車両渡船建造の経緯
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宇高航路でも増大する輸送需要に対応すべく、1936年(昭和11年)には青函航路に準じた大型の車両航送システム導入を決定していたが、戦争のためやむなく中断していた。 戦後の急激な輸送需要増大で、中断していたこの大型車両航送システム導入計画が復活し、1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)までにこの車両航送システムに対応した1,400総トン級の紫雲丸型車載客船3隻を就航させ、可動橋などの水陸連絡設備完成を待って、1949年(昭和24年)3月から車両航送を行っていた。 しかし低速で、乾舷が低く耐波性に劣る300総トン級の車両渡船第一宇高丸・第二宇高丸を使用する従来からの車両航送システムも併用しており、車両航送能力は未だ不安定であった。そのうえ、1950年(昭和25年)からは朝鮮特需による急激な貨物輸送需要の増加もあり、国鉄は貨車航送能力の早急な増強を迫られ、ここに大型車両航送システム対応の車両渡船建造が決定した。船名は旅客扱いのない純車両渡船ということで、前記の小型車両渡船から連番の第三宇高丸となった。同型船はない。
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車両渡船建造の経緯
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1914年(大正3年)7月の第一次世界大戦 勃発は、その後の大戦景気と、世界的な船腹不足による海運貨物の鉄道への転移をもたらし、従前より貨物輸送力の逼迫していた青函航路は、1918年(大正7年)以降、両港に滞貨の山を築く混乱状態に陥った。このため、当時の鉄道院運輸局船舶課は、輸送力の抜本的増強を目指し、本航路への車両航送導入を図り、1924年(大正13年)末までに 翔鳳丸型車載客船4隻を建造就航させた。当初は、これに引き続き、旅客設備のない車両渡船 1隻の建造も1923年 (大正12年)中の着工予定であったが、同年 9月1日に発生した関東大震災のため、その着工は1925年(大正14年)まで延期された。
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