年):長さ39.9m、幅6.6m、吃水2.2m
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艦型
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航空機搭載のため、「速吸」は「風早」とは大きく違った艦型となった。 船体は中央の船橋楼甲板が無い2島型で、船首楼甲板を延長してその後端に軍艦型の艦橋と三脚式の前部マストを置いた。中央は上甲板上の高さ約5mの位置に幅21.5mに渡って甲板を設置し、甲板上に軌条とターンテーブルを設け、航空機6機と補用機1機を搭載した。その右舷前端にはカタパルト1基を設けたが、上端の高さを甲板の高さと一致させて運用を容易にした。 船体中央部が主に重油タンクとされたが、船艙区画最後部には空母と同じ構造の全溶接の軽質油(ガソリン)タンクが設置され、その後方は自艦用の重油タンクとした。後部マストは2本とし5トンデリックがそれぞれに設けられ、航空機搭載用と横曳き給油用の兼用とされた。また給油設備として蛇管通路が左舷寄りに前後に全通して設けられた。補給用の糧食庫や弾薬庫などは船首楼の下部に設けられ、甲板上には3m角の小型の艙口を縦に2個設け、取り扱いのためのゴールポストと3トンデリック2基が艦橋前に設置された。 船体後部は通常のタンカーと同様に船尾楼甲板が設けられ、機関室などが設置された。 対空兵装は「風早」より強化され、高角砲は12.7cm連装砲を艦の前後にそれぞれ1基ずつ置いた。機銃は25mm3連装機銃を艦橋両側に1基ずつ置き、艦尾楼の煙突直後にフラットを設けて連装機銃1基を置いた。また艦側の要求により竣工後に25mm3連装機銃を後部マスト前方の上甲板上に左右舷それぞれ1基、煙突付近の上部構造物上に左右それぞれ1基の計4基、その他単装機銃を若干(約8挺から12挺)増備したとされる。電探と水測兵器も装備していた。 改マル五計画で建造予定だった鷹野型給油艦では搭載機を倍の14機とする計画だったが、戦況の悪化で建造は取り止めとなった。
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艦型
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「橋立 (防護巡洋艦)」の記事における「艦型」の解説
主砲の32cm(38口径)単装砲は前部甲板に据え付けられ、「厳島」と艦形が似ているが、副砲以下の装備に若干相違がある。 修理用の艦内工場を設けた。1902年(明治35年)月にボイラーを全て宮原式水管缶に変更した。
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艦型
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「厳島 (防護巡洋艦)」の記事における「艦型」の解説
建造にいたる経緯については、松島を参照。主砲であるカネー社製32cm(38口径)単装砲は、松島と違い前部甲板に据え付けられたため、艦形としては収まりがよい。また、副砲以下の装備についても若干相違がある。
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艦型
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「高雄丸 (日本海軍)」の記事における「艦型」の解説
2檣ブリック型の鉄製外輪船。機関はイギリス・グランドサンアルグで製造された。要目表の値は『記録材料・海軍省報告書第一』の明治7年艦船総数表、『帝国海軍機関史』などに依った。その他の文献での要目は以下の通り。 『近世帝国海軍史要』:排水量1,191英トン 『日本海軍艦船名考』:排水量1,191英トン 『日本近世造船史 明治時代』:トン数1,422トン、長さ219 ft (66.75 m)、幅32 ft (9.75 m)
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艦型
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艦型は三島型の商船構造である。 食料補給は25,000人に20日分の要求のところ、艦型の問題から14日分とされたが、設計では要求をなるべく満たすよう努力され、獣肉約19日分、魚肉約17.8日分、野菜約18.8日分、新漬物などが搭載可能であり、それら専用の冷蔵庫を装備、その他に貯糧庫や味噌庫、旧漬物庫などが設置された。また現地で調達した食料を冷凍するための冷凍庫や製氷設備も設置された。艦内の工場は、酒保で販売する菓子や清涼飲料の生産設備があり、生パン及パン菓子、餅菓子及焼饅頭、最中及羊羹、飴、ラムネ[要曖昧さ回避]及アイスクリームの製造室があり、更に豆腐及蒟蒻製造室、新漬物製造室もあった。 その他に洗濯設備として1日に夏服400着を処理できる洗濯室、火熨斗(ひのし)室も設けられた。また通信監査艦としての任務が考慮され、長波・短波兼用の九二式特受信機30台(計画では32台)を設置した。 揚貨装置としては2トン電動ジブクレーン8基、前部10トンデリック1基、後部20トンデリック1基、冷蔵品揚卸装置1式を装備、後部デリックを更に1基増備する計画もあったため、後部の支柱は門型とされた。艦載艇は配給用として12m糧食配給艇3隻、12m真水配給艇1隻、その他5隻の計9隻の搭載が計画された。ただ8隻搭載とする文献もあり、1944年作成の略図でも艦載艇は8隻のみが描かれている。 主機は当初ディーゼルエンジンを搭載する計画であったが、この場合でも給糧艦であるため大型の補助ボイラーを搭載する必要があり、機関容積、重量ともに増大するために断念された。その他レシプロエンジンやタービン1軸の案も検討されたが、いずれも問題点があり断念された。搭載された主機のタービンは新設計とすると時間を要するため、敷設艦津軽と同じものとなった。ボイラーは燃料行政上、将来的に重油が枯渇する問題があることから重油と石炭の混焼(文献によっては石炭専焼)とされた。このため煤煙や石炭の粉塵が食品に混入することを防ぐために各種の工夫がされた。排煙内の煤の量を少なくするため、なるべく大きなボイラーを搭載して燃焼度を下げ、また排煙の速度を下げて煙突内で煤を除去しようと煙突の直径を太くした。更に排出された煤が遠くに拡散するように煙突は高くされ、その高さは水面上約28mとなった。 兵装として高角砲は12cm高角砲2門の計画であったが、12cm連装高角砲2基4門となった。機銃は25mm連装機銃が艦橋両舷に1基ずつ装備され、あ号作戦後の1944年6月以降に3連装機銃3基が増備された。
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艦型
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 23:15 UTC 版)
艦型は薩摩型戦艦安芸の拡大発展型で、30㎝(12インチ)連装砲塔6基12門を装備するが、砲塔の全てが船体の中心線上に配置されていない。このため片舷に向けられる主砲は8門であった。また当時の予算の都合と軍令部長東郷平八郎の意見により、艦前後のみ50口径12インチ連装砲塔とし、中央部の4基は45口径12インチ連装砲塔とした。 同型艦摂津との識別点として河内の艦首は直線型艦首であり、一方摂津のそれはクリッパー型だった。摂津の艦首をクリッパー型に変更すると決定した時、河内は既に工事が進行していたため変更は困難で、直線艦首のままとされた。また主機であるカーチス式タービンは川崎造船所で製造された。安芸に対して機関部を強化して約1,000馬力増大しており、排水量は1,000~1,500トン増えたにもかかわらず「安芸」と同等の速力を維持できた。
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艦型
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1923年(大正12年)度計画。日本海軍にとって、設計段階から敷設艦として建造した最初の艦。当初軍令部は遠洋作戦(南洋諸島)での運用を想定し、排水量3,000トンから4,000トン級敷設巡洋艦を希望したが、予算の関係で2,000トンほどの艦型となる。中甲板に機雷敷設軌条6条が設置され、艦尾に投下口が設けられた。機雷は五号機雷の場合500個(六号機雷の場合は300個)を搭載可能。荒天時の敷設を考慮して機雷は全て艦内に収容した。 主機に、潜水艦用のラ式一号ディーゼルを採用(新潟鉄工所製)。日本海軍で水上艦のディーゼル採用は、給油艦「剣埼」に続いて2艦目。戦闘艦艇としては最初の試みとなる。ディーゼル三基のうち両舷二基は、第一次世界大戦の賠償艦であるドイツ潜水艦U125のディーゼルを流用した。敷設時の操舵性を良くするために、日本海軍艦艇としては珍しい三軸推進艦となった。またエルツ舵採用も操舵性向上のためで日本海軍艦艇では珍しかった。2,000トンほどの艦型で機雷搭載量と航続力、砲力を優先したため、速力が犠牲になり17ノット(計画)になった。 船体はフラッシュデッキ型で、艦橋から後方の中甲板のほとんどが機雷庫となっているため、一部居住区が上甲板にはみ出した格好になる。 強行敷設での敵駆逐艦の排除を想定し、主砲には日本海軍軽巡洋艦の標準的な50口径三年式14cm砲で、単装3基を備える。艦橋前シェルター甲板上に1基、後部マスト前後の上甲板上に各1基を配置した。艦橋両側のシェルター(セルター)甲板上には四十口径三年式八糎高角砲を装備。排水量2,000トンの割には有力な砲力もっていた。 爆雷投射機は試験的に最大射程約1,500mの遠距離用爆雷投射機1基を装備、日本海軍では唯一の装備になった。装備位置は後部甲板中心線上で旋回可能、俯仰で射程を調整する装塡演習砲に似た形状だった。
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艦型
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第一次世界大戦で威力を発揮した潜水艦に対する対策の一環として、港湾基地や水道に展開する防潜網(機雷と浮標のついた網)が考案され、これを短時間で敷設する専用の艦種(急設網艦)が求められた。「白鷹」は大正12年度計画。当初計画時は5,000トン級艦だったが、最終的に駆逐艦並の基準排水量1,345トンに縮小された。1929年(昭和4年)、本艦は燕型敷設艇(燕、鴎)と共に完成した。軍艦であるため菊御紋章をそなえるが、艦首端に防潜網揚収用装置があるため、御紋章は艦首両側についている。基本計画番号はH-2と推定されている。 一四式防潜網(急設網、九〇式機雷240個つき)6カイリ分、もしくは五号機雷100個を搭載できた。 船体は艦首のシアはほとんど無く、上甲板舷側には低いブルワークが艦尾まで続き、艦尾は大きく後方に張り出していた。艦内の一般配置は吹雪型駆逐艦に準じて計画され、艦橋やマストも同型に準じている。網庫は前部船艙甲板に2カ所、後部下甲板に2カ所、同船艙甲板に3カ所、敷設軌道は片舷に内側から浮標設置用、九〇式機雷用、五号機雷及び沈錘設置用の3条、両舷で計6条が艦尾まで導設され、網の敷設ために船首楼甲板と上甲板はほとんどが木甲板となっていた。艦尾には網設置指揮所を設けた。 備砲は四十五口径十年式十二糎高角砲3門、盾は無く前甲板に1門、後部上構上に2門が前後に設置された。また12mm単装機銃1挺は艦橋前の機銃台上に設置した。 復元性能は日本海軍艦艇の中で一番悪く、搭載艇の揚げ降ろしだけで艦が揺れたという話が伝わっている。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 07:01 UTC 版)
基本計画番号K3。船体は長さの割に乾舷の高いフラッシュデッキ型の船型で、当初は上甲板にブルワークを設け、不釣り合いな大型の艦橋をもっていた。 舵は21度下開きの傾斜2枚舵を装備した。当時の海軍技術研究所の研究で旋回圏が小さくなるとされたが、実際には旋回性不良のため以後の駆潜艇は通常の1枚舵に変更された。小型艦艇では舵が水面に近くなるために不利であり、第1号の公試時に度々舵が水上に露出したという。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 08:22 UTC 版)
基本計画番号は第51号と第52号がK5A、第53号がK5B。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 22:34 UTC 版)
戦時には前進基地へ進出して機雷敷設や対潜哨戒などを行い、平時には訓練用途を考慮された。このため1929年(昭和4年)に竣工した「厳島」に対し、より小型化・浅喫水を進めている。重油・石炭混焼罐と往復同式機関を搭載した2軸艦で、計画速力はロンドン海軍軍縮条約上限の20ノット。これは前進基地への急速進出を企図した為である。 船体は先に建造された「厳島」が平甲板型船体(フラッシュ・デッカー)を持つのに対し、本艦は船首楼型となる。船首楼甲板の左舷に教練機雷の揚収用軌道1条があるために艦首にほとんどシアがない。甲板にはリノリウムはほとんど張らず、大部分が滑り止め甲板になっていた。上甲板舷側がブルワークで覆われているのは「白鷹」や燕型敷設艇と同様である。艦橋構造も「白鷹」や「厳島」同様、駆逐艦に似たものになった。 機雷は、六号機雷185個(前部の機雷庫に35個、後部に50個、上甲板に100個繋止)を搭載した。機雷庫にある機雷は機雷昇降筒で上甲板に上げられる。前部の機雷は左右舷に1条ずつある軌道で後部へ送られ、後部の機雷庫より後方は軌道が4条に増え、そのまま艦尾から投下される。艦尾には敷設指揮所が設けられた。 主砲は12cm高角砲を前後に1門ずつ搭載、2門とも高雄型と同型のシールドが付いていた。12mm機銃は艦橋前のシェルター(セルター)甲板上に左右並べて設置した。
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艦型
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「瑞穂 (水上機母艦)」の記事における「艦型」の解説
特殊水上機母艦「瑞穂」は、千歳型と同じ②計画に属し、計画要領は同じで、船体主要寸法も同一である。ただ後述するように主機をディーゼルのみとし、速力は22ノットを計画した。これは主機の出力を制限して軍縮条約での制限20ノットとする考えだったと思われる。 航空兵装と甲標的搭載の艤装は千歳型とほとんど同様であるが、主缶(メイン・ボイラー)の煙突が必要無いので格納庫や士官居住区などが改良されて補用機が4機増し、常用24機、補用8機となった。水上機はカタパルトで発進する。また千歳型が発着甲板の試験のために設置した天蓋を廃止、支柱の左右に渡したフラットのみを設置した。その他甲標的搭載に備えたクレーンは、千歳型の場合片舷2基で共吊りしたが、本艦の場合は甲標的用クレーンは片舷1基のみとなっている。 1940年(昭和15年)、艦尾にハイン式マットを装備した。これはドイツで考案実用化され、水上機母艦神威で実験が行われたもので、航行のまま水上機を揚収できるものだった。「神威」では8ノットまでの揚収に成功し、千歳型や大和型にも搭載の計画があったが結局「神威」と本艦以外は装備されなかった。使用のたびに大量の真水で洗浄してから格納せねばならず、使用機会は制限された。 兵装は高角砲が千歳型の2基から本艦は3基(艦橋前に1基、艦橋両舷に2基)に増設された。艦橋前の高角砲を1番、艦橋左舷側砲を2番、艦橋右舷側砲を3番砲と呼称する。25mm連装機銃も、同じく千歳型の6基に対し瑞穂型は10基に増強された。機銃のうち4基は艦橋への機銃掃射を考慮して艦橋周辺に配置し、残りは支柱上に3基ずつ配置した。 甲標的母艦に改造された場合、千歳型と同様甲標的12基を搭載、搭載可能水上機は24機から12機に減少する。一説に開戦後に改造されたとする説明もあるが、開戦後に本艦のみを改造する意味が無く、改造は行われなかったとするのが正しいと思われる。
※この「艦型」の解説は、「瑞穂 (水上機母艦)」の解説の一部です。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 04:14 UTC 版)
千鳥型では度重なる改善工事で速力が27から28ノットまで低下したため、本型では速力を30.5ノットに回復させ、復原性や航洋性を備えることにした。 船体は新しい線図を用いており、千鳥型と艦首形状も異なる。千鳥型より全長で6.5m長くなるなど一回り大きな船体となった。 艦橋は改装後の千鳥型と同じ2層構造であるが、羅針艦橋の天蓋は固定式とし(千鳥型はキャンバス)、トップには3m測距儀が装備された(千鳥型は2m測距儀)。千鳥型にあった羅針艦橋前面の波返しは装備されていない。中国進出時には羅針艦橋の周囲に防弾板が装備された。 缶(ボイラー)は千鳥型と同じ空気余熱器付のロ号艦本式缶、蒸気条件も千鳥型と同じ圧力30kg/平方cm、温度350℃の高温高圧蒸気を使用した。主機は艦本式タービン2基、タービンは高中低圧の3筒になり(千鳥型は高低圧の2筒)、出力19,000馬力(千鳥型11,000馬力)にアップした。このタービンは後に松型駆逐艦の主機に採用されている。機械室については、千鳥型では変則的な縦隔壁で機械室を左右に分けてタービン1基ずつを装備していたが、本型では機械室にタービン2基を装備、その後方を発電機室とする通常の配置になった。 砲は改装後の千鳥型と同じ12cm砲3門だが、新たに十一年式12cm砲(通称M型砲)を採用した。この砲は仰角55度までの射撃が可能で(千鳥型搭載の通称G型砲は仰角33度)、これは上陸作戦での射撃を考慮したと言われている。なお千鳥型で船首楼甲板にあった装填演習砲は本型では後甲板に移されている。 魚雷兵装は新たに九四式53cm3連装発射管を開発し1基装備、防盾(シールド)も装備してした。予備魚雷は無く魚雷3本を搭載、魚雷は六年式魚雷、または八九式魚雷だった。 後甲板にある爆雷兵装、掃海具などは千鳥型に準じている。ただ爆雷投射機は千鳥型の片舷砲(K型砲)2基から本型では九四式爆雷投射機(両舷砲、Y型砲)1基になった。また爆雷投下台は千鳥型の4基から本型では6基に強化された。爆雷は千鳥型と同数の18個を搭載する。太平洋戦争中に掃海具を撤去、爆雷投射機と爆雷投下軌道を増設し、爆雷は48個に増載した。 レーダーは太平洋戦争中に装備した。終戦時残存した「雉」の場合は羅針艦橋後部の信号所に取り付け架台を設けて22号電探1基を装備、前部マストに13号電探1基を装備した。
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艦型
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基本計画番号 F23。設計は急速建造に対応するために桜型駆逐艦(基本計画番号 F10)の図面を流用し、一部改正のみにとどめた。 船体も同一であるが、後述の機関の改正の他、桜型が計画排水量600トンから桜の実際で80トン増となったことから各部の重量配分を改め、計画排水量665トンとした。 主機は桜型と同一のレシプロ3基3軸、主缶(メイン・ボイラー)は桜型がイ号艦本式缶(混焼)5基のところ、後部の2基は初採用のロ号艦本式缶(石炭専焼)とし、前部の3基は大型のロ号艦本式缶(重油専焼)2基に代えて缶を一つ減らした。缶1基分の余った機関前方スペースは重油タンクとして重油60トンを増載し航続力を増大、また重油タンク上部は准士官室とされて居住性が多少改善された。外観上はボイラー改正のため3本の煙突すべての太さ、間隔が違うのが特徴になっている。なお一部の艦では、竣工後に重油タンクからの漏洩が見つかっている。 兵装は桜型と同一で、艦首甲板に12cm砲1門を搭載、突撃時の敵駆逐艦制圧用に前方火力を重視している。8cm砲は2番煙突の左右に1門ずつ、3番煙突後方の1段高いプラットフォームに1門、後甲板に1門の計4門を搭載した。魚雷発射管は前部マスト直後と後部マスト直前に連装発射管を1基ずつ計4門を搭載、予備魚雷は前部用4本、後部用2本となっている。 後甲板には後に連繋機雷である一号機雷乙型(大正10年制定)の敷設軌道が設置された。
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艦型
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建造決定時にタイプシップが一回り小型のコンドル級(フランス語: Classe Condor)に変更されたが、実際に建造された艦はさらに一回り小型となり、全長71.63m、全幅8.23m、吃水3.96m、設計排水量1,000t、マストは3本のうち前檣と後檣は鋼製、中央は木製で、帆走が可能だったと推測され、前檣には信号桁、後檣には斜桁があった。船首部には砲塔はなくタートルバック甲板となっていた。 三番艦については更に小型になっており、全長71.01m、全幅8.02m、吃水3.5mで。公試時の福靖(元の広丁)の速力はさらに低下、機関出力2,000馬力で12.4ktを記録、慣熟航海後設計通りの2,400馬力を発揮すれば13.4ktに達すると見込まれたが、それでも広乙、広丙よりも低い数値であった。また同型艦3隻共に座礁して失われており、ほぼ同時期に建造の畝傍と同様にタンブルホーム構造(英語版)の船体に背の高い帆走用マストがあった為、操舵性、復原性に難があったと推測される。
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艦型
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「千代田 (防護巡洋艦)」の記事における「艦型」の解説
本艦は舷側装甲を持つことから日本初の装甲巡洋艦(Armored cruiser)として扱われることもあるが、その装甲範囲は水線部に帯状の狭い代物でイギリス海軍の「オーランド級巡洋艦」と同じくBelted cruiser(帯甲巡洋艦、または装甲帯巡洋艦と和訳)である、と中川努は述べている。また『海軍軍備沿革』では鋼甲帯巡洋艦としている。砲熕としてアームストロング社の4.7インチ速射砲2門を初めて搭載した。 艦の構造を前部から記述すると、水面下に衝角が付き、水線部に35.6cm水中魚雷発射管1門が付く艦首、艦首甲板上に主砲の12cm速射砲は防盾の付いた単装砲架で1基、頂上部に見張り所を持つ単脚式の前部マストが立つ。その背後に両脇に船橋(ブリッジ)を持つ操舵艦橋が配置され、船体中央部に1本煙突が立つ。その周囲には煙管型の通風塔が立ち並び、空いた場所は艦載艇置き場となっており、艦載艇は2本1組のボート・ダビットが片舷4組で計8組により運用された。煙突の後方に中央マストが一本立ちその左右の舷側に大小さまざまな張り出しが設けられ、そこに12cm速射砲を片舷4基を配置し、挟み込まれるようにその間に4.7cm速射砲を3基配置した。後部甲板上に後部マストと12cm速射砲が後ろ向きに1基が配置された。[要出典] 防水区画と各室が計84あり、間接防御が向上していた。
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艦型
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「日進 (水上機母艦)」の記事における「艦型」の解説
艦型はだいたい瑞穂型と同じ、船体主要寸法は千歳型、瑞穂型より長さ、幅共に若干大きく、バルジは設けられなかった。また艦尾水線部にナックルを付けて旋回性能の向上をねらった。復元性能を考慮し250トンの固定バラストを搭載、軽荷状態ではGM値が不足するので800トンの海水を補填する必要があった。 機関は、千歳型が採用していたタービンとディーゼルエンジン併用をやめ、瑞穂型と同じように主機をディーゼル機関のみとし、1軸につき13号10型ディーゼル2基と13号2型1基をフルカンギアで接続し、それを2組搭載した。大鯨型の搭載した11号ディーゼルは大きな問題があり、それを改良した試作機は大和型戦艦の主機として考えられていて、1937年には一応優秀な結果を残していたが、まだ不十分な点もあった。このため大和型への搭載は見送られ、日進のディーゼルエンジンはこれを流用した。将来の戦艦(超大和型戦艦等)にディーゼルを搭載する布石だったという。速力は28ノットを発揮可能で、日本海軍の大型ディーゼル搭載艦としては初めての成功だった。 前述のように日進型は当初、機雷700個を搭載可能な大型敷設艦として計画された。敷設艦は駆逐艦や仮装巡洋艦との交戦も想定するため、先行3隻(千歳、千代田、瑞穂)の12.7cm高角砲ではなく、50口径三年式14cm砲連装砲を三基、最上型巡洋艦と同じような並び方で配置している。25mm機銃は3連装4基をクレーン支柱兼排気筒の上に装備、後述のする通り前部カタパルトは搭載せず、その基台附近に4基を増設した。 水上機母艦としてカタパルト(射出機)4基を計画していたが、兼甲標的母艦としての竣工時は2基に減らしていた。また当時の標準的な射出機である呉式2号5型ではなく1式2号11型が装備された。これは特殊水偵の搭載を予定していたためである。また搭載機種の変更によりリフトも千歳型(九四式水偵、九五式水偵を搭載)より若干大きく、7.5mx12mとなった。 日進は建造途中に水上機母艦から甲標的母艦へ変更された(前述)。1941年(昭和16年)春頃、日本海軍は甲標的母艦に改造された千代田で、甲標的の発進実験に成功する。日進の建造には、その実績が十分考慮された。舷側に横付けした甲標的を艦内に収容するため、片舷2基(前部40トン、後部20トンで、両舷合計4基)の重量クレーンを装備、千歳型と同様に相吊り式で約50トンの甲標的を収容した。なお、そのうち左舷前部の1本だけアームの長さを12mとし、停泊時に飛行艇を甲板に揚げられるように考慮した。甲標的母艦の中央部には、クレーンで釣り上げた甲標的を艦内に収容するための開口部(ハッチ)がある。日進の格納庫のハッチは長さ26m・幅6mで、艦内格納庫には四列のレールを備える。このうち中央二列が進水敷設用で、高さ4m・幅2.5mのトンネルが艦尾まで抜けている。艦隊決戦の際には、艦尾の水密防扉(高さ4m・幅3m)を開放して甲標的を発進させることが出来る。甲標的母艦時、甲標的を最大12隻、水上偵察機は9〜12機を搭載可能であった。しかし、艦隊決戦の場で甲標的を発進させる機会は訪れなかった。日進は、クレーンを活用して高速輸送艦として運用された。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 04:34 UTC 版)
マスト2本のいわゆるブリッグと呼ばれる船である。左は本艦の装甲配置を示した図である。本艦の基本構造は艦首に鋭い形状の衝角(ラム)を持つ木造船体に2本の帆走用マストと一本煙突を持つ装甲ブリッグである。船体上の2本のマストには本格的な帆走設備が整えられており、蒸気機関が発明されたとは言え機関技術の信頼性がこの時期では未知数で、長期航海時には帆走を行うのが普通であり、本艦の帆の総面積は750平方メートルもあった。艦首水面下の衝角はコードネームの「スフィンクス(Sphinx)」の名の通り、スフィンクスの顎のように艦首の水線面から、先端部を鉄で皮膜した衝角が水中に7mも突出していた。 これは、後の「リッサ沖海戦」でも行われた「衝角攻撃(ラミング)」を行うために特化した設計である。衝角攻撃とは、大砲が発明されていない時代に敵艦の船体を効果的に破壊するために舳先を相手の舷側に突っ込ませて破壊する攻撃方法で、追突した時の衝撃よりも自艦をバックさせて舳先を引き抜いた時に出来る大破口からの浸水により短時間で相手を撃沈できる戦法である。大型の大砲が開発されたとは言え、この時期の砲弾は性能が低く、効果的に敵艦を無力化するには衝角攻撃が主流であった。 他に船体形状で他にも目を引く艦尾形状も特徴的で、当時としては非常に珍しかったクルーザースターン(巡洋艦型船尾)を採用していた。水面下では、舵と推進軸の周辺形状にはツイン・スケグを採用していた。ツイン・スケグとは、船底部からスクリュー軸を伝うように垂直に伸ばされた鰭状の構造物を設け、そのままスクリュープロペラの背後に主舵を配置する形式の事で、スクリューで生じた水流の真後ろに舵が配置されるために舵効きが良く、また、スケグがスクリュー軸を囲って守るのでスクリューに異物が巻きついて行動不能になるのを防ぐ効果もあった。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 01:31 UTC 版)
軍艦天城(あまぎ)は、八八艦隊計画における天城型巡洋戦艦として、横須賀海軍工廠で起工された。艦艇類別等級別表では天城、赤城の順である。一般に「天城型巡洋戦艦/天城級巡洋戦艦」と呼称される。一部資料では、赤城級巡洋戦艦の名前を使用する。書類上は「巡洋戦艦」であるが、実態は「巡洋戦艦の速力、戦艦の火力と防御力」を備えた新世代の主力艦、すなわち高速戦艦である。 ワシントン海軍軍縮条約では、列強各国の戦艦・空母の保有数が制限された。だが建造中の戦艦を中止にする見返りとして、各国とも二隻まで建造中止になった戦艦を空母に改造することが認められ、日本では巡洋戦艦として建造中だった2隻(天城、赤城)を空母に改造することにした。しかし、建造中の天城は関東大震災により破損して、廃棄される。このためワシントン海軍軍縮条約で建造中止が決まっていた加賀型戦艦の「加賀」が「天城」に代わって空母に改造された。呉海軍工廠で建造中の「赤城」は、そのまま巡洋戦艦から空母に改造された。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 05:27 UTC 版)
1921年(大正10年)10月19日の全力公試では排水量33,750トン、87,479馬力で26.728ノットという、後の大和型戦艦に迫る速力を発揮した。長門とは後橋や艦橋指揮場の形状が異なり、艦首フェアリーダーの位置がやや先端に向かっている。艦首は連繋式1号機雷の連繋索を乗り切るための形状となっている。菊花紋章は長門よりもやや高い位置にあった。これは、最終時まで変わらない区別点となった。 新造時には長門が舷側に備える魚雷防御網ブームも新造時の陸奥は装備しておらず、主砲塔の測距儀も、長門の従来型「波式6メートル」から新式の「武式8メートル」という2メートルほど大型化したものに変更されているが、高速時の艦体震動のため、四番砲塔の測距儀は信頼性が低かった。また、長門と同じく、艦橋に吹き込む煙突の排煙・排熱処理が問題となり、長門のものよりも太いファンネルキャップが取り付けられたがあまり効果はなく、1924年(大正13年)3月に屈曲煙突に改装された。この屈曲煙突は長門型戦艦の特徴として知られており、艦橋の10m測距儀の測距精度が向上し、煙突改造の結果は良好だったという。
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艦型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 14:08 UTC 版)
③計画艦のひとつで、基本計画番号H10。「沖島」(同H4)の改型に当たる。「沖島」の準同型艦としている文献も多い。九三式一型機雷600個を搭載した。先行艦(沖島)との相違点は 友鶴事件・第四艦隊事件による船体寸法・艦内配置・建造方法の見直し(沖島は電気熔接だが、津軽は鋲構造)。 艦尾中甲板の機雷投下軌条を、沖島の2条から津軽では4条に増やし、艦尾開口部も四箇所に増設。 主砲を、沖島の50口径三年式14cm砲(連装砲×2、計四門)から津軽では40口径12.7cm連装高角砲二基四門に変更。 沖島の後檣は巨大だったため、津軽では重心降下を狙い縮小。 などである。その他に兵装としては8cm高角砲に換えて25mm連装機銃を装備、艦橋トップの射撃指揮装置は高角砲用の九四式高射装置となった。方位測定室は煙突後方に移動、後部マスト後方にあった探照燈は後部マスト上部に移されている。艦影は「沖島」より全体的に低くなった。 機雷用の設備として煙突の前後両舷に機雷搭載用のハンギング・レールがあり、それぞれの直下に機雷積込口(計4カ所)があった。艦内中甲板は艦橋下あたりから艦尾までのほとんどが機雷格納所となっていて、最大8条の機雷用軌道が敷設してあった。上述の通り艦尾中甲板の敷設軌道は4条となっていて、その他に艦尾上甲板にも2条の軌道があった。また缶室(ボイラー室)前方の下甲板、船艙甲板にそれぞれ機雷庫が設けられた。 「沖島」とのもう一つの違いとして、航空基地補給も考慮に入れており、補給用重油102トン、航空用軽質油125トン(機関室後方に全溶接構造タンク三個)、航空用潤滑油や補給用の爆弾も搭載した。そのため大戦中は輸送任務にも活躍した。 太平洋戦争中にカタパルトと搭載機を撤去、