建造の経緯
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「ドルフィン (SS-169)」の記事における「建造の経緯」の解説
ドルフィンのモデルシップは第一次世界大戦の賠償で得たUボートのうち、Ms型潜水艦の一つである U127型潜水艦である。1926年に開かれた潜水艦関連の会議において、U127型潜水艦が巡洋潜水艦として最低限の能力を持つとして「潜水部隊の総意」として建造が要望された。建造に際し、構造一切をアメリカ海軍方式に改めた上で試作艦として建造されたのが V-7 であり、建造途中に命名方式が変わってドルフィンと名付けられた。 モデルのU127型潜水艦と比較すると、ドルフィンは魚雷の搭載数が21本と艦型の割に多く、機関も艦型に手ごろなエンジンを得たことにより、艦型自体の小ささと魚雷射線の少なさ以外は、ほぼ潜水部隊の要望どおりの潜水艦となり、おおむね好評であった。しかし、1930年のロンドン海軍軍縮会議による潜水艦整備計画の修正により、同型艦が建造される事はなかった。 なお、1932年度計画で建造されたカシャロット級潜水艦も、ドルフィンと同様に U127型潜水艦をモデルシップとするが、艦型はドルフィンより小型となっている。
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建造の経緯
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隠岐の久見地区、加茂地区、津井地区には縄文期に縄文人が黒曜石を採取して石器の材料とした採石場が存在しているが、これらの地区で採取された黒曜石は本州でも出土している為、縄文人が何らかの舟艇によってこれを運搬したと考えられた。最も有力な説としては、丸太を削りだした丸木舟による海上輸送を行ったというものがあった。 この説の有効性を実証する為、松江市内の小中学校の教員たちの有志が「からむし会」と名乗るNPO組織を結成。千葉市畑町の落合遺跡(現・東京大学検見川総合運動場)から出土した縄文時代の丸木舟をモデルとした丸木舟を建造して、隠岐から本州まで漕走するという計画を立案した。 「からむし会」はまず実物の3分の1の縮小模型(からむしI世と呼ばれる)を製作して丸木舟の性能を検討し、次いで輸入材を私費により購入。丸木舟「からむしII世」を建造した。
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建造の経緯
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1920年代後半、日本郵船は、北米向けの太平洋航路の刷新のため、新造船による保有船の大規模な更新を進めていた。本船を含む浅間丸型は、その目玉として建造が計画された。商業的に見ると各国の大型客船と同様に採算が難しかったが、客船重視の日本郵船の経営理念や、戦時の徴用を意図した国防上の強い要請もあって建造が決まった。 後に秩父丸となる浅間丸型2番船は、はじめ川崎造船所に発注された。ところが、基本設計などが終わった段階で、金融恐慌の影響により川崎造船所が経営難で操業継続に支障をきたしたため、横浜船渠での建造に変更される。1927年(昭和2年)8月19日、契約締結。当時の横浜船渠は7,000トン程度までの中型船の建造実績や川内型軽巡洋艦3番艦「那珂」等の建造実績しかなく、本船が初めての大型船建造の経験となった。日本郵船より阿部吾一(船舶監督)を横浜船渠常務として迎え、阿部の指揮下で建造された。阿部を筆頭に、20名以上の技師や工員をヨーロッパに出張させ、材料調達や研究に取り組んだ。各種資材・客室装備・艤装等は輸入品だった。またワシントン海軍軍縮条約により航空母艦(空母)建造を制限された大日本帝国海軍は、有事において大型客船を空母に改造することを計画していた。海軍は逓信省を通じて浅間丸型の設計に関与し、特に前後部の船倉口は航空機用エレベーターとなる予定だった。 「秩父丸」(建造番号 S170)は1928年(昭和3年)2月6日に、5号船台で起工。1929年(昭和4年)5月8日の進水式は、見学した来賓2,000名、観客20,000名と伝えられる。「秩父丸」と命名されて艤装が進み、同年12月24日には試運転、各種試験航海を経て翌1930年(昭和5年)3月10日に竣工した。本船は当事の日本における最大級の客船で、総工費は1193万円を要した。また船名にちなんで、船橋内には秩父神社の神霊が奉安された。 本船は姉妹船2隻(浅間丸、龍田丸)と基本的に同型だが、これら2隻は主機にスルザー型の2サイクル単動ディーゼルエンジン4基を搭載し4軸にしたのに対し、「秩父丸」ではデンマークのバーマイスター・アンド・ウェイン(B&W)社製8気筒4サイクル複動ディーゼルエンジン8840D150型(シリンダー径840mm行程1500mm)2基 2軸を採用した点で異なっていた。このディーゼルエンジンは1925年(大正14年)就航の同規模のスウェーデン客船「グリップスホルム」(17,993総トン)に6気筒のB&W 6840D150型が搭載され良好な使用実績をあげており、日本郵船もこのエンジンの搭載を希望した。建造所が変更になった際、B&W型エンジンの経験が無い横浜船渠は主機の変更を要望したが、B&Wエンジンの輸入代理店でライセンシ―でもあった三井物産からの大幅な価格引き下げ提案もあって、そのまま搭載が決まった。この搭載主機の違いから秩父丸は太い一本煙突となり、姉妹船2隻が2本煙突であるのと外観上で顕著な違いを生じている。三菱(横濱船渠)は「3隻が全く同型であると、その中の一隻に事故が起きるという迷信」を避けたためと説明している。 姉妹船2隻より500トン余り大きな17,526トンという総トン数は、竣工当時の日本客船としては最大だった。また船内装飾も姉妹船2隻と異なっている。2隻(浅間丸、龍田丸)の内装はクラシックデザインとして英国ワーレンギロー社に発注されたが、「秩父丸」はモダンデザインを採用。高級客室部分は英国ヒートン・タブ社、公室部分は仏国マーク・シモン社、客室のうち2つにあった日本間は竹中工務店が担当した。その後も1989年(平成元年)にふじ丸が竣工するまで59年にわたり日本客船史上最大の地位を保ち続けた。
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建造の経緯
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「凌風丸 (気象観測船・初代)」の記事における「建造の経緯」の解説
1934年(昭和9年)9月に西日本を襲った室戸台風は、甚大な被害をもたらした。そこで、台風対策として気象観測体制の強化が行われることになり、同年11月の第66回臨時帝国議会で、かねてから岡田武松ら気象関係者が要望していた本格的気象観測船の建造が承認された。建造費は50万円以上となった。 新造気象観測船の任務は、太平洋上の離島を拠点に整備予定の気象観測網への補給及び航行中の気象データ収集のほか、当時、東北地方で発生して問題になっていた冷害(昭和東北大凶作)の原因調査、オホーツク海での結氷状況の調査など多岐にわたるものとされた。そのため、悪天候下でも航行できる優れた復元性や凌波性、耐氷構造の船体、各種実験観測設備などが要求された。居住性は優れたものとされ、観測拠点支援用の医療設備や食糧冷凍庫も備えられた。 本船の設計は東京帝国大学工学部の浅川彰三教授を主任とし、建造は播磨造船所に発注された。1937年2月3日に起工され、同年5月17日に進水、同年8月31日に竣工した。台風シーズンに間に合うよう、建造は急ピッチで進められた。船名は同年4月22日に「凌風丸」と命名された。これは、江戸時代に本多利明が蝦夷地調査に使用した似関船にちなむ名前である。
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建造の経緯
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日本におけるタンカーの建造は、1907年(明治40年)の帆走タンカー「宝国丸」、翌年の汽走タンカー「虎丸」を皮切りに始まった。これらが沿岸用の小型船である中、浅野物産は大規模精油事業を志して大型タンカー船隊の整備を図り、1907年には国産初となるはずだった大型タンカー「紀洋丸」を起工した。しかし、浅野物産の事業計画は、日本政府の国内油田保護政策のために頓挫し、「紀洋丸」も貨客船に設計変更されてしまった。 その後、海軍艦艇への石油燃料機関導入などにより、日本での石油需要は次第に伸びた。1916年には日本海軍の給油艦として「志自岐」が竣工、本格的な民間タンカー建造の機運が高まってきた。「紀洋丸」も、火災事故を機に当初計画通りのタンカーへの改装工事が開始された。 そこで、第一次世界大戦後、鈴木商店が新造タンカーとして計画したのが「橘丸」型3隻であった。鈴木商店は満州産大豆油の輸出用と、北米産石油の輸入用として外航タンカーの整備を企画した。船主は鈴木商店系列の帝国石油で、建造は同じく鈴木商店系列の神戸製鋼所播磨造船所へと発注された。1920年(大正9年)11月24日に起工された本船は、1921年4月5日に進水し「橘丸」と命名、6月7日に竣工した。本船は日本の近代タンカーのさきがけと目され、その建造は播磨造船所のタンカー建造所としての名声の出発点となった。同型船として「満珠丸」と「干珠丸」の建造が続いた。
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建造の経緯
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日露戦争においてロシア帝国海軍は主力艦のほとんどを喪失した。これを受けて、海軍再建のため、1908年度に帝政ロシア海軍10ヵ年計画が開始された。この計画により建造された最初の弩級戦艦のクラスである。一般的な資料では「イタリアの造船官ヴィットリオ・クニベルティの設計によるイタリア戦艦「ダンテ・アリギエーリ」(Dante Alighieri)の影響を受けている」とよく書かれるが、実際はテゲトフ級戦艦と同じく、ドイツ式の設計の船である。ロシア帝国海軍はイギリス、ドイツ、イタリア、アメリカ合衆国に技術協力を求め、1907年に国内も含め27社51種の設計案を受け取った。この内、ドイツのブローム・ウント・フォス社とイタリアのクニベリティ造船士官の案が有力候補となったが、国内で改めて新設計する事に決定した。これがガングート級となったのだが、その設計にはクニベリティ案の影響が大きく見られると「一般には」言われる。その理由として、ガングート級とイタリア初の弩級戦艦ダンテ・アリギエーリ級には非常に多くの類似性がある事が指摘される。 露海軍は、引き続き弩級戦艦インペラトリッツァ・マリーヤ級およびインペラトール・ニコライ一世級、超弩級戦艦クラスの14インチ砲を採用したボロディノ級巡洋戦艦の建造に着手するのだが、これらは全てガングートの基本設計プランの域を出ず、前級の不具合を次級に持ち越す上に更なる問題点を生み出すレベルのものであった。(ロシアは前弩級戦艦のときでもそれを行い、原設計を出したフランスに責任を押し付けている)即ち「ロシア帝国海軍の弩級戦艦はイタリアのクニベリティ式の流れを汲むもの」と言われる所以となったのである。しかし、各国の艦艇研究者たちがこの時の設計案を見聞した上で、この定説を流布しているとは考えにくい。 ガングート級の竣工時とダンテ・アリギエーリ級を比較すると 平甲板型の船体に、4基の三連装主砲塔を等間隔に並べ、背負い式を採用していない。 と言う、外見的特長の共通点が最も目を引き、それ以上の思考的発展性を欠いてしまいやすい。しかし、この二戦艦には見逃す事の出来ない差異がある。それは、艦橋や機関部の配置である。ガングート級は平甲板型の船体に、艦首から前向きの1番三連装主砲塔、艦橋、棒マスト型の主檣、第1煙突、後向きの2番主砲塔、第2煙突、前向きの3番主砲塔、クレーン、棒マスト型の後檣、後向きの4番主砲塔の順で配置されている。それに対し、ダンテ・アリギエーリ級は衝角構造の艦首から第1甲板に前向きの1番三連装主砲塔、箱型艦橋、2本煙突に組み込まれた棒マスト型の主檣、一段分甲板が下がって前向きの2番主砲塔と3番主砲塔、2本煙突に組み込まれた棒マスト型の後檣、後向きに配した4番主砲塔の順に配置される。副砲は前者が全てケースメイト(砲郭)配置、後者が連装砲塔4基+ケースメイト配置の混合である。こうして見ると、波が穏やかで暗礁の多いバルト海で使うために、凌波性を考慮するよりも吃水を浅くしている前者と、必要ならば大洋に繰り出せるよう凌波性を確保するために艦首甲板を持ち上げた分、吃水が深くなるのを堪えた後者との違いが見える。ちなみに前者の思想は同世代のドイツ弩級戦艦ナッソー級とヘルゴラント級にも見られる。では、ガングート級のモデルとなった国はどこであろうか。 ここで、先述の「ブロームウント・フォス社」案を説明する。最終選考に残った627-F案は、長船首楼型の船体に、第1甲板に前向きの1番三連装主砲塔、艦橋、主檣、第1煙突、後向きの2番主砲塔、第2煙突、後向きに配した3番主砲塔、後檣、後向きの4番主砲塔、一段下がった後部甲板の順である。こうしてみると、3番主砲塔の配置以外は驚くほどガングート級との類似点が見付かる。あわせて、クニベリティ造船士官の案も説明する。第1甲板に前向きに1番、2番三連装主砲塔を前向きに「並列に2基」、艦橋、主檣、一段下がって第2甲板から3番、4番主砲塔を前向きに「並列に2基」、第2煙突、4番、5番主砲塔を後向きに配した背負い式配置に2基の「三連装砲塔6基計18門22,000トン戦艦」を提出していたのである。僅か22,000トンの船体に18門もの主砲を装備した戦艦はカタログデータ的には魅力的だが、実用性に問題があるために却下されたといわれている。以上、これが欧州で知られている「ガングート原案」にまつわる最も新しい研究データである。
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建造の経緯
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「シャルンホルスト級戦艦」の記事における「建造の経緯」の解説
ドイッチュラント級装甲艦に対抗するという名目でフランスが中型戦艦ダンケルク級を発表し、1931年から建造に着手した事により、ドイツ海軍ではそれに対応すべく、同年にドイッチュラント級をより大型化した4、5番艦の開発を決定した。両艦は排水量20,000トン、全長230m、速力29ノット、主砲28cm砲6門(3連装砲塔2基、4連装砲塔計8門に変更可)、副砲15cm砲8門の仕様により、「装甲艦D」(Panzerschiff D、エルザース代艦)及び「装甲艦E」(Panzerschiff E、ヘッセン代艦)として1934年1月25日に発注され、同年2月14日にヴィルヘルムスハーフェン海軍工廠及びキールのドイチェヴェルケ造船所にて起工した。しかしその間に、3連装砲塔を3基備える更に大型化された設計案をアドルフ・ヒトラーが承認したことから、早くも7月5日にこれらの建造は取り消された。 1935年のヴェルサイユ条約の破棄を受け、両艦の計画は、基準排水量26,600トン、速力30ノットの中型戦艦として再開始された。主砲塔数は3基となり旧計画より攻撃力が向上し、ドイッチェランド級3番艦まで採用されていたディーゼル機関は信頼性と高速発揮に不安があるために搭載を見送り、前大戦時からの技術的蓄積がある重油専焼高圧缶と蒸気タービン機関の組み合わせに変更された。 船体の基本構造は設計期間短縮の為に第一次世界大戦時に設計された巡洋戦艦マッケンゼン級の設計を一部流用、しかし、ドイッチュラント級で採用された「舷側・艦底部の3重構造」や巧妙な機関配置は継承されず対艦防御・水雷防御を結果的に低下させた。
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建造の経緯
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南米西海岸航路は往路に中南米諸国への移民を輸送し、復路にチリの硝石や銅、コロンビアのコーヒー豆を輸送するための航路として開かれ、大正時代にはこの航路を第二東洋汽船株式会社が独占していた。しかし、1926年(大正15年)3月に第二東洋汽船が日本郵船と合併すると、この航路の権利は日本郵船に譲渡され、第二東洋汽船によって運航されていた「樂洋丸(楽洋丸)」、「銀洋丸」、「墨洋丸」、「安洋丸」の4隻も日本郵船に譲渡された。しかし、1913年(大正2年)製の「安洋丸」は老朽化していたため、代替として1隻のみ船が新造されることになった。 「平洋丸」を建造したのは大阪鐵工所である。大阪鐵工所が日本郵船向けの船を建造するのは明治時代以来で、入札の際には政府の後押しもあったとされている。なお、「平洋丸」は当初「福洋丸」と命名されたが、完成前の7月に名を平洋丸に改めている。
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建造の経緯
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戦艦と、同数の装甲巡洋艦をもって艦隊主力とすることは日清戦争後の第一、第二期拡張計画ですでに根本方針であり、日露戦争ではその真価が発揮された。 日露戦争以降の日本海軍は、それまで英国にのみ頼ってきた主力艦を自国で建造すべく研鑚を重ねていたが、1906年にイギリス海軍により画期的戦艦ドレッドノート、さらに1908年にドレッドノート同様の戦闘力を持つ巡洋戦艦インヴィンシブルが発表されると、従来の主力艦は軒並み時代遅れとなってしまった。これは装甲巡洋艦筑波型・鞍馬型・戦艦薩摩型・河内型といった国産新鋭装甲巡洋艦・戦艦についても同様であった。これにより日本独自の技術だけでは超弩級戦艦・巡洋戦艦時代の建艦競争に勝てないことが明らかとなった。 戦艦薩摩型・河内型合わせて4隻で第一戦隊を編成すれば筑波型や鞍馬型は装甲巡洋艦としては無価値であり、やや防御力が劣る戦艦としての価値しかなくなった。そこで日本海軍としては1906年(明治39年)から1907年(明治40年)にかけて戦艦8、装甲巡洋艦8の八八艦隊を完成したいと強く要望を出し始めた。当初は排水量約18,000t、速力25kt、主砲12in8門と、イギリスの巡洋戦艦インディファティガブルに近い4隻の装甲巡洋艦が計画され、まず3隻が1906年の予算で要求されたが否決された。 その後戦利艦の損傷復旧、国内建造主力艦の工事遅延、「安芸」や「伊吹」のタービン推進改造などでなかなか着手できず、また急激に進歩する英米独の主力艦に目を見張り設計がまとまらなかったため計画は遅れ、やっと1910年(明治43年)に予算が通過した。 特に海軍が着目したのは巡洋戦艦ライオンであり、海軍は18,000t級で従来進めていた巡洋戦艦の計画を放棄し、英国の進んだ建艦技術を学ぶべく主力艦建造を英国に依頼、その設計を基に日本国内でも建造を行うこととし、当時「伊号装甲巡洋艦」として計画中だった艦の建造を英国ヴィッカースに発注することとなった。これが1番艦「金剛」で、同型艦はそれぞれ2番艦「比叡」を横須賀海軍工廠、3番艦「榛名」を神戸川崎造船所、4番艦「霧島」を三菱長崎造船所で建造と、初めて民間に主力艦建造が為され、同型主力艦4隻を同時に建造できる態勢を整えた。「榛名」と「霧島」は、初の民間による戦艦建造ということもあって両社の対抗意識はすさまじく、熾烈な競争となった。榛名の公試運転の時期に、運転をわずか数日延期せねばならなくなり、工事の最高責任者であった川崎造船所造機部長はなすべき処置を全て行なった上で帰宅し、その夜自刃した。榛名の公試は延期になり、起工と進水は吉日を選びかつ進水は大潮前後でなければならないことから前後はしたものの、工事の進捗は全く互角であり、無事に予定通り完成した。 金剛型の設計はヴィッカースの軍艦設計部長のサー・ジョージ・サーストン(英語版)により詳細設計が進められていた、オスマン帝国海軍向けの戦艦レシャド5世(エリン)を基に巡洋戦艦化することで行われた。当時英海軍最新鋭にして世界最大最強の巡洋戦艦であったライオン級巡洋戦艦を基に行われたとする説もあるが、サーストン自身が「『金剛』は『エリン』の巡洋艦版」と述べている点等から誤りとされる。 主砲は当初30.5cm(12in)50口径連装砲塔5基を予定していたが、35.6cm(14in)45口径連装砲塔4基なら重量にほとんど差がないこと、さらには30.5cm50口径砲は砲身のブレから命中率が低く、また高初速のため砲身命数が極めて短いという欠陥が明らかになったことなどから、金剛型では35.6cm連装砲塔を4基搭載することとした。 また副砲もレシャド5世(エリン)が15.2cm(6in)砲16門に対して金剛型も同じく15.2cm砲16門を搭載、さらにはレシャド5世(エリン)の4番砲塔と後部艦橋構造物を撤去することで金剛型の3番砲塔の射角を増し、もしくはレシャド5世(エリン)の3番砲塔を撤去し4番砲塔と後部艦橋構造物を前方にずらすことで、手本となったレシャド5世(エリン)より砲塔が1基少ないにもかかわらず、レシャド5世(エリン)と同等の後方に4門指向できた。さらに、35.6cm砲は当時世界最大の巨砲であり、金剛の竣工は同砲を搭載するアメリカ海軍の戦艦ニューヨークよりも早かったため、誕生時にはまさに世界最強の巡洋戦艦であった。 ライオン級は、3番主砲塔と4番主砲塔との間に煙突などの構造物があり、後方へ向けての射撃力は金剛型に比べ劣っていた。そこで英海軍では、建造中であったライオン級4番艦「タイガー」の設計を見直し、金剛型と同様の主砲配置に変更するという一幕もあった。ただしこれをもってタイガーを金剛型の改良型とする説は誤りである。 金剛型の速度は27.5kt(竣工時)でライオン級を若干上回っていた。ライオン級と比べての欠点は防御力(装甲の厚さ)が若干下回っていることだが、もとよりライオン級はそれまでの巡洋戦艦よりも高い防御力を持っており、大きな欠点とはみなされなかった。またこの金剛型は当時高速な巡洋戦艦を欲していた軍令部の悲願でもあった。 なお「金剛」計画時、海軍は帝国議会により戦艦1隻・装甲巡洋艦4隻建造を認可されていたが、日露戦争以来、英海軍のフィッシャー提督の提唱と同様、日本海軍でも「速度こそ最大の防御」とする考えが強く、結果として装甲巡洋艦(巡洋戦艦)4隻の建造に踏み切った、と言われている。ただし巡洋戦艦にしては極端な装甲防御力の軽視には至っていない。
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建造の経緯
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詳細は「神州丸#建造の経緯」および「陸軍特種船」を参照 島国である日本の地理的条件、第一次世界大戦の戦訓(ガリポリ上陸作戦)、在フィリピンのアメリカ(極東陸軍)を仮想敵国とする大正12年帝国国防方針によって、1920年代の早くから上陸戦に関心のあった帝国陸軍は、同年代中期には上陸用舟艇として小発動艇(小発)・大発を実用化。更に1930年代初期には従来の「宇品丸」以下一般的な軍隊輸送船と異なり、多数の上陸用舟艇をその先進的な舟艇格納庫に搭載し、主に船尾から迅速かつ安全に発進可能な舟艇母船を開発、その「R1」は設計の手直しを経て1933年(昭和8年)4月8日に起工、「神州丸(神洲丸)」と命名され翌1934年(昭和9年)12月15日に竣工した。揚陸艦たる通称特種船「神州丸」は優秀な舟艇運用能力だけでなく、上陸部隊の支援を目的とする航空機運用能力をも有しており、その発進にはカタパルトを使用していた。 完成した「神州丸」は錬成を重ね、各演習のみならず1937年(昭和12年)に勃発した支那事変の各上陸戦・輸送任務でその能力を遺憾なく発揮し大活躍。この「神州丸」の成功により、陸軍は更なる上陸戦対応能力の強化を図るべく特種船の増産を計画するに至った。 なお、陸軍がこれら本格的な揚陸艦を開発・保有した背景について、当時の海軍は戦闘艦の整備に傾注し、揚陸艦といった支援・補助艦艇の開発には極めて消極的で、近代戦において進化する上陸戦のみならず遠隔地への軍隊輸送・海上護衛(船団護衛)に対して理解が無く、揚陸艦のみならず上陸用舟艇・上陸支援艇の開発・保有は必然的に陸軍が行う必要があった事に留意しなければならない。かつ、陸軍が海軍とは別に(揚陸や輸送を目的とする)独自の船舶部隊(陸軍船舶部隊)を保有する事は、日本だけでなく同時期のアメリカ陸軍でも大々的に行われていた行為である。 支那事変の実戦に先駆け1936年(昭和11年)8月には既に特種船の増産が要望されていたが、1938年(昭和13年)10月に陸軍中央はそれを決定。翌1939年(昭和14年)には海軍と協議を行い具体的な増産計画を定義した。予算の制約により、大量の特種船を「宇品丸」・「神州丸」のような陸軍省保有船(陸軍船)として維持する事は難しいため、陸軍は戦時の徴用を前提として民間海運会社に補助金を出し、建前上とはいえ特種船を民間籍の商船として建造する事とし、平行して各海運会社・造船所とも協議を重ね9隻・80,000tの建造を計画。その計画量産特種船は船型によって大別して以下の通りとなる。 甲型 - 10,000t級貨客船型(のちの戦時標準船M型構造はM甲型と称す) 甲(小)型 - 5,000t級砕氷貨物船型(乙型とも) 丙型 - 10,000t級航空母艦型(甲型・甲(小)型と異なり航空機運用能力を有す、のちの戦時標準船M型構造はM丙型と称す)丙型は平時は第1形態として一般商船型の構造物を甲板上に有し、戦時にはそれを撤去し飛行甲板を装着し第2形態となる。 前身の「神州丸」はその外観が極めて特異であり、(秘密兵器である特種船の)秘匿・防諜の観点から好ましくないため、これら量産特種船の船型は一般商船型とされ本来は空母型である丙型も当初は商船型構造物を有す事になっている。
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建造の経緯
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明治維新後、日本でも電信通信網の整備が開始された。日本の対外電信線の敷設はデンマークの大北電信会社が免許を受け、1882年(明治15年)以降は独占特許となっていたため、国内線のみが日本の逓信省の手によって整備されることになった。 島国である日本では、国内電信線でも海底ケーブルの敷設が必要であった。最初の国内海底ケーブルとなったのは、1873年(明治6年)に東京・長崎線の一部として関門海峡に敷設された赤間関横断線である。まだ海底ケーブル敷設船が日本に無かったことから、お雇い外国人の指揮する小型蒸気船電信丸で団平船(平底の和船)を曳航して敷設作業を行った。津軽海峡横断線の敷設は1本目を大北電信に工事委託したが、2本目は灯台見回り船明治丸を臨時の敷設船に改装して用い、1890年(明治23年)に日本人の手により敷設を成功させた。その後、灯台見回り船灯明丸(374トン)も改装して海底ケーブル敷設に利用されたが、明治丸も灯明丸も敷設能力は小さなものだった。 こうした中、日清戦争で日本が台湾を獲得すると、台湾への海底ケーブルによる電信敷設が急遽必要となった。そこで、1895年(明治28年)、日本最初となる本格的海底ケーブル敷設船の建造が決定され、イギリスのグラスゴーにあるロブニッツ社(en)へと発注が行われた。新造船は翌1896年(明治29年)2月18日に進水して沖縄丸と命名、同年4月10日に竣工した。船名の由来は台湾への経由地である沖縄県といわれるが、「沖の縄」で海底ケーブルの意味だとする説もある。
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建造の経緯
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新日本海フェリーは関西〜北海道を結ぶべく1969年(昭和44年)に設立され、1970年(昭和45年)7月31日に9,365tと当時世界最大のフェリーとなる「すずらん丸」を建造した。この航路は冬季の日本海でも欠航しないよう10,000tクラスの船を前提としていたが青函連絡船の逼迫を背景として商業的に成立するということであえてこの大きさで建造したものである。舞鶴〜小樽26時間をうたい文句としていたが、予定通りの性能が出ず運航時間は30時間、次いで採算性も考え32時間で運航していた。 舞鶴〜小樽航路はサービスとしては問題もあったにしろ、たちまちに人気を集め冬も欠航せず好成績となった。このため急遽建造が決定されたのが「フェリーはまなす」である。しかし当時の京都府知事蜷川虎三は舞鶴入港を拒否したが、1972年(昭和47年)5月7日の完成直後に一転して舞鶴入港が急遽認められた。舞鶴〜小樽航路は週2便から週4便に増強され、冬に京阪神で消費されるジャガイモやたまねぎのほとんどはこの航路で運ばれているといわれた。当初から寄航していた敦賀に加え、さらに新潟寄航も決定し、1973年(昭和48年)7月には第3船となる「フェリーあかしあ」も就航した。
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建造の経緯
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「ヴィクラント (空母・2代)」の記事における「建造の経緯」の解説
元々「先代ヴィクラント」の後継艦として推進されていたが、1990年ごろに予算不足で立ち消えになった国産空母建造計画がベースである。建造計画が白紙になった後、先代「ヴィクラント」が退役しインドの保有空母が「ヴィラート」1隻のみとなったことによる洋上航空兵力の低下を受け、建造計画を見直した上でADS(Air Defence Ship, 防空艦)計画として復活し、IAC-1(Indigenous Aircraft Carrier 1、国産空母1号)の計画名で建造されることとなった。 当初は満載排水量17,000トン程度の軽空母を建造する計画だったが、度重なる計画見直しにより最終的には満載排水量37,500トン(40,000トン説有り)の、通常動力型としては比較的大型の空母に拡大した。また当初、艦載機にはハリアー IIを想定していたが、後にMiG-29Kを搭載するSTOBAR方式の空母に設計が変更された。これはインド海軍のSTOVL機運用経験や「ヴィクラマーディティヤ」の導入経緯が影響していると言われている。 2004年に建造契約が締結され、2005年4月11日からコーチの造船所で材料の切り出しが始まった。2008年に竜骨を据え付けて正式に起工する予定であったが、この時点で建造は遅れ始め、2009年2月28日に起工式が開催された。ヴィクラントの建造は、インド海軍が2008年採択した「2015年から2030年までのインド海軍国産化計画」に基づき、コーチン造船所(英語版)をはじめ200社の国内企業が建造に関与する一大プロジェクトとなった。起工後、ヴィクラントは2010年進水、2013年就役を予定していたが、造船所のインフラが不十分なことや、ロシア製の鋼材の製作遅延による国産品への代替と生産ラインの用意、品質のばらつき、さらに減速ギヤボックスをはじめとする各種搭載機器の不調 などにより、建造計画の大幅な遅延が発生した。2012年6月には、他の船の建造のためドックを空ける必要があり、建造途中でドックより引き出された。2013年8月12日にヴィクラントの進水式が行われた。しかし、この時点では飛行甲板などの艦上構造物はおろか船体後部も未完成であったため、隣の整備用ドックに移されて建造が進められ、2015年6月10日に改めてドックアウトした。以降、艤装作業が進められたが、当初は326億1000万ルピーだった建造費が2015年半ばに6倍の1934億1000万ルピーにまで高騰している。艤装品の調達に時間がかかり、2014年には2019年の就役に延長された。その後もロシア製艤装の調達遅れから、2016年11月の会計検査院の見解では、完成に2023年まで延びる可能性が指摘された。 2019年11月には追加資金の投入で工程の加速が図られ、12月に乾ドックで行われる作業が完了した。2020年2月には艤装の工事が完了し、IAC-P71の主要な装備艤装などのマイルストーンを達成したとコーチン造船所は発表した。また同時に、主要なシステム等の試験を進めており、2020年末に海上公試を行うと発表されたが、予定は順延された。2021年8月4日、南部ケーララ州沖で試験航行が開始され、2022年の就役が予定されているが、配備先となるアンドラ州のヴァルシャ海軍基地の竣工が間に合わないため、付近の造船所の埠頭を仮の定係地にする予定である。
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建造の経緯
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「S-56 (潜水艦)」の記事における「建造の経緯」の解説
潜水艦の建造は1936年11月24日、レニングラードのアンドレ・マルティ造船工場(1992年3月30日以降は国家企業アドミラルティ造船所)において着工された。潜水艦はブロックごとに鉄道で最終的な組み立て地であるウラジオストク、第202号工場(ヴォロシーロフ記念ダリザヴォート)へと搬送され、1939年12月25日進水した。隊伍に加わったのは1941年10月20日だった。1941年10月30日、この潜水艦に戦術番号が与えられ、S-35は正式に太平洋艦隊の一員となった。翌、31日には甲板にソ連海軍旗が掲げられた。
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「パシフィック級哨戒艇」の記事における「建造の経緯」の解説
詳細は「太平洋哨戒艇計画」を参照 1982年に国連で国連海洋法条約が採択された結果、各国は沿岸200浬に及ぶ排他的経済水域を持つこととなった。しかし、南西大西洋の島嶼国のほとんどは、この広大な海域の監視・取締りを行う機材や人材、ノウハウそして資金を持っていなかった。 このため南太平洋諸国は1979年から、オーストラリアとニュージーランドに対し、地域の海上警察力整備に対する協力を求めていた。オーストラリア政府はこれに応え、防衛協力計画(Defence Cooperation Project)を策定し、その中の太平洋哨戒艇計画において、警備用哨戒艇と要員教育を提供することとした。この警備用哨戒艇がパシフィック級哨戒艇である。 オーストラリア造船工業社(現在のテニクス・ウエスタン・オーストラリア)が設計および全艇の建造を行った。使用国の運用要求や建造時期によって、設計には若干の差異が生じている。
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「陸軍特種船」も参照 上陸用舟艇は、波打ち際に乗り上げて将兵や装備を揚陸するために、吃水が浅く小型であるものがほとんどである。このため外洋航行力に乏しく、根拠地から上陸地点までは他の母船によって運ばれる必要がある。戦間期当時の上陸用舟艇母船は宇品丸(陸軍省所有船)のように一般の貨物船(軍隊輸送船)と大差無いもので、上甲板に舟艇を搭載し、デリック・ガントリークレーン・ボートダビット・ホイスト等で泛水(へんすい・海面に降ろすこと)させる方式をとっていた。泛水時には基本的に舟艇は空船で、将兵は泛水後に母船の舷側に垂らされた縄ばしごを伝って舟艇に乗り込み、火砲や車輛、馬匹等はデリックで舟艇内に吊り降ろしていた。この方式は舟艇が多数の場合に時間がかかるほか、波浪の状態によっては泛水・乗船・積載が難しく、また将兵等が移乗時に落下する危険性もあるため迅速な上陸戦を行うのに不向きであった。 島国である日本の地理的条件、第一次世界大戦の戦訓(ガリポリ上陸作戦)、在フィリピンのアメリカ軍(極東陸軍)を仮想敵とする大正12年帝国国防方針によって、1920年代より上陸戦に関心のあった帝国陸軍はその研究に力を入れており、同年代中期から1930年代初期にかけて機能的な上陸用舟艇である小発動艇(小発)・大発動艇(大発)の各型を実用化していた。それらが投入された1932年(昭和7年)3月1日の第11師団による七了口上陸作戦(第一次上海事変)は成功裏に終わったが、戦訓として以下の問題が明らかとなった。 在来の泛水方式では上陸に時間がかかり奇襲効果が乏しいこと。 敵前の洋上で輸送船より舟艇に移乗するため危険なこと。 水深が浅いため小型輸送船しか使用できず、そのため積載艇の種類が限られその数も少なくなること。 また、第一次上海事変での戦訓のほか、1932年6月に行われた陸軍将校らの日出丸(栃木商事、5,256総t)による南洋群島巡航が開発の契機になったとの見方もある。 これらの経緯から、上陸用舟艇を大量に積載可能で人員や装備を乗せたまま連続的に泛水できる新鋭の舟艇母船(揚陸艦)の開発を開始、当初は軍隊や物資の輸送を担当する官衙たる陸軍運輸部の独力で着手していた。なお、陸軍が本格的な揚陸艦を開発・保有した背景については以下の点にも留意しなければならない。 当時の日本海軍は予算不足のため戦闘艦の整備に傾注せざるを得ず、揚陸艦のみならず上陸用舟艇・上陸支援艇の開発・保有を含めた補助艦艇を開発する余裕がなかった 軍令部は船団護衛を担当する護衛駆逐艦や海防艦を多数量産することを検討したが、世界恐慌による予算不足で立ち消えとなった。 ③計画においてやっと占守型海防艦4隻の建造が認められたが、今度は支那事変(日中戦争)で予算を削られて海防艦量産計画は頓挫してしまった。 近代戦において進化する上陸戦のみならず遠隔地への軍隊輸送・海上護衛(船団護衛)への理解不足。しかし後述するように、本船は陸軍と海軍が協力して開発しなければ誕生しえなかった。 かつ、陸軍が海軍とは別に(揚陸や輸送を目的とする)独自の船舶部隊(陸軍船舶部隊)を保有する事は、日本だけでなく同時期のアメリカ陸軍でも大々的に行われていた行為である。 計画・開発されたこの舟艇母船は、従来の単なる輸送船とは全く異なり以下の大きな特徴があった。 船内に舟艇格納庫を有し大量の大発等の舟艇を搭載、船尾泛水装置等により安全・迅速に一挙に進水可能。 偵察・爆撃機をいわゆる艦載機として搭載、上陸部隊の支援用として多数を運用可能。 これら極めて先進的な機能を有する艦船は、神州丸が世界初であった。航空機の運用能力を有する点では強襲揚陸艦の先駆的存在でもあり、神州丸の航空機運用能力を全通飛行甲板の形で発展させた後続のあきつ丸は、船型においても現代の強襲揚陸艦に近いものであった。 神州丸と同じように兵員・重装備を搭載した状態の上陸用舟艇多数を急速発進させる能力を備えた揚陸艦は、日本以外では、神州丸の起工の約9年後である1942年(昭和17年)に起工・進水された世界初のドック型揚陸艦であるアシュランド級1番艦のアシュランド(ドックは露天型)まで現れなかった。同艦は、露天型ながらウェルドックという神州丸とは全く異なる設計で舟艇母船機能を実現し、その後の主流となった。イギリス軍においては1940年(昭和15年)に、1917年(大正6年)建造の鉄道連絡船「TF-1」および「TF-3」を徴用、1941年(昭和16年)に前者はアイリス(更に1942年にプリンセス・アイリスへ改名)後者をダフォディルと命名し、神州丸と同じように艦尾滑り台から舟艇を降ろすスターンシュート型揚陸艦(LSS:Landing Ship Sternchute)に改装・就役させているが、あくまで老朽鉄道連絡船の設備を流用した脆弱なものであり、のちにはアメリカから供与された本格的なカサ・グランデ級(アシュランド級の主機を変更した準同型艦)を運用している。
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建造の経緯
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日本郵船は1921年(大正10年)までに箱根丸級の4隻を欧洲航路に就航させていたが、ヨーロッパ各国の競合他社が同航路に新型の大型客船を導入するにつれて、日本郵船の集客率に影響が出始めた。 そのため、日本郵船は欧洲航路の中でも特に旅客重視であったロンドン航路を強化すべく、1929年(昭和4年)に12,000トン級の照国丸と靖国丸の2隻を建造し、起死回生を図った。
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北太平洋で展開されたアメリカ合衆国やカナダとの貨客船による競争の一環として、浅間丸は三菱造船長崎造船所(現:三菱重工業長崎造船所)で建造された2隻の浅間丸級貨客船のうちの1隻である(もう1隻は龍田丸)。また、設計が異なるが秩父丸も姉妹船として扱われた。 当時の欧米の主力船に比べその規模こそ小さかったものの、食堂の内装にはふんだんにイタリア産大理石が使われ、客室内には当時欧米製の最新鋭の艤装品が使われるなど、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}まさに当時の日本の「フラッグシップ」と呼ぶにふさわしいものであった。そのねらいは主な顧客層を欧米人に絞込み、従来のオリエンタリズムの設備やサービス行うのではなく、欧米の客船と同質がそれ以上の水準で、ライバル会社に打ち勝とうとする戦略であった。[要出典] しかし主要な艤装品は欧米製であったため、一部には「日本の造船所で建造した外国船」という評価を付けられてしまった。[要出典] ちなみに日本郵船内の船種分類は「客船」であり、クリスタルハーモニー就航まで浅間丸型が唯一の分類であった。 1927年(昭和2年)9月10日、浅間丸は起工。1928年(昭和3年)10月30日、進水。1929年(昭和4年)9月15日、竣工。
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文化・文政(1804年~1831年)の幕末の頃、薩摩藩の財政は非常に困窮しており500万両の借金があった。時の家老調所笑左衛門広郷は、指宿の豪商浜崎太平次と計り財政再建策(薩摩藩の天保改革の一環)として、この地に寒天製造工場を設けた。この地を選んだのは、寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと考えられている。薩摩藩の天保改革により、天保11年(1840年)には、薩摩藩の金蔵に200万両の蓄えができるほどにまで財政が回復した。 最盛期は、三世太平次が支配人に任ぜられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと考えられる。
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建造の経緯
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1930年代後半に、日本陸軍は、既存の上陸用舟艇である大発動艇(大発)より航洋性に優れた、戦車揚陸用の船舶の研究を始めた。海上トラックと呼ばれた小型貨物船を原型として開発が進められ、「五郎丸」や「よりひめ丸」などの改造実験などを経たのち、太平洋戦争勃発後の1942年(昭和17年)4月に試作艇の「蛟竜」が播磨造船所において竣工した。八九式中戦車10両を搭載する能力を持ち、外見は通常の海上トラックと同様であるが、上陸時には船首部分がアメリカ軍のLST同様の観音開きになり、船内から渡し板が繰り出されるようになっていた。渡し板の構造は電動折りたたみ式の複雑なもので、小型の船体のわりに長い渡し板を使用できる利点がある一方で、あまり信頼性は高くなかったと言われる。連合軍側の揚陸艦艇では中型揚陸艦(LSM)に相当する規模である。速力は航海速力13ノット、最大14.5ノットであった。 「蛟竜」の運用試験の結果、改良されて若干大型化した「蟠龍」が建造され1943年(昭和18年)7月末に完成した。改良の内容としては、当初の戦車揚陸専用から歩兵などを含む諸兵科連合部隊の上陸作戦用に用途が変更され、歩兵用の小発動艇が搭載されたこと、上陸部隊援護用の軽迫撃砲が装備されたこと、ソロモン戦の戦訓をもとに自衛武装の強化が図られたことなどである。乗員は40名で、輸送能力は20トン級の中戦車4両とトラック1両、兵員170名、弾薬・糧食3週間分であった。大型化したため速力は航海速力12.7ノット、最大13.7ノットに低下した。 この蟠龍を基本として量産型の建造が行われた。建造は戦時標準船の亜種として計画造船に組み込まれ、戦時標準船のうち海上トラックにあたる小型貨物船のE型に準じ、ES型と分類された。そのため、海軍では、機動艇のことをES船と呼ぶことがあった。陸軍では、蛟竜から量産艇にいたるまでの総称としてSS艇(Sは戦車の頭文字に由来)と呼んでいた。 以上のような陸軍開発の機動艇のほかに、海軍が開発した類似船である第百一号型輸送艦(二等輸送艦)の移管を受け、機動艇として使用したものがある。これは、陸軍独自に開発したSS艇と区別するためにSB艇(Bは海軍船を指す記号)と呼ばれた。用途や船体規模は近似するがSB艇のほうがやや大型で、船首構造が平面構成になっていることや、従来のディーゼル機関ではなくタービン機関を使用していることなどが異なっている。SS艇と同じように部隊配備された。
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建造の経緯
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貨車積載能力の大きい第一青函丸就航により、青函航路の貨車航送能力は増強されたが、それにつれて貨車航送の需要も増加していった。しかし、第一青函丸ではタービンのトラブルが多く、いったん休航すると、その積載能力が大きいだけに影響は甚大であった。 このため建造されたのが、第一青函丸の改良型の車両渡船第二青函丸であった。
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建造の経緯
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1880年代後半に日本の仮想敵国であった清国は定遠級「定遠」と「鎮遠」の2隻のドイツ製戦艦を就役させた。この2隻は常備排水量7,144トン、主武装はクルップ製 30.5cm連装砲2基などであった。これに対し、当時日本海軍が保有していた「扶桑」は常備排水量3,717トン、主武装はクルップ 24cm単装砲4基などで劣勢は明らかであった。 艦級常備排水量主武装速力舷側装甲甲板装甲戦艦「定遠」 7,144トン 30.5cm(20口径)連装砲2基4門 14.5ノット 356mm 76mm 装甲艦「扶桑」 3,717トン 24cm(20口径)単装砲4基4門 13ノット 231mm 0mm 金剛型コルベット 2,250トン 17cm(-口径)単装砲3基3門 13.7ノット 137mm 0mm 浪速型防護巡洋艦 3,709トン 26cm(35口径)単装砲2基2門 18ノット 0mm 76mm 松島型防護巡洋艦 4,278トン 32cm(35口径)単装砲1基1門 16ノット 0mm 40mm 砲艦「赤城」 622トン 12cm(-口径)単装砲4基4門 10ノット 0mm 0mm そのため、日本は「定遠」と「鎮遠」に対抗できる戦艦の建造を計画したが、予算が付かなかったため建造できずにいた。1892年、11400トン級の戦艦の建造が計画されたものの、又も予算不足で廃案になりかけた。だが、翌年に明治天皇が宮廷費節約、公務員の俸給1割減という勅令を出しようやく予算が確保された。建造はイギリスに発注され、「富士」はテムズ造船所、「八島」はアームストロング社エルジック造船所で1894年に起工されたが竣工は1897年で日清戦争には間に合わず参加できなかった。
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建造の経緯
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榛名は当初「第二号装甲巡洋艦」として計画され、1911年4月、神戸川崎造船所(のちの川崎重工業)に発注された。それまで海外発注か海軍工廠でしか建造されることのなかったいわゆる主力艦としては初めて民間造船所に建造発注された艦である。一方、三菱合資会社長崎造船所(のちの三菱重工業)にも「第三号装甲巡洋艦(後の金剛型戦艦四番艦・霧島)」が発注され、工程の進捗状況がほぼ同時であったことから、両社は激しい競争意識をもって建造に当たることになる。川崎造船所は榛名の建造に先だってドイツ設計の大型ガントリークレーンや、艤装用のイギリス製大型クレーンを購入するなど、将来の大型軍艦建造を見据えた準備を行っていた。 榛名は1912年(明治45年)3月に起工し、1913年(大正2年)12月に進水した。工事もかなり進んだ1914年、1つの悲劇が起きた。この年の11月18日に機関の繋留試運転が予定されていたが、直前に故障が見つかったため予定が6日遅れることとなった。本来であれば試運転が実施されるはずだった18日の朝、機関建造の最高責任者であった川崎造船所造機工作部長・篠田恒太郎(しのだ・こうたろう)が自刃してしまったのである。遺書などはなかったが、繋留機関試験遅延の責を感じた上だということは明らかであった。当時の軍艦建造は、それほど重大な責任感を持って行われていた。 篠田工作部長の死から半年後、巡洋戦艦榛名は同型艦の霧島と同時に竣工、海軍横須賀鎮守府に引き渡された。これ以降、民間造船所でも主力艦の建造が行われるようになる。なお、霧島と同時竣工したのは、篠田工作部長自刃の報を受けた海軍が両社へ配慮を促したためである。
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