最初の弩級戦艦
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日本の1903–04年度計画の戦艦2隻(薩摩と安芸)は12インチ (305 mm) 砲8門の搭載が考えられており、世界初の単一巨砲艦となる可能性があった。しかしその設計の装甲はあまりに薄いと判断され、根本的な再設計を要求された。そして日露戦争による財政的な圧迫と、イギリスからの輸入に頼っていた12インチ砲の供給不足から、最終的には12インチ砲と10インチ (254 mm) 砲の混載艦として完成した。また1903–04年度艦は、主機も、ドレッドノートと異なり、従来型の三段膨張式往復蒸気機関であった。 弩級戦艦への躍進は1905年10月に英国で起こった。新任の第一海軍卿ジョン・アーバスノット・フィッシャーは長い間イギリス海軍の技術革新を唱えてきた人物で、単一巨砲艦のアイデアに確固たる信念を持つに至っていた。フィッシャーはしばしば弩級戦艦の発案者かつイギリスの大弩級戦艦艦隊の父と信じられており、彼自身その印象を強めようとしている。しかし、当時のフィッシャーの関心の中心は戦艦でなく巡洋戦艦であったと考えられている。 フィッシャーは就任後まもなく、将来の戦艦と装甲巡洋艦の設計を考える委員会を設立した。委員会の最初の仕事は新しい戦艦を考えることだった。新戦艦の仕様は、口径12インチの主砲と対水雷艇用の砲を持ち、中間砲を持たず、既存の戦艦より2、3ノット速い21ノットの速力を持つというものであった。最初に考えられたデザインは12インチ砲12門というものであったが、これは砲の配置が困難であり、造船官は初め12インチ砲4門に9.2インチ (234 mm) 砲16ないし18門の設計に戻すよう求めた。結局、公式観戦士官ウィリアム・クリストファー・パケナム大佐によって編纂された日本海海戦の完全な評価報告に基づき、委員会は新戦艦に12インチ主砲10門と、12ポンド砲22門からなる副砲を備えることを決定した。 委員会はまたこの新戦艦ドレッドノートを蒸気タービン推進とするという冒険を試みた。これは大型軍艦では前例のないことだった。タービンによる大きな効率は、往復動機関を使った場合より小型でかつ安価な船で、21ノットの設計速度が得られることを意味した。建造は著しいスピードで進められた。ドレッドノートは1905年10月2日に起工され、1906年2月10日には進水が行われた。そして10月3日には竣工を迎え、イギリスの工業力を強烈に印象付ける形となった。 アメリカ最初の弩級戦艦はサウスカロライナ級である。本級の詳細計画は、1905年7月から11月にかけて進められ、1905年11月23日に建艦委員会の承認を得た。しかし、建造は遅れ、入札要領が示されたのは1906年3月21日、契約締結は7月21日、2隻が起工されたのはドレッドノート完成後の1906年12月になってからだった。
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