大鯨
大鯨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 16:50 UTC 版)
日本海軍は本格的な潜水母艦として迅鯨型潜水母艦2隻(迅鯨、長鯨)を保有していたが、八八艦隊の中型潜水艦に対応した能力であった。昭和時代に入って潜水艦の高性能化が進むと、迅鯨型は潜水母艦としての性能が不足するに至った。この状況下、巡潜・海大潜に対応した潜水母艦として建造されたのが、大鯨 と、高速給油艦から潜水母艦になった剣埼である。前述のように、有事には航空母艦に改造することを前提とした設計だったが、潜水母艦の能力も迅鯨型より飛躍的に向上していた。 潜水母艦大鯨は横須賀海軍工廠にて1933年(昭和8年)4月12日に起工された。同年5月23日、大鯨(たいげい)と命名。大鯨は、日本海軍の1万トン級大型艦として初めて電気溶接を多用した。大鯨の計画喫水線長は211.12メートルに達し、これは重巡高雄や妙高より約10m長く、大正期の戦艦山城より若干長い。当時、日本海軍の艦艇で溶接が適用されていたのは、横隔壁や上部構造のような船体の縦強度計算に関係のない部分に限られていた。それを一挙に縦強度にもおしひろげ、シャフトブラケットやスターンチューブ、スターンフレームなども全て鋼板と打物とを溶接で組み合わせられた。また、溶接ブロック方式が考案、実行されたため全体の溶接工事量は膨大であった。そのため溶接工が急速に養成され、最初は70人程度だったものが最終的に200人以上になる(その大部分が三級溶接工であった)。 こうして大鯨の建造は進んだが、溶接の過程で歪みが発生。有効な解決策がないまま船体への溶接が上部に進むに従って、キール前後端の歪みがますます大きくなっていった。そのため船殻工事が完成した頃には艦首端でキールの上昇歪みが150ミリ、艦尾のカットアップで100ミリほどになってしまう。この歪みのためにスクリューシャフト取付に必要な軸心見透しができなかった。また、日中の太陽の熱で暖められた上甲板が、夜になり冷えてくると収縮し船体の前後端が上方にひっぱられ、鋼板がきしみ夜泣きのようにキーンと甲高く響いていたという。この歪みを解消するためいくつかの方法が試みられるがうまくいかず、ついに船体の切断が行われる。艦尾を自重によって下降させようやく歪みを矯正。この切断部はリベットにより連結された。これらの努力により起工後わずか7ヶ月という短期間で進水した。しかしこの時、大鯨はまだスクリューシャフトを通していなかった。進水式の日程は昭和天皇に知らされており、工事を急ざるを得なかった。10月28日、横須賀海軍工廠に大鯨艤装員事務所を設置する。11月16日、大鯨は進水した。横須賀工廠はただちに最上型巡洋艦3番艦「鈴谷」の建造準備に入り、同艦は大鯨と同一船渠で12月11日に起工した。 大鯨は進水直後にドック入りしてふたたび軸心見透しを行った結果、歪みの除去が十分でなく、船体の切断箇所を中甲板まで広げて同一箇所で再切断、また艦首部にも切断箇所を設けリベットにより再結合された。起工翌年の1934年(昭和9年)3月31日に大鯨は竣工し、横須賀鎮守府籍となる。ただし予算上の問題のための形式上のものであり、居住設備の艤装が一部未了、電気配線が一部仮設のまま、主機の運転も済んでいなかった。大鯨艤装員事務所を撤去したものの、そのまま大鯨陸上事務所と改名した。予備艦となって引き続き工事を続行。同時に友鶴事件の対策工事も行い、固定バラストの搭載などを行った。空母改造を秘匿するために最上甲板(空母時の飛行甲板)に搭載の予定だった短艇類は一部を残して艦尾に移動させた。補給用真水タンクも同所に設置予定だったが、後部機械室に予定された箇所へ移動した。同年7月1日に呉鎮守府へ転籍、11月15日に練習艦となり、11月20日に実質的に竣工した。11月下旬、大鯨は横須賀を出発した。24日には伊勢神宮沖合に到着する。翌日出発し、呉に到着した。ただし細部の艤装は未決定の部分があり、翌年春頃まで呉海軍工廠で艤装工事を行ったという。 基本計画時の公試排水量10,500トンは、竣工時計画で公試排水量10,717トンにまで増えていたが、友鶴事件の対策で更に固定バラスト1,000トンを搭載し計画で公試排水量11,717トンとなった。また実際の排水量は公試排水量12,662トン、満載排水量14,282.5トンとなっていた。兵装は機銃、射出機、高射装置などがまだ未装備であり、探照燈も未装備だった。高角砲は1935年(昭和10年)春頃までは12cm連装高角砲2基を搭載しており、同年秋頃には12.7cm連装高角砲に換装されていた。水偵は一四式水上偵察機が搭載されていた。 日本海軍の大型艦艇に初めて採用されたディーゼルエンジンは問題が多く、発煙も多く故障が続出し出力は予定の半分の馬力がせいぜいであり、根本的な欠陥を示した。同年9月18日に行われた公試では18,254馬力で20.1ノットだったという。当時潜水艦用の主機としてディーゼルエンジンは成功を収めており、ドイツ海軍の装甲艦ドイッチュラントがディーゼルエンジンを採用したことから、日本海軍も大型水上艦用ディーゼルエンジンの試作を1932年(昭和7年)から始めていた。しかし、ドイツの場合でも実用化には約10年かかっており、大鯨への採用は日本海軍関係者の一部でも無謀とされていた。 また竣工翌年9月には第四艦隊事件が発生した。大鯨は第四艦隊・第二戦隊(足柄、川内、大鯨)となり、アメリカ軍戦艦と想定されて参加した。9月26日午後2時10分、大鯨は後部防水扉の破損により舵取機室昇降口から海水が流入、電動機の故障により舵がきかなくなり、台風の中で人力操舵を余儀なくなされた。同日には第一航空戦隊(龍驤、鳳翔)や第四水雷戦隊各艦も台風で損害を受けている。横須賀入港後の調査では、船体溶接部分に亀裂が見つかり、応急修理を受けたあと呉に向かった。1936年(昭和11年)1月、再び横須賀に戻り、同年2月から翌年7月まで主機換装と性能改善工事を行う。またこの時、二・二六事件に遭遇している。 日華事変の勃発により一旦工事を終えて、1937年(昭和12年)8月に第3艦隊に編入し中国方面へ出撃、同年10月には再度予備艦となって工事を再開した。第四艦隊事件対策後に空母改造を再検討した結果、更に船体の補強やバルジの装着、固定バラストの追加などが必要となっていた。これらは1938年(昭和13年)夏に大臣決裁を得て、同年度中に工事を終了したという。この時点で高射装置と右舷に射出機1基を搭載、更に船体側面にはディーゼルエンジン吸気口と思われる構造物が追加されている。第4艦隊事件の対策として艦尾甲板を1甲板分上げたのもこの時とされる。 これらの問題解決に時間を費やした結果、実際の就役は大幅に遅れて1938年(昭和13年)9月5日に第一潜水戦隊に編入された。9月8日、第一潜水戦隊旗艦は伊7から大鯨に変更された。 1938年(昭和13年)の艦隊編入後は、北支方面や南洋方面で進出し隷下潜水艦と共に活動した。1940年(昭和15年)11月15日、日本海軍は第六艦隊を新編する。大鯨は同艦隊・第一潜水戦隊へ編入。当時、第一潜水戦隊は第六艦隊司令長官の直率部隊だった。翌1941年(昭和16年)1月16日には1日だけ第六艦隊旗艦を練習巡洋艦香取から引き継いだ。4月10日には第六艦隊・第二潜水戦隊へ編入された。呉で整備中の5月1日、日本海軍は第一潜水戦隊司令部を新編する(司令官鋤柄玉造少将)。第一潜水戦隊旗艦は特設潜水母艦さんとす丸に指定され、大鯨は5月3日に伊号第七潜水艦より第二潜水戦隊旗艦を引き継いだ。9月3日、大鯨は軽巡洋艦五十鈴より第三潜水戦隊(司令官三輪茂義少将)旗艦を引き継いだ。10月3日、第三潜水戦隊旗艦は大鯨から伊号第八潜水艦に変更された。 11月10日、三輪少将(三潜戦司令官)は第六艦隊旗艦香取(司令長官清水光美中将)で真珠湾攻撃の打ち合わせをおこなう。翌11日、三潜戦旗艦を大鯨から伊8に変更する。第三潜水戦隊各艦(旗艦〈伊8〉、第11潜水隊〈伊74、伊75〉、第12潜水隊〈伊69、伊68、伊70〉、第20潜水隊〈伊73、伊71、伊72〉、附属〈大鯨〉)はクェゼリン環礁へ進出した。大鯨が別行動をとったのは、企図秘匿上の措置である。クェゼリンに三潜戦各艦(大鯨を含む)が終結後、11月20日に三輪少将(三潜戦司令官)は大鯨艦上で初めてハワイ作戦を各潜水艦長に伝達した。参集者の士気は大いに揚ったという。翌日以降、三潜戦各艦はハワイ方面に出撃した。開戦直前の12月4日、大鯨は呉港に帰港した。その後、横須賀に回航された。 1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発する。12月中旬、潜水母艦剣埼の空母改装が完了し、空母祥鳳と改名された(12月22日附)。祥鳳の完成に先立つ12月20日、大鯨は第三予備艦に指定され、横須賀海軍工廠で航空母艦への改装に着手した。
※この「大鯨」の解説は、「龍鳳 (空母)」の解説の一部です。
「大鯨」を含む「龍鳳 (空母)」の記事については、「龍鳳 (空母)」の概要を参照ください。
- >> 「大鯨」を含む用語の索引
- 大鯨のページへのリンク