友鶴事件とは? わかりやすく解説

友鶴事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/07 20:12 UTC 版)

竣工時の水雷艇「友鶴」

友鶴事件(ともづるじけん)は、1934年昭和9年)3月12日に行われた水雷戦隊の夜間演習中に佐世保港外で起きた大日本帝国海軍(日本海軍)の千鳥型水雷艇3番艦「友鶴」の転覆事故、及びその後の事故原因究明作業を通じて明らかになった艦艇設計理念上の重大な不備のことである。翌年に発生した第四艦隊事件とともに日本海軍を震撼させ、その後の艦艇設計に大きな影響を及ぼした。

事件の概要

演習当日は折からの荒天で波浪が高かった。水雷艇には計算上は90度から110度程度の傾斜でも転覆しないような復原力を持たせる設計が施されていたにもかかわらず、午前4時12分頃、「友鶴」は40度程度の傾斜で転覆。その後捜索により発見された友鶴は随伴の佐世保警備戦隊旗艦「龍田」に曳航されて翌3月13日に佐世保海軍工廠乾ドックに入渠、排水したところ、艇内の生存者13名が救出された[1]。結果として総員113名中死者行方不明100名を出す大惨事となった。

この事故に衝撃を受けた海軍が徹底した原因究明を行ったところ、艦船の艤装と復原性に関しての問題点が浮上し、再検討が加えられることになった。

また同艦を設計した艦政本部藤本喜久雄造船少将は、この事故の責任を取る形で謹慎処分となり、翌年満46歳 (享年47) で脳溢血により急死した。

長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園に、この事故で殉職した士卒の慰霊碑がある。

事件の背景

日本海軍は1930年(昭和5年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約により、主力艦戦艦航空母艦)だけでなく巡洋艦駆逐艦といった補助艦艇の建造にも制限を受けることとなった。そこで補助艦艇の制約を補うため、条約の制限外だった基準排水量600トン以下の船体に駆逐艦以上の重武装を施した、小型駆逐艦ともいうべき水雷艇を建造することになった。これが、「友鶴」の属する千鳥型水雷艇である。

事故の原因と対策

米内光政司令長官の命により、徹底的な調査と原因究明がなされた。その結果、『仕様上は』充分な復原力(条件により、浮力が傾斜を戻そうとする力が生ずる)を保持していた友鶴は、『実際には』過重な兵装と未熟な工作技術による重心上昇(トップヘビー)と復原性不足を負っており、それが事件の原因とされた。さらに背景として、設計側は用兵側の(物理法則を無視した)要求に追従し、根本的欠陥を抱えた艦船を多数送り出してしまっている状況が指摘された。 この事件をきっかけに、大型艦60度、中型艦90度、小型艦90 - 110度以上の復原性を持つことが要求され、吹雪型初春型で復原性・重心対策改修が実施された。友鶴もこの改修を受け、翌1935年(昭和10年)5月に再就役し1945年(昭和20年)に戦没するまで活動した。

ただし近年の研究では、「追波(おいなみ)」に対して保持すべき進路を誤った艇長の操艦ミスや、当時の復原性理論自体の限界、つまり当時主体だった『静的』復原性理論に対する、風圧や旋回遠心力傾斜を含めた『動的』復原性解析の未発達も指摘されている。これは、追波下での急旋回では旋回の遠心力に加えて縦揺れ(ピッチング)が横揺れ(ローリング)に転化した傾斜モーメントに、追風の風圧も重なって船を旋回円の外側に向けて傾斜させる大きな外力を受ける可能性を示唆され、『静的』復原性を上回る傾斜モーメントが働き、転覆に至ったと見られている。この重心上昇に対し現代の艦船は、船体の幅広化(平底船や双胴船を除く)、ジャイロ小型船舶)やフィンスタビライザーなどの対策を講じている。

事件を題材とした作品

脚注

関連項目

外部リンク


友鶴事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 11:29 UTC 版)

友鶴 (水雷艇)」の記事における「友鶴事件」の解説

1934年3月12日午前4時12分頃、佐世保港外で夜間訓練中、荒天のため転覆し殉職者72名を含む総数100名の犠牲者を出すという事故(友鶴事件)が起こった同日午後2時5分に転覆した友鶴発見し佐世保警備戦隊旗艦龍田」が曳航して翌日午前7時佐世保到着佐世保海軍工廠ドック入渠させ艇内から生存者10名を救出した調査結果千鳥型を含む藤本喜久雄造船少将設計していた艦は、復原性の不足が指摘され改善工事が行われた。友鶴修理復旧工事復原性改善工事佐世保工廠行われ1935年昭和10年5月完成した復原性改善工事内容は「千鳥」を参照)。 1935年9月第四艦隊事件起き千鳥型も1936年昭和11年8月から11月にかけて改善工事が行われた。詳細明らかでないが他艦ほど大きな問題にはならなかったようである。ただ速力は更に低下し27ノットほどだったと言われる1936年昭和11年12月に第21水雷隊を同型艇4隻で編成し中国方面進出上陸支援封鎖作戦などに従事した太平洋戦争開戦後緒戦南方攻略作戦支援その後船団護衛などに従事した1942年3月15日軽巡洋艦鬼怒」、水上機母艦千歳」や駆逐艦雪風」、「時津風」などとともにN攻略部隊編成し同月末から西部ニューギニア戡定作戦従事。N攻略部隊アンボン集結し3月29日夜から30日早朝にかけて出撃4月22日にN攻略部隊マノクワリ集結完了して作戦終了し翌日N攻略部隊の編制解かれた。続いて軽巡洋艦五十鈴」などとともにS攻略部隊編成し小スンダ列島戡定作戦従事。「友鶴」は集結地のスラバヤ5月7日到着し翌日部隊同地出撃5月21日から25日にかけてスラバヤ帰投し、5月25日にS攻略部隊の編成解かれた。 1943年1月2日から5日陸軍杉浦支隊が「國玉丸」でアンボンからアルー諸島輸送され、「友鶴」と「初雁」がそれを護衛した続いて友鶴」は杉浦支隊一部カイ諸島輸送6日輸送終えアンボン向かったが、その途中で爆撃を受け至近弾で損傷し死者7名負傷者7名を出した。「友鶴」は機械室第二缶室に浸水して航行不能となり、「初雁」に曳航されて12日アンボン到着した

※この「友鶴事件」の解説は、「友鶴 (水雷艇)」の解説の一部です。
「友鶴事件」を含む「友鶴 (水雷艇)」の記事については、「友鶴 (水雷艇)」の概要を参照ください。

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