防弾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/14 02:29 UTC 版)
防弾(ぼうだん、英語:Bullet resistance,Bulletproof)とは、銃弾の貫通を食い止める性能のことである。
注釈
- ^ 後世、弾の形状が突き出た流線型となった第一次世界大戦前後においてもドイツ軍野砲の防楯の厚さは3mm厚であるが、銃器の性能が高まり、貫通力が増すにつれて、厚さも増している(防楯 (日本軍)も参照。倍の厚さとなっている)
- ^ 前述のように、防弾を意識して壁を補強するといった行為自体は戦国期から見られる(実際、実験が行われて防げたのか、どの程度、防弾効果があったのかは不明)
- ^ 土塁は防弾だけを目的とせず、人を含んだ多目的遮蔽物である
- ^ 人塁は、一種の有機性の複合素材といえ、皮・肉・骨からなる(場合によって防具を含む)。難点としては、土や石と異なり、環境によって腐敗=強度の劣化が進む事があげられる
- ^ 木製の門は最低でも9cm厚なければ、防弾できないということになる。例として、高知城の追手門は厚さ15cmのケヤキでできており、城門にも防弾意識があることがわかる
- ^ 日本の胴具の場合、弓弦を耳の後ろまで引く都合上、中心部が突き出た流線的形状だと弦が引っかかってしまうため、丸みをおびているものの、弾丸を受け流すほどの角度には至らなかった
- ^ 腿部は「草摺」と「佩盾」(共に小札で2枚重ね、部分的には計4枚重ねとなる)に守られ、上腕部も腕を下げた状態なら「袖(小札2枚重ね)」と「鎧直垂上腕部に張りつけられた鉄片」、つまり部分的には3枚分の厚さとなり、いずれも3mm厚は超える
出典
- ^ National Institute of Justice. “Ballistic Resistance of Personal Body Armorv”. U.S. Department of Justicedate=April 1987. 2008年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月29日閲覧。
- ^ "MIL-STD-662F V50 Ballistic Test for Armor" Army Research Laboratory, Weapons and Materials Research Directorate Publication Date:Dec 18, 1997
- ^ ГОСТ Р 50744-95 Бронеодежда サイト:Кодекс
- ^ 参考・今谷明著 『戦国の世 日本の歴史[5]』 岩波ジュニア新書 2000年 p.103
- ^ “Dr. George Goodfellow”. 2014年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年3月8日閲覧。
- ^ The Long, Fraught History of the Bulletproof Vest 著:Kenneth R. Rosen 更新日:April 2, 2020 参照日:Oct 30, 2021 サイト:スミソニアン
- ^ 『多聞院日記』に「鉄砲も通さぬ用意」があると記述される鉄甲船の鉄板外装厚も3mmとされ(鉄甲船を参照)、「鉄板では、3mm厚が防弾性の最低限の目安」といえる厚さである
防弾
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第6作では1話で名無しが放った逆五芒星の矢で射られても翌朝まで失神する程度で済んでいるが、95話で総理が放ったすべての妖怪に有効な対妖怪用の銃弾はちゃんちゃんこでも防ぎきれず、最後は衰弱した所に後ろから頭部を撃たれ消滅してしまった。第4作35話では土地転がしに発砲された時は防弾の効果を発揮しなかったが、鬼太郎自身にダメージはなかった(弾は口から吐き出している)。
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防弾
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当時、搭載火器による弾幕と高速力で敵迎撃機から身を守ることが可能という「戦闘機無用論」が存在していたが、九六式陸攻が日中戦争の渡洋爆撃においてかなりの損害を出したことから、十二試陸攻の要求性能には防弾装備も挙げられている。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}しかし当時最新の研究から、「近い将来、欧米の航空機銃は20mm級が主流になると考えられるが、これに対応した防弾装備と搭載力・航続力を併せ持たせることはエンジン出力から見て不可能なことから、防弾は最小限にして軽量化を図り、速力や高高度性能等の向上によって被弾確率を低下させた方が合理的」と考えられたため、要求時点から防弾の優先順位は低く、実機の開発においても他の性能を落とさないため、犠牲にされたという経緯がある。[要出典] 当然、海軍も十二試陸攻の要求性能で大丈夫と考えていた訳ではないようで、十二試陸攻が発注された翌年の1938年に陸攻護衛専用遠距離戦闘機の「十三試双発陸上戦闘機」(後の夜間戦闘機「月光」)、及び四発陸攻の「十三試大型陸上攻撃機」(後の「深山」)が同時に発注されていることからもそれが伺える。[独自研究?] 海軍の性能要求に対し、当初三菱は三発もしくは四発機とすることを海軍に逆提案したものの、拒否されている。これは三菱に要求されたのは双発陸攻で、四発陸攻は翌年に十三試陸攻として発注する予定があるためで、既に九六式陸攻と九七式飛行艇という実績を挙げている三菱と川西に双発の十二試陸攻と四発の十三試大艇(後の二式飛行艇)の開発を、四発機の経験に乏しいものの、長年に渡ってダグラス DC-2のライセンス生産を行っている中島にDC-4Eを原型とした十三試大攻の開発を発注して、双発陸攻と四発飛行艇を確実に実用化し、更に欧米からの技術導入により四発爆撃機の実用化を図ろうとするのは、既に渡洋爆撃等で大きな被害を受けていた海軍としては自然な判断である。[独自研究?] 米軍の第二次世界大戦における主力爆撃機のひとつであるボーイングB-17フライングフォートレスは、双発機相当の性能要求に対して四発機で応えたため、高性能ではあるものの高価な機体になり、より安価なダグラスB-18ボロ(DC-2原型の双発爆撃機)が1930年代の米陸軍航空隊の主力爆撃機の座を占め、B-17は採用はされたものの少数生産に留まった。B-17が主力爆撃機の座を占めるのは、アメリカの参戦以降である。 一式陸攻は厳しい航続距離の要求性能をクリアするため、燃料タンクとして主翼内構造を水密化したインテグラルタンクを採用したため、全面的な防弾装備(燃料タンクを防漏用のゴムで覆い、被弾により破孔が開いても漏れたガソリンによって溶けたゴムで破孔を塞ぐ装備)を施せなかった、とされているが[誰によって?]、最初の量産機である一一型(G4M1)には、前後桁と燃料タンク側面に防弾ゴムが貼られていた。しかし、これだけでは不完全であったため、太平洋戦争が勃発すると甚大な被害が発生したことから、1943年(昭和18年)頃からは、速力と航続力の低下を覚悟の上で主翼下面外板に30mm厚のゴム板が貼られた他、並行して二酸化炭素噴出式の消火装置も装備されている。更に1943年(昭和18年)春から自動消火装置の装備が始まる。この装置は火災を電気的に感知し、自動的に二酸化炭素を噴出して消火するもので、効果の限定的な応急消火装置は急速にこの自動消火装置に置き換わっていき、自動防漏は困難だったが消火装備は充実していった。 これらの防弾装備は一定の効果を見せた(現地部隊から被弾しても帰還した例が報告されている)ものの、悪化する戦況下では不十分であった。このため性能向上型の二二型(G4M2)ではインテグラルタンクに防弾ゴムを装備することが計画されたが、ゴムが熱によって燃料と反応し、溶解するなど、取り扱いは困難を極めたため、防弾ゴムの搭載は断念され、一一型と同じ防弾装備にならざるを得ず、「桜花」母機型である二四丁型(G4M2E)になり、一番燃料タンク・燃料コック・操縦席背面に防弾鋼板が追加された。 更なる戦況の悪化に伴って開発された三四型(G4M3)では、桁を一本にした新型翼に変更、インテグラルタンクを廃止して自動防漏タンクを装備したが、構造変更による容量減に加え、当時の日本の重化学工業の水準で必要な防弾性能を得るためには相当に厚いゴムを張らねばならず、結果として航続距離が3割も低下するという結果を招いた。もっとも、完成が終戦間際であったことと、既に、より高速で設計当初から防弾装備を備えた陸上爆撃機「銀河(P1Y1)」の配備が進んでいたため、60機の生産に終わっている(防弾ゴムに必要とされる良質な天然ゴムの供給も絶たれつつあった。耐油性のない天然ゴムに貼り付けることでガソリンによってゴムが溶けることを防ぐ鐘淵紡績のカネビアン樹脂が注目されていたが、終戦までに量産体制が整わなかった)。
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