最初の弩級戦艦とは? わかりやすく解説

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最初の弩級戦艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 02:05 UTC 版)

弩級戦艦」の記事における「最初の弩級戦艦」の解説

日本の1903–04年度計画戦艦2隻(薩摩安芸)は12インチ (305 mm) 砲8門の搭載考えられており、世界初単一巨砲艦となる可能性があった。しかしその設計装甲あまりに薄いと判断され根本的な再設計要求された。そして日露戦争による財政的な圧迫と、イギリスからの輸入頼っていた12インチ砲の供給不足から、最終的に12インチ砲と10インチ (254 mm) 砲の混載艦として完成した。また1903–04年度艦は、主機も、ドレッドノート異なり従来型三段膨張往復蒸気機関であった弩級戦艦への躍進1905年10月英国起こった新任第一海軍卿ジョン・アーバスノット・フィッシャー長い間イギリス海軍技術革新唱えてきた人物で、単一巨砲艦のアイデア確固たる信念を持つに至っていた。フィッシャーはしばし弩級戦艦発案者かつイギリスの大弩級戦艦艦隊の父と信じられており、彼自身その印象強めようとしている。しかし、当時フィッシャー関心中心戦艦でなく巡洋戦艦であった考えられている。 フィッシャー就任後まもなく、将来戦艦装甲巡洋艦設計考え委員会設立した委員会最初の仕事新し戦艦考えることだった。新戦艦仕様は、口径12インチ主砲と対水雷艇用の砲を持ち中間砲持たず既存戦艦より2、3ノット速い21ノット速力を持つというものであった最初に考えられデザイン12インチ12門というものであったが、これは砲の配置が困難であり、造船官は初め12インチ砲4門に9.2インチ (234 mm) 砲16ないし18門の設計に戻すよう求めた結局、公式観戦士官ウィリアム・クリストファー・パケナム大佐によって編纂された日本海海戦の完全な評価報告に基づき委員会新戦艦12インチ主砲10門と、12ポンド22からなる副砲備えることを決定した委員会はまたこの新戦艦ドレッドノート蒸気タービン推進とするという冒険試みた。これは大型軍艦では前例のないことだった。タービンによる大きな効率は、往復動機関使った場合より小型でかつ安価な船で、21ノット設計速度得られることを意味した建造著しスピード進められた。ドレッドノート1905年10月2日起工され、1906年2月10日には進水が行われた。そして10月3日には竣工迎えイギリス工業力を強烈に印象付けるとなったアメリカ最初の弩級戦艦はサウスカロライナ級である。本級の詳細計画は、1905年7月から11月にかけて進められ1905年11月23日建艦委員会承認得た。しかし、建造は遅れ、入札要領示されたのは1906年3月21日契約締結7月21日、2隻が起工されたのはドレッドノート完成後の1906年12月になってからだった。

※この「最初の弩級戦艦」の解説は、「弩級戦艦」の解説の一部です。
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